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by rakudazou

自動車と生活を振り返って    その 2    中村陽子

免許取得から就職まで  
 免許が取れてからも、しばらく友人のKさんのところに居候していた。自動車に乗せ易い車イスを作り、センター時代のケースワーカーには車イスの私では就職も結婚も世話出来ないと云われていた。当時、美濃部都政の中で新しく出来た東京都心身障害者福祉センターの窓口に「就職をしたい!!」と尋ねた。そこで就職課担当の池田先生と出会った。就職先と自動車の購入を同時進行で自動車購入資金を借りる事になった。借入れの保証人に父に頼んだ時に「車イスだからみんな周囲の人が理解してくれるが、ハンドルを握るということは、もう誰も障がい者として見てくれない、何かあった時には責任は取れるのか!!」問われて「責任は自分で取る」と答え本当にそう思った。
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一応、洋裁を希望したが、当時、車イスのままで就職する事は非常に困難であった。それでも諦めずに、都センターの池田先生方は熱心に探してくれた。1969年〔昭和44年〕9月から「車イスでよいですよ」というところがあると直ぐに面接し、その場所は、世田谷区上野毛駅に近い小さな洋裁店で就職が決まった。店の中には車イスで入る事は出来ずに、都センターの先生方が狭い場所を移動出来る木製の引き出しのあるキャスター付椅子をとてもありがたい事に作ってもらった。
また、この時代は車イスの者が1人でアパートを借りる事は世間的に理解が得られずに部屋の中を傷つけられるとかの理由で断られていた時代であった。池田先生方は部屋探しに奔走してくれた。そして、当時の世田谷区瀬田交差点付近に部屋を見つけたが不動産屋は良い返事が得られず、大家さんに直接に話すことにより諒承が得られた。アパートの部屋を決めると共に、通勤用に購入したホンダN360ccは、中沢さんの手作りの手動装置を取り付けて近くの屋根付駐車場を借りたが、日頃の車庫の出入りには神経を使った。ある時、左隣の駐車している車両を擦ってしまい名前を於いて帰った後、持ち主が怒鳴り込んで来て「女でなかったらぶっ飛ばすところだ!!修理中の代車を出してくれ」と言われ、自分の車を代車に出して不自由な思いを経験した事がある。
部屋はこの時代には普通のアパートで6畳一間と半間の玄関とトイレと台所付きで恵まれていると思った。ベットと電話を入れて最小限に必要な物を揃えて生活がスタートした。最初に困った事は半間の玄関では車イスで入れるが回る事が出来なくドアを閉める事が出来なかった。開閉の事を考えると玄関からの出入りを諦め、角部屋で唯一の窓のレールの上に座り部屋に下りて、車イスから窓へ、窓から車イスへと移動する専用の出入口になった。ここの場所は屋根も有り、鍵は掛けられなかったが私なりの鍵を考えた。若かったから出来たことかもしれない。当時は住宅事情から車イスから窓越しを使い部屋とか、自動車の乗降りについても、車から家の窓から出入りする車イス障がい者が多かったように思う。
 瀬田のアパートから上野毛の洋裁店までの通勤が始まった。最初は自動車を運転して通ったがその頃は除外ステッカーもなく、時折、おまわりさんが巡ってきて「動かすように」と注意されても簡単には外には出られなく、仕方なく距離も2kほどであったので、車イス通勤に変更した。初めてもらった給与は食事付きの8千円であった。家賃が1万8千円、障碍者年金は貰っていたが、自動車の維持費とか考えると、毎月、入るより出る出費のほうが多かった。そして、洋裁店の中に入ると殆ど人の手を借りないと仮縫いも出来ず、何よりも一間あった部屋で昼休み時間にトイレを処理していたが、心配で朝から水分を控えて、身体の事を考えるとトイレも思うように出来ない状況で長くは続けられないと感じた。
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そんな時、車を運転して15分ほどの自由ケ丘の丸井の服の寸法直しの仕事が出来るようになった。品物の受け届けだけ自動車で行くと仕事は自分の部屋で出来るようになった。毎日のように瀬田から自由ケ丘まで通った。1969年〔昭和44年〕11月に日本初の郊外型百貨店として玉川高島屋ショッピングセンターが出来た。知人の紹介でアケード街の横浜の洋装店の縫い子になった。仮縫いの折に車イスでお客様を動かすのでは失礼だ!!と言われて、同じ店で仕事をしていた友人が仮縫いを代行する事になり自宅で仕事が出来た。週に3~4回は多摩堤通り沿いの友人宅に運転をして品物を届けて次回の品物を貰って来た。
 歩けないために入浴も一苦労した。以前に車イスで風呂屋に行けるかと友達と賭けをして行った経験はあったが、近くの風呂屋に健康を維持するために行く風呂がかえって「雑巾」みたいになって・・・見かねた親切な大家さんが自宅の風呂を貸してもらい大変に助かった。そのうち用賀の環八通り沿いにゴミ焼却場の燃料を使い障がい者用の銭湯付きの宿泊施設が出来て、空いている午前中に仕事の帰りに朝湯が出来るようになりとても幸せであった。その頃は生活が出来るだけで一生懸命であった。今にして思うことは常に自動車の運転が出来た上での生活が成り立っていたと思っている。

自らの障がいよりも不自由な人々の事を考える 
 世田谷で結婚して、新宿区西早稲田の11階の住宅に住むようになった。しばらくして「健康で文化的な生活」をしたいと申請をし直して、戸山ハイツの車イス住宅に移り変えることが出来たのは幸いであった。これらの生活の中で自動車の運転による移動は活動の場を広げた。人生の節目時のように結婚をしたが、家庭の役割よりは車イスから見た社会の改革の運動のほうが性に合っているようであった。1971年〔昭和46年〕当時、ホンダN360ccからシビックのハッチバックに乗り換えたときはエンジンの力の差を身に染みて感じた。最初のシビックは走行中はハンドルが軽いが停止した時や車庫入れとか方向転換する時のハンドルがとても重くて苦労をした。その後の乗り換えたアコードからパワーハンドルになり、ハンドルが軽くなり特に腕や指先に力のない障がい者にはホンダのハンドルは軽いと賞賛された。d0019913_21562253.jpg
 1975年〔昭和50年〕の頃、自動車で個人旅行する上でも車イスで安心したプランは立て難く、その場で人の親切に頼ったり経験で切り抜けたり、国内は殆ど自動車での旅行であった。つまり、家族か夫婦の運転する「マイカー」よる旅行しか出来なく、同じ障がいを持っていても、人の介助の必要な人は周囲の理解も低く当事者も諦めの心で関心を持つことさえも出来なかった。
とにかく、車イスで観光地でも不便な田舎に出かけると「良く来たネぇー」と驚いたり関心されたり珍しがられて人垣まで出来た。国内は殆ど自動車旅行をしたが「車イスの人を見るのは初めて・・・」とか、とても親切にされて、何でも初めてづくしが多かった。心の中には「今度、車イスの人が来た時にも親切にして上げてくださいね」と別れる時に伝えたものだ。風光明媚な景色ある処は段差があり余り観光はできなかったが、目的とする趣味も持ち、出会った人の優しさが嬉しかった。障がい者が消費者として見られるまでは長い年月が掛かった。海外旅行の方が飛行機に乗ってしまえばすべてバリアフリーで行動も観光も楽であった。
自動車を運転する事で社会を見る視野も広くなったが、しばらくすると私自身の満足感で生活してはいけないと思った。「障がい者が自らより重度な障がい者を差別している」現実を見た時に複雑な思いがした。その頃、ようやくと障がい者の基本的生活の変革が訪れる時代が到来した。その突破口は電動車イスでの社会への出現である。それまではお互いに免許が無い取れない人々はみんなで協力し合って自動車を持ち運転出来る人が乗せて解決していた。しかし、同じ気持ちで迎えに行っても、電動車イスの人は1人では車に乗込むことは出来なかった。介助者が乗せたとしても、電動車イスの人は何よりも不安定な助手席での乗車は、よほど安全運転をしないと乗せた人の身の安全性が保てないのであった。それらの事態を先に読めないで誘ってしまった自らが軽率に思えたものである。d0019913_21582471.jpg
 電動車イスは自動車を運転することよりも、寝たきりの四肢マヒの重度障がい者が、1人で自分の目でほしい物を選び買えることは当たり前のことであるが素晴らしい結果であった。電動車イスに乗る事により一般の生活感が味わえることは、自動車を運転するよりもはるかに内容の広い移動である。同時に誰にでも優しい街づくりの運動が必要であった。
 
みんなと共に出たい!! 
 1975年〔昭和50年〕ボランティアグループ「新宿福祉の家」の電動車イスの矢田茂氏の趣旨に賛同して障がい者向けのトヨタ・ハイエーとニッサン・キャラバンをベースとしたとリフト付き車両が20台を製作し、全国で初めて民衆の前にリフト付き自動車を見て乗る機会を得る事が出来た。d0019913_21525078.jpg
新宿の街だけではなく、都内から全国へ黄色いハンディキャブが最初に走るようになった。1977年〔昭和52年〕4社のメーカーの協力を得て、矢田茂氏は九州~北海道まで全国キャンペーンを行った。
 矢田氏の活動を近くで見ていた立場として、自動車を運転出来る視点からハンディキャブに車イスのままで乗った時の感激は「みんなで出かけられる時が到来した!!」と福祉文化の変革を感じた。このような車両が普及すると、自ら運転出来ない重度の人々、特に電動車イス〔この時代は本当に四肢マヒの重度の人々だけか乗れなかった〕の人々は我が町にもハンディキャブが走ることを夢ではないと思え、そして、ハンディキャブの普及は都内から全国へと輪を広げられるようになった。
 在宅する障がい者の運転する人々とツーリンや、地域の障がい者団体とのバス旅行を何度もしたが、歩行出来ない人たちはみんな介助者が抱え上げて乗せた。当時のボランティアだけでは限界がある重度の介助の必要とする参加者が増えて平等な対応が出来ないと思うようになった。みんな心の負担の軽減し自由な外出や旅行などを共にしたいと思い、この時代から自らの体験を基に本格的な「障がい者の旅行ツアー」を次第に機会を増加していった。
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日本の障がい者の運転の歴史50年
by rakudazou | 2010-11-08 20:46 | 日本の障がい者・運転の歴史50年