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by rakudazou

運転免許と自動車と仕事   その2  昭島市在住 林 淳

我が車の履歴 
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 初めて購入した自動車は、普通自動車免許取得のきっかけになったトヨタパブリカ800cc何と言っても自分で何処にでも行ける事が、ほんとに世界が変わったように感じて、飛び回っていたように思います。仕事にもレジャーにもいつも車の運転でしたので走行距離は10万キロを越え4年間で乗りつぶしてしまいました。
少しでも大きな車、又スポーツカーに憧れるというのが、障がい者に限らず当時の若者はみんな同じ思いがありました。普通自動車の範囲内で乗車定員さえ守れば、取りあえずどんな大きな車でも乗れるという優越感がありました。実際はスポーツカーなどにはオートマチック車の設定はなく、当時まだ、オートマチック車は、価格も高く車種も豊富ではありませんでした。夢は諦め、いつも経済範囲内の車でカローラ1200cc、1400cc、といった車で落ち着いていました。その内に、格好いいデザインでトヨタセリカのリフトバック000ccにも乗ることが出来ました。取りあえずあこがれだったスポーツタイプの自動車で、パブリカからやっとたどり着いたという達成感がありました。常にキロ数を乗る立場としては、低燃費の自動車のことを考えていました。3年ほど乗った時代に第一次石油ショックが勃発、ガソリン代が約2倍に跳ね上がり経済的なディーゼル自動車のいすゞシエミニ1800ccに乗り換えました。これまでの燃料代が4分の1、つまり軽油代はガソリン代の約半分走行距離は約倍乗れる、多少エンジン音がうるさいのさえ我慢すれば、ディーゼル車は経済的な面で申し分のない車でした。これも10万キロ以上走行し、ディーゼル車の良さを実感しました。その後は、トヨタランドクルーザーを3台乗り続けて、、もちろんディーゼル車で、4ナンバー、つまり貨物車に分類され、いわゆるトラック、ライトバン扱いで、車検は1年ごとと面倒でした。何しろ燃料代が少なくて済むことがありがたいことでした。四輪駆動車で、林道や山、川、キャンプといったオフロードと味趣のアウトドアには欠かせない必須アイテムと言うべき相棒でした。最初に車に乗ったトヨタパブリカはまた、格別な感動があり、パブリカでは、自由に好きなところに移動できることの自信と喜びがありました。しかし、道路の範囲に限られて、この四輪駆動車の性能は、川の中でも極端な話キャブレターが水を吸い込まない限り走れることでした。極端な走り方をする訳ではありませんでしたが、車高を上げたり、シュノーケルを付けたこともありました。住まいが、都下昭島市と言うこともあり、多摩川とか秋川が交わる広い河川敷があります。そんな所で、自然散策しながらのんびりと森林浴を楽しんだり、林道や山、海など、歩いてもとても行けない所も簡単に行けてしまう醍醐味を感じ、今までは未知の部分であったところに行けることが第2の感動でした。
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運転免許と自動車と仕事   その2  昭島市在住 林 淳_d0019913_2374353.jpgこの車のおかげで、新しい趣味も増え、3台で20年近く乗りましたがモデルチェンジもありませんでした。最初のランクルは3400cc 4気筒、2台目の時は4200cc6気筒と次第に大きくなりました。3台目の車には特に愛着があり10年間に渡り乗って38万キロを走破しても消耗部品以外はほとんど壊れる事もなく質実剛健で,経済的にどこまで乗れるか楽しみに走ったものでした。
そこに突然、東京都の排気ガス制限にかかり、排気ガス浄化装置を付けない車には乗れない、国の規制があるにも関わらず二重の都の独自の規制を打ち出してきたのです。すっかり環境破壊の悪者にされて、東京都はほとんどのディーゼル車に対して都が認定した浄化装置を付けなければ走れなくなりました。100万円近くする浄化装置など、37万キロも走った中古車にそんな大金掛けることも出来ず、個人で付けるのは大変な負担でありました。法人には、融資とか補助とか有ったが個人には全く何もありませんでした。多くの中小の運送会社は廃業に追い込まれました。今までもマスキー法よる厳しい規制もありましたが、自動車製造会社が対象で個人に負担がかかる物ではありませんでした。浄化装置を付けるか、自動車をガソリン車に買い換えるか、出来ない人には乗るなという規制でありました。この知事は今までも、問題発言やら、高圧的な態度には「またか!」という思いがありますが、まさか、我が身に振りかかって来るとは思ってもみませんでした。素直に従う気にもなれずにいろいろと調べてみると抜け道がありました。取りあえず、4ナンバーから、3ナンバーに換えれば、2年車検が延長できる事を発見、車に改造を加えて、2年延長、それまでに浄化装置の安くて良い物が出るのではないかと期待もあって2年間延ばしました。しかし、2年の歳月は短いもので、この間、浄化装置の良い物も出ては来ませんでした。後は車庫飛ばしという、しかし、これは違法行為であり残念ながら抵抗もこれまでと愛車に乗れないと思うと悔しくて泣く泣くと手放し、もうこの時点で自動車はどうでも良いという気分になってしまいました。
 ディーゼル排気ガス症候群とでも言おうか、テレビ画面にスイッチを入れるとペットボトルを振る排気ガスが充満する映像が頭の中で散らついていました。
現在はトヨタ・アイシス2000ccに乗っているが多少荷物や、人が多く乗れると言うだけで、面白くも何ともありません。もっと小さな車に乗り換えようと思ったりもしていますが、今は自動車が楽しいとか、今度はあんな車に乗りたいとか思いも無くなりました。しかし、足代わりとしては必要な自動車には今後も何かに乗り続けるだろうと思っています。
思い起こせば最初の頃は、足代わりだったのが、何時しか、ステイタース的なシンボルとして大きくなり豪華に、そして、より高級車と、だんだんエスカレートして足代わり以上の物を求めるようになっていました。自動車はどうでもいい気分になってみると、そんな事がハッキリと見えて来ました。しかし、趣味や,生活自体が、車と一体になっている今、その車はだめだと言われるのは、人生の楽しみとも半減してしまう、楽しめるうちは楽しんだ方が良いと思いが、それはかなわぬ夢となってしまいました。
 
車と仕事  
 最初の就職は文京区の日本信販の時計売り場に就職し、約10年ほど時計業界で飯を食っていましたが、次第と時計もデジタル化と時計の中身も電池と電子基板になってしまいました。先行きの不安な事もあり、当時、勤めながら新宿区立商工専門学校デザイン科に通って元々好きであったデザインを学びました。卒業後、24歳の時にデザインで身を立てようと決心をしました。中央区新富町のビルの一角を借りて好きな道でのグラフィックデザイナーとして独立しました。よい友人達にも恵まれ、仕事も受ける内容にこだわらずに小さいも物から大きな物まで自分の感性のままに続けました。納品を間に合わすとか基本に気を使いながら、顧客も増えて手狭となり、板橋区双葉町のビルを借りて、最初は写植機や暗室など設備投資も大きかったですが、パソコンの時代が到来し仕事も簡素化して、人生コツコツと夜遅くまで続けることも多かったですが、定年が無いことはありがたことです。運転免許と自動車と仕事   その2  昭島市在住 林 淳_d0019913_22244489.jpg
晩婚でありましたが結婚して26年が経ちました。当時、まだ、元気だった父を喜ばせて、夫婦共々に手術などで世話になった和田博夫先生の仲人であったことも今では夢のようです。長女は成人して自らの道を選び、長男は大学生で専門課程のスポーツ科学で励んでいます。現在は自宅のある昭島市の家に仕事場を移して建築デザインの幅を広げるために、自宅から専門校でCAD(建築設計支援ソフト)を学び、しかし、60歳も過ぎるとCADソフトはウインドゥズ、グラフィックソフトはマックと使い分けねばならず、ソフトも日々進化しています。物作りの職人なら、今やベテランの域に達しているところでしようが、日々毎日が修行みたいな所がありますが、仕事に趣味や余暇を楽しんでいます。
今まで、仕事をしているおかげで,好きな車も持ちまた、車が運転出来ることで、仕事や生活が出来ることは大変ありがたいことです。
運転免許と自動車と仕事   その2  昭島市在住 林 淳_d0019913_22232527.jpg

仕事と車となると、初期の頃は駐車場のことが大きな問題でした。車で勤め先に通っても、近くのなるべく邪魔にならないような、場所に駐車をする訳ですが、だいたいは路上駐車でした。ひと昔前といえ、都心の駐車場を借りることは当時の経済状態からも無理な話でした。しかし、車がなければ仕事にならず毎日が駐車違反で何年も押し通した事実は、今、考えると、良くあれで通っていたものだと感心する思いです。確かに違反のシールを貼られたりレッカーで持って行かれたりした事もありましたが、だいたいが大目に見てくれて、あの頃のお巡りさんは、人情味があったことか後からそんな事を感じています。その後、環状七号線沿いの板橋区の駐車場付きの事務所へ引っ越し、長年の駐車違反の心配からやっと解放されました。今なら都心に何年も路上駐車することは許されないことでしょう。その以前に駐車場がなければ就職を断念するか、高い出費を覚悟しなければなりません。一部の大手企業などは、多少配慮してくれるところもありますが、仕事と自動車の融合は、今や環境が整わなければ出来ない現実があり、この件に関しては、駐車除外ステッカーの使い方も幅広くはなり、本当に車イスのドライバーとかに必要な人々に対して、時代は変わっても使い易くなったとは思えません。
現在、私が元気で家族と存在することはすべて自動車の運転免許から始まっています。15歳で親元から離れて全国の多くの障がいを持つ仲間に恵まれて、機能改善手術をして運転免許を取得して、20歳で普通の社会人となって、好きな仕事にも恵まれて無駄のない人生であったように思います。
ここでは、免許と車に仕事と言ったように、視野を多少狭めて書いてはいますが、これだけが人生ではありません。しかし、免許と自動車は人生の大きなパーセンテージを占めている事に間違いありません。
 ここまで至るまでには、障がい者が運転免許が得られるまでの勇気ある運動のお陰で今の私たちの生活があることを1人でも多く知ってもらいたいと思います。そして、運動した多くの諸先輩の経緯があったからこそ、今の運転制度の実現があり、この道を開拓してくれた先人の方々のご苦労に感謝したいと思います。
by rakudazou | 2010-11-08 22:15 | 日本の障がい者・運転の歴史50年