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by rakudazou

我が自動車と人生・・・ 岐阜県・工藤政七

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1948年〔昭和23年〕岐阜県中津川市生まれ、昭和39年、東京オリンピック開催、確かその年だったと思います。東京新宿区戸山町の「国立身体障害者厚生指導所(後に国立身体障害者センターに改称)」入所、時計科で学ぶ事になりました。55期生で同じ同期の人々が大勢いまし た。
岐阜県の周りを山に囲まれた中学を卒業したばかりの紅顔の15歳の美少年?は幼少期、当時大流行した小児マヒ(ポリオ)にかかり、両足は麻痺し、長い間の生活習慣で足は変形してあちこちが曲がっていて、歩く事はおろか物につかまって立つ事も出来ない状態でした。国立身体障害者センターがどのような所なの知らないままに・・・センターに入所して車椅子を見るのも、乗るのも初めて、親兄弟とも遠く離れて、周りは知らない大人ばかり…付き添って来た兄とも別れる時には涙が出て、不安だらけの生活が始まりました。
家に居た頃には想像もしなかった事がふたつあります。ひとつは立って歩く事、そして、もうひとつが自動車の運転でした。
当時の私には「自動車の運転する・・」なんて事は夢の中の夢で考えた事も無く、センターの練習場で皆が運転しているのを見た時の衝撃!!は今でもハッキリと覚えています。我が自動車と人生・・・        岐阜県・工藤政七_d0019913_1510148.jpg
現在は18才にならないと運転免許証は取れませんが、その頃は軽自動車(360cc)限定の軽自動車運転免許が16才になれば軽自動車運転免許証をとる事ができました。しかし、当時は、松葉杖を使ってでも歩けない、ましてや立つ事も出来ない者は、適性検査が通らず、車椅子使用だけでは免許証を持つ事はできませんでした。それでも近いうちに免許証が取れるようになるとの希望が持ちながら、センターの練習場での軽自動車で手動装置付きの車で練習が始まりました。すでに免許証を持っている先輩が指導員になっての練習です。
そして昭和40年3月、念願の自動車運転免許を取得する事が出来ました。16歳8ヶ月。普通車免許は18歳からでしたから軽自動車限定免許です。私の記憶では、まだ、手術もしない、曲がったままの足で車椅子使用者では初めての免許取得者になったと思います。それまでの先輩達と同じように、私も指導員として練習の手助けが始まったのですが、楽しい事やびっくりする事が色々ありました。Yさんの練習中(指導員として助手席にのっていました)での事。車は、マツダクーぺR360cc、当時の軽自動車は360ccでした。左カーブを曲がり終えて直線に入った時、3mほど左側を黒い物体がころころと転がっていくではありませんか。我が自動車と人生・・・        岐阜県・工藤政七_d0019913_1526776.jpg
「何だろ?」と思っていたら、乗っていた車の左前輪が外れて転がっていったのです。幸いにも通常のブレーキ操作で止まったので大事には至らなかったのですが、あの時びっくりして急ブレーキをかけてれば大変な事になっていたかもしれません。
 免許を取得してから、当時、センターの医務課長の和田先生から、7回、機能改善手術を受ければ歩けるようになると診断されました。センター内の病室で手術を受けて、当時は医療紛争の真っ只中であり、最後の7回目の手術は、和田先生は厚生省から左遷されて、隣にあった当時の国立第一病院で行いました。ギプスが外されてリハビリ後、両足共に真っ直ぐに地面に立てるようになり、キャナデァンステッキで歩けるようになった時、立って眺められた世界にはとても感動しました。
 センターで成人式を済ませて、ケースワーカーの紹介で豊島区の技研という時計関係の会社に就職、1年間は近くの会社寮から通いました。それから、トヨタパプリカ700ccを購入し、兄と共に世田谷区烏山に住み、愛車を運転して通勤しました。
都内で仕事をしている時代にグットマン博士で有名なイギリスのストーク・マンデビルスタジアム於いて、昭和44年7月28日~8月2日、ストーク・マン・デビルスポーツ大会に選ばれて参加、スラロームとか車イス競争で金メダルを獲得したことが思い出に残っています。
ふるさとに帰るまでの間に、新潟、そして岩手の友人を訪ねる事を思いつきました。まずは岩手県目指して700ccのパブリカでアパートを出発しました。高速道路といえばようやく東名高速道路が開通したばかりの頃でした。一般道路ばかりですから10時間以上かかって到着、とても遠かった記憶があります。また、一旦、東京に帰ってから、今度は新潟県へ。こちらも遠かったです。一ヶ月間程のリフレッシュ期間後、昭和55年に中津川市に帰り、ふるさとに帰って隣町の会杜に就職しました。8時始業と早かったので早朝、7時10分に家を出て、自動車で20分ほどの通勤が始まりました。地元では大企業の会社に就職できたのも、自動車の運転が出来て歩行が出来るようになったからです。15歳からのセンターでの貴重な生活、その後の就職が現実にあったことで、故郷での現在の普通の生活が続けられたことがとても幸せなことだと感じています。
1・歩ける様になった事、2・そして車の運転が出来るようになった事。
このふたつがどんなに大きな力になった事でしょう。私のふるさとでの生活はどちらかひとつが欠けていても難しかったでしょう。
2台目の車はトヨタのカローラ。その後スプリンター、カムリなどいろいろな車に乗ってきました。途中で1500ccまでだった限定を1.5トンまで、限定解除をしました。
当時、岐阜県では実地試験など無く、申請だけで出来たと記憶しています。
31歳のとき、昭和55年に結婚。新婚旅行は「ケンとメリーのスカイライン」で九州へ行きました。神戸からフェリーで福岡へ。長崎、雲仙、熊本、大分と廻ってきました。
可愛い娘、二人にも恵まれて、広いワンボックス車が欲しくなりましたが、重量が1.5トンをオーバーする為に、また、限定解除試験でオープンとなりました。
この時はぶっつけ本番でしたから、試験官からは「ちゃんと教習も受けないで受かる筈ないわ・・」など聞こえよがしに陰口が聞こえましたが、一発で合格しました。きっと、センター時代の指導員の経験が役に立ったのでしよう。
我が自動車と人生・・・        岐阜県・工藤政七_d0019913_15351164.jpgこれで排気量とか重量とかの制限が無くなって、「アクセル・ブレーキは手動式の車両に限る」となったわけです。
その後、ワンボックスのトヨタ・タウンエースを購入、セダンに比べて圧倒的に広い車内、そして視界の広さとワンボックス車に魅せられてしまいました。以来、トヨタ・ルシーダ、そして現在のトヨタ・エスティマと9台目?10台目になります。
家族4人、ある時は、じじ、ばば、そして、兄弟達も乗せて随分と走り回りました。それに1年に2度~3度の家族旅行。すべて自動車での旅行です。
「自動車が運転できる」事が大きな力と自信になった事は間違いありません。自動車を運転できなければ、今の幸せな生活は無かったかもしれません。自動車は一歩、間違えれば危険な道具になりますが、うまく使えば障がい者にとって大きな原動力となります。これからも長い付き合いとなるシニアマークをつけるようになっても、私の足ですので運転したいと願っています。
 現在は会社を定年、孫たちの世話もしながらいろんな用事を見っけては自動車に乗っています。下の娘が東京の新宿区に住み、ユニクロで事務の仕事をしていますので、今はすべて高速道路になった長距離運転で、今でも年に数回は娘の処に出かけるのも楽しみのひとつです。自動車に感謝の日々となりました。
by rakudazou | 2010-11-09 15:08 | 日本の障がい者・運転の歴史50年