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by rakudazou

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海外旅行の動機
 遠い昔のような気がしていたが1979年の8月に当時の朝日新聞文化厚生事業団主催の「車イスヨーロッパの旅」に参加した。今から28年前ことでる。
 出かける以前から北欧やヨーロッパの施設は、著名人や福祉に関する偉い人の視察で随分と聞かされていた。日本に生まれて住んでいる私たち障碍者が他の国がどんなに恵まれていようと、日本自体の力でそれらの成果を福祉の中で反映する努力が見られないことにはどうにもならないと、私たちは自分のためだけではなく、多くの障碍者のために試行錯誤しながら、生活を向上させるために自分たちで立ち上がっていろんな運動を展開し、運動の成果がようやくと出て来た頃の時代で、障碍者が真剣に動くと方向性に変化があった。あの頃の障碍者は貧しかったがいきいきとしていた。生活していく実感と団結が強くまとまっていたものだ。
 そんな時、福祉の著名人や議員先生等が視察して来て、特に北欧の福祉は「とてもいい、いい」と褒め称える人々に反感さえ覚えたものである。日本にもいいものがあるのではないかと思い、それなら行って見ようと自分の体験で感じて見ようというのが応募した動機である。

初めての海外
 全国からの応募者の中から選ばれて、障碍者もボランティアも出かける以前に何度かお互いの紹介やボランティアには事業団から半額の旅費の補助が出ていた。
ボランティアとしての自覚や人間性を事前にチェックしてミーティグを持ち、審査員から障碍者とボランティアのペアが決まった。まるでお見合いみたいな風景で、チャンスの作れる人は参加者宅を訪問して事前に人柄や障碍の程度などチェックし相互の理解と友好を深めておくようにとも言われた。d0019913_13431411.jpg
 私に付いてくれた専属ボランティアは九州の医者の娘だった。成田空港で会った時が2度目であったが、写真を撮りまくって何だか落ち着きがない様子に見えた。旅行中に彼女の行動にはいろいろと最後まで問題が多く起きてしまった。

テキパキとした空港の対応 
 当時はアムステルダムのスキポール空港経由でなければ北欧国には行けなかった。その後は直行便でもこの空港に何度か訪れているが、空港スタッフの対応が車イス障碍者、歩行障碍者や高齢者も含めて現場の状況で分けて歩行障碍者や高齢者の人は電気自動車で運んでくれて、スタッフの素早い判断力と行動力には驚くものがあった。
唯、車イストイレだけはドアの幅が広くて縦もとても高く重くて、トイレそのものもこの国の人の基準に合わせてあるので便器の高くてトイレを使用する時には介助が必要であった。
 その後、いろんな国のトイレを使ったが、スキポール空港のトイレの高さは一番と思っているが、その後、空港が新しく改装されたと聞いているので解決しているかもしれない。
空港だけではなく、その当時の王冠のマークのKLMの飛行機の添乗員は男女とも身体がとても大きくて、特に女性のスチワーデスはスカートを膝まで上げて、アッという間に上手に介助してくれて、いつも安心して身を任すことが出来てとても頼もしく思った。

パリの観光
 フランスは観光だけであった。8月だったのでフランス人はバカンスに行っていて観光客だけが多かったように覚えている。セーヌ川から見えるノートルダム寺院や観光船が美しかった。エッフェル塔は車イスでも登れたのには感動した。何人かの介助者有志で自由時間に地下鉄に乗り、降りた駅の近くのレストランで生牡蠣を食べたがとても美味しかったのを覚えている。お水を飲むだけでもレストランに入り、食事を食べる前にチップを取りに来ることには習慣の違いをしみじみと感じた。
シャンゼリゼ通りの広さ、日本来た時、見に行ったモナリザをルーブル美術館で再びめぐり合った。
 ヴェルサイユ宮殿が工事中でフォンテンブロー宮殿の美しい庭を散策した86歳になる最年長者のおじいさんと高知から参加した看護士さんと散策した。店先の色とりどりのお菓子類の豊富さと美しさに感嘆した。ヨーロッパの石畳は車イスには動きにくいと言われていたが、本当に安定が取れなくてガタゴトした舗道を、それでも町並みの風景や買い物などを楽しんだ。

3カ国の施設
 イギリス、オランダ、デンマークは内容の違った施設見学が異なった。あれから年月が経ているので変わっているかもしれないが、オランダのへットドルプとイギリスのチェシャホームは今でも健在だと思う。
 デンマークの幾つかの施設では、母子施設、老人施設、障碍者施設など、先方の用意した施設を見学したが、確かにそれぞれの路線がよく引かれていて、生活保障されていると思った。父親のいない子供を生んでも母親も子供も日中は安心して預けられる施設が完備されて、母親も母子家庭なんて卑下しないで堂々と働けることは恵まれていると思った。子供は「国家の宝」として大切にされていた。d0019913_13443597.jpg
 働ける人からは税金はとても高いが、誰でもその年齢が訪れるとその人の置かれている環境で引かれた路線の中で余生の生活が保障されていことで、貯金の必要がないことは日本との大きな違いを感じた。唯、私の実際のその時の感想は、施設に入所している高齢者施設なども立派であったが、明るさを感じることはなかったのが「本当に幸せなのかな」と生き甲斐とは何なのだろうとずっと心の隅に残ってしまった。

現在の日本の福祉社会の情勢
 日本人は老後のために貯金をしなければならなのか?理解出来ないと言われたが、現在の世の中では、日本の格差がより鮮明になり、お金のある人は安泰な生活が保障されているが、無い人は先々の生活も考えられない「食べられる年金」と称していたが、今はそれらの保障もなくなり、お金の無い者は早く死ねと言わんばかりの格差の激しい社会になってしまつた。これは当時者抜きの行政や企業だけか儲かるような福祉事業や介護システムになっているからである。
 今の日本の繁栄を誰か作ったか、それにしても現在の80代前後の高齢者は戦中戦後、みんな生き抜くためも国益のためにも必死になり働き、家族を守り何らかの社会貢献をして来た事実があるが、上には厚く底辺に生きる人々は希望さえ持つことが出来なくなり、高齢者や障碍者の将来の不安が絶えず生活に影を落とす世の中になってしまったことは国家の悲劇である。
 
北欧はおとぎの国
 コペンハーゲンの市内観光、印象に残っているのはシェクスピァの舞台になったクロンボー城を車イスで散策出来たこと、障碍者専用の海水浴場があり、周囲に気兼ねなく海水浴をたのしむことが出来て、燦燦と陽が入る室内には、床ずれを太陽の陽を浴びて治療出来る場所を見て感激しました。あのアンデルセンで有名な人魚姫が小さく目立たない場所にしつそりとたたずんでいたのが印象的だった。
日本社会の自動車社会とあらゆるコマーシャルや自動販売機が氾濫で慣れていた目には、空港から街の中心に入っても宣伝がひとつも無い風景が色の統一された街並みも一列にきれいに並んでいておとぎの国へ飛び込んだような錯覚をした。ヨーロッパの国々では多くあるが、自動車道路だけではなく、傾斜の無い歩道、自転車専用道路と区別されて作られているのには羨ましいと思った。
 家々にはヴランダや庭に花々が咲き、必ずと言っていいほどに国旗が出でいるのも、その国の民族を強調しているようで気持ちよかった。
昔はお正月だけではなく祭日にはどこの家でも国旗が出されていたのを覚えているが、最近の 日本では来賓でも迎える沿道に両国の国旗が出されているくらいで、国旗を出す風習が無くなってしまったようだ。
 デンマークだけではないが、気候がよくなると一斉に「庭をきれいでしよう」と塀は無く開き放された庭には花が咲き誇り、家の壁塗りや芝生狩りは義務づけられていて、しないと罰金を取られるとのことで見渡す限り雑草の生えている家はなかった。私などが住んだら誰かに頼まないと出来ないと思った。その国々の風習の違いを身近なところで感じた。


日本は高齢者、障碍者にとって住みよいところか
 北欧での体験は帰国後、「私は日本人でよかった!!」言うことである。福祉の先進国として羨ましいと思った反面、幾つかの路線が決められていて、保障はされているが、自由な発言、自由な行動がないのか?決められた路線で考えること何もない゛のか?とにかく、自分で何かを行動しようと言う必要は無いことだけはハッキリと分かった。
 日本の障碍者には、障碍の程度にもよるが、24時間介護を必要としている重度障碍者には、北欧のような制度も必要だと思った。曲りなりでも仕事を持ち家庭を築き子育てをし、独りでも生活が自分の判断で社会の中で生きられる者にとっては、日本は自由な国だと思った。自らの努力が成果として現れることほど幸せなことはない。
 日本の福祉の原点は大先輩たちの障碍者の人々が身を切り危険を覚悟で、自分たちの生活圏を運動として起こし勝ち得た事実が現在、社会の常識となり確率されたが、
若い障碍者は「国」が作ってくれたかのように思ってる人も多いが、諸先輩方の障碍者の人たち基礎があり現在に至るが、高度成長期が終わり、押し寄せた高齢化社会への急降下でドイツで失敗した介護保険が導入され、今後は高齢者も障碍者も同じ制度の中へすべて入れようとしているのが国や行政の狙いだ。理不尽な報告をよく聞くが、今は底辺で生きる障碍を持った高齢者も障碍者も血の通わぬ福祉行政に生き地獄を味わっている人々も多く存在する。


ヘッドドルプ村は我が家 
 アムステルダムはその名の通り堤防に囲まれたこの街には150以上の運河があり水の都と呼ばれている。水の流れと夕暮れの自転車が良く似合う街だと思う。歴史のあるダム広場の前がホテルで窓から広場が一望に見えた。運河沿いにあるアンネフランクの家を見た時、15歳の少女がナチに追われて隠れ住みながら書き残した「アンネの日記」、戦争の犠牲者となったその前に私がいることに感動した。
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 アムステルダムから西方に車で約1時間のAmhemlにある広大な敷地の中にヘッドドルプと言う障碍を持った人々が自立生活をしている一角がある。彼らの多くは筋肉力が衰えた重度な障碍者で、微かに動く指先や足底、頭の後ろの力、顎の力で残されている能力を使って電動車イスやコンピュターを操作しながら自立生活を営んでいる。ここは自然のいっぱいあるひとつの村で出来ていて、この村の中には銀行も郵便局もショッピングセンターもお花屋さんも肉屋さんも市場も何でもある。勿論、病院も車イス修理工場もある。私は3回訪れたがヘッドドルプ村には大きな変化はなかつた。
 住んでいる人には我が家なのである。何人かの自室を見せてもらったが、どの部屋もきれいにコーデネイトされていて、家人の趣味が生かされており、ご夫婦の部屋、独身者の部屋と分かれていた。みんな水色やピンクの部屋と生活色を楽しんでいる様子が伝わって来た。みんなで団欒する部屋、食堂、トイレも浴槽もよく出来ていた。車イスの男性が野外を案内してくれた。大きな木々があり、小川も流れていて、みんなゆるやかなスロープで散歩出来るになっている。高台から下を見下ろすと大きな川が流れていて、それがドナウ川で川の向こう側はドイツだと教えてくれた。
 ヘッドドルプ村には外から大勢の人が働きに来ており、また、軽度な人はこの村から外に働きに出かけている。ストレッチャーのような横ばいになりながら電動車イスを操作している彼女は、年に何回かは電車に乗り母親に会いに行くというので驚いた。
 いろんな施設を見学したが、このように自然に囲まれて自立生活をしている施設はないと思う。

チェシャホーム 
  ロンドンの空は曇っていて蒸し暑かった。ロンドンの雰囲気は他のヨーロッパの都市より落ち着きがあるが空も建物も暗く感じられる。イギリスの存在は福祉だけに限ってもオセアニア地方からアジヤの諸国に至るまで福祉の恩恵が植民地として支配して来た置き土産が深く浸透している。
 ロンドン郊外から1時間近く車を走らせるとチェシャホームに到着した。いろんな改造車が最初に目入った。ここでは乗せてもらう人だけではなく、自分で自動車を運転して出かける人もいるとのことである。
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広い敷地に平屋建てのホームが何棟も続いている。車イスの人も電動車イスの人もいて、独身の人だけではなく、この中で結婚しているカップルもいた。自室を見学させてもらったが、やはりそこに住んでいる人のカラーがよく出ていて、施設というより我が家でくつろいでいる風景であった。花壇には花がいっぱい咲いていて、花を植えて楽しんいでる人も多くいた。
 このチェシャホームにも存在しているかもしれないが、イギリスは福祉とチャリティが進んでいる国である。
 この後に私がイギリスの友人を訪ねて来た時、いろんな障碍者の人に合わせてもらったが、ランカスターという小さな町でワゴン車に電動車イスの男性が運転しているのを私も乗せてもらった。リャードアーもリモコンで開き、リフトが下りて独りで乗り込とリモコンでドアーを閉めて、運転席にスンナリと彼の電動車イスは納まった。しつかりと運転席に収まっているので固定装置は大丈夫のようだ。タバコ片手に運転もスムーズで私は彼の電動車イスの後ろにつかまっていたが、日本にはこのような自由な乗り方は法律で禁じられているのが残念だ。
 日本にも神戸にチェシャホームがあるが、シンガポールのチェシャホームを訪問した時は、教会が運営していて、スタッフの殆どがシスターだった。設備はイギリスのようにはいかないが、いろんな障碍者が日永、シスターに髪をカットしてもらったり軽い作業をしてのんびりと暮らしていた。

今でも忘れられない思い出 
 最初に私に付いてくれたボランティアについて触れたが、あの時の経験は今でも忘れられない。成田で合った時から落ち着きのない行動をとっていたが、車イスヨーロッパのツァーの団体が最初に降り立ったのがロンドンのヒースロー空港だった。d0019913_13462912.jpg
 真っ直ぐにホテル直行、ホテルに到着後、ボランティアのNさんに最初に異変が起こった。スーツケースの中に鍵を全部入れてしまってスーツケースを開けることが出来なくて頭の中が真っ白になってしまったらしい。この中には頼まれたロンドンに住んでいる友人の土産が入っていると言う事だ。それに彼女は自分の習ってきた英語力に自信を持っていたようだが、その時、自分の英語がうまく通じなかったこともショックであったようだ。スーツケースは鍵屋さんを呼び開けることが出来てこれで問題解決かと安心していた。
だんだんと旅行が進行される中でアムステルダムのホテルでハッキリと彼女の精神がおかしくなっているということを悟った。誰にも言うことも出来ずに黙っていた。飛行機の乗り換え時などでも、いろんな人の車イスを押すようになり私は置き去りにされるのではないかと不安だった。ホテルの中でも一晩中、スーツケースの中の物を出したり入れたりを繰り返して寝ようとしない。目も虚ろである。
 そんな時、同行してきた泌尿器科の医師に呼ばれてNさんの様子を聞かれた。ハッキリと現実を話した。先生は今日から他のボランティアを付けるのでNさんは預かると言われた。変わりの看護士さんのボランティアが付いてくれた。彼女は先生が心配して日本食を食べに連れて行った様子であるが、日増しに目が充血していき、いつも遠くを見ているような独りでは行動できなくなっていた。帰国しても独りで返す訳にはいかず、関係者が家まで付き添ったそうだ。その後、連絡もないが、きっと幸せに生活していると思いたい。
 どうしてこんなことが起きたのだろうと考えた。今の時代は海外に行くということも誰でもしていることだが、あの時代の頃は彼女のように「海外病」と言ったらよいのか分からないが、同じような状況に陥った人がいたと聞かされた。障碍者の旅行で介助者との相性は大切な要因である。
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by rakudazou | 2007-09-07 14:05 | 《エッセイ》中村陽子