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by rakudazou

さまざまな実績を残した人々   その1

◎ 障がい者の運転の父と呼ばれた、渡邊聖火氏のあゆみ 
さまざまな実績を残した人々   その1_d0019913_16104984.jpg 先人たちの歩んだ苦難の道、この時代は捕まるのを覚悟で走っていた。多くの先人たちの中で疾病により歩行が出来ない両下肢マヒの渡邊聖火氏は戦後、昭和28年〔1953年〕私財を投げ打って障がい者の運転問題の根幹に貢献し「障がい者の運転者の父」と呼ばれた。障がい者の自動車運転の必要性を広くアピール、このような社会状況の中で、社団法人厚生車輌福祉協会の創始者となった。故渡邊聖火氏は、都身連主催の身体障害者大運動会の会場へ、50cc三輪車イスを試走させることで、障がい者と多くの観衆に対して、障がい者が運転できること、車が必要なことについて啓蒙運動を行っていた。また、関連当局に対して熱心に障がい者の自動車運転を認めてほしいという運動を進めていたのであった。
世田谷区~神奈川県座間市に移転、明治41年~昭和44年「1908年~1969年」渡邊氏は心臓病により国立相模原病院で亡くなったが、生涯敬謙なクリスチャンとして知られている。戦後、家族の生活費のために三輪車に125ccのエンジンを付けては走っては見つかり検挙された事も何度もあった。さまざまな実績を残した人々   その1_d0019913_16251312.jpg

▲発病 
渡邊氏は、新潟県高田市出身、農家の次男として生まれた。幼少頃から頭脳明折、勤勉型で東京に出て来ても真面目さが買われて多くの師より溺愛を受けて、学問特に漢学に秀でるようになった。長じて官史となり台湾に渡って多年灌漑事業に貢献した。くそ真面目と言われるほどに真面目で優秀な官史として信望を集めて活躍していた同氏が癌に倒れたのは昭和9年〔1934年〕8月、まだ、35歳という若さで大阪市平野区で灌漑事業を行っていた頃である。
 ある日、突然、渡り廊下から庭への段を下りるとズキンと脾腹が痛み、身体がだるくなった。8月9日、発熱、それから3日目の朝、膝も腰も立たないことに気づいて多い急ぎで入院、診断の結果、「マラリア誘因よる多発性神経炎」とのこと。熱る目が驚異に変わり喜びに変わった。かすかに呼吸が戻った。医師の手に喜びの力が伝わり、間もなく呼吸と共に血液が身体をめぐり瞼が開いた。奇跡と呼ぶ以外はない。何とすばらしい生命力なのだろう。だんだんと温かくなってくる手を握り締めながら酸素呼吸器の中で静かに呼吸を続ける同氏の顔を唯、まじまじと見詰めるだけであった。
 それから数時間後「まだ、死ねない、死ねない!!」と口走り、会の今後を憂う同氏の心が胸にこたえた。「やらなければならないことがある。車椅子生活者のため、すべての障がい者のために、まだまだ、やらなければならないのだ」 脳軟化症で倒れて右半身不随は不自由になったが、「命さえあれば何でも出来る、今まで以上の仕事が出来るかもしれない」そう言った言葉に胸に打たれた。それ以来、私心を忘れて純粋に障がい者の幸せのためにと激しい情熱を傾け続けた同氏をみんなで支えていくべき「足」の編集や雑用を励んで行った。更に激しい情熱に周囲は目頭が熱くした。
 支那事変の頃、孟宗竹を割って槍、予防の寝□に利用することを思いついて研究、寝台や便器を製作、それをもって傷兵を励まし続けたことで、当時の東条総理から感謝状を受けた。計らずもそれが仕事として業者と関係を結んで生活の糧となり、不自由な身体で数々の工夫を凝らした作品を作り上げていった。
終戦、次男の戦死や三男の病気、病みがちな次女や夫人を案じながら三男と共に担架で鹿児島に上陸。故郷の新潟県高田市に帰った。三男が入院のために上京、三男の死亡を目前にして発奮した。
 その後、生計を立てるために威信を掛けたが、常に自由に自活出来ることを考え続けていた。手動三輪車の入手と改造について日夜研究をしながら当時の高田厚生省事務次官などに陳情を続けられた。昭和23年〔1948年〕11月、生活保護法により許可された。以来、雨の降らない限り外出を続けていた。障がい者の会に出席したり、役所に掛け合って業者の紹介を受け、車椅子の製作に力を注ぎ、障がい福祉の向上に力を注ぐべき足の無い者のために一生を捧げる決意を強固していた。昭和27年〔1951年〕「足」の前足であった「自活の友」を創刊した。
 全国の家の奥には寂しく身を伏せている障がい者が多く、何かのきっかけで「足」を知り、渡邊氏の活動により情報と希望を与えて勇気づけられた。明るく生きる気力を身につけたという便りを何度となく手にした事か、その度に我がことのように喜び、便りをしたため、受話器をとって、やさしい言葉を掛けるであった。反面、ステッカー交付や自動車の物品税免除などの実績を作り、障がい福祉の向上のために当時の厚生省、警視〔察〕庁、市区役所、福祉事務所などの役所に叱咄激励の電話や陳情を続けてきた。一筋の命を賭けてという言葉が決して誇張ではなく77歳をもろともせずに全国の会員及び障がい者へ会報を送り続けて、明日への希望を与え続けいた。

◎入院 
明日は第4回、総会が開かれるという日、総会に必要な書類を作るために謄写版をバタつかせて印刷に励んでいた。渡邊氏は机に向って何くれとなく遅くまで仕事をしていたが、ちょうど12時頃、急にカチャカチャと机の上にあった湯のみがぶっかり落ちる音がした。周囲の人は気付きハッと振り向くと同氏は真っ青になって硬直していた。 直ぐに治まりはしたが夜通し眠れない様子、刷り上った書類をまとめながら周囲は心配であった。明日の総会は大丈夫だろうか?やはり総会当日には同氏の姿はなかった。大阪から遥々と訪れる会員は人目、会の代表者の渡邊聖火氏に会いしたいと待ち焦がれていた。年1回の総会なので同氏の姿を待ち望んでいた人々も多かったに違いない。寂しさが漂わせながらもスムーズに総会は終わると渡邊聖火氏の入院が伝えられていた。心臓病。

◎ おわりに 
 渡邊聖火氏の自らの体験から来る当事者としての長年に及ぶ障がい者の自立獲得指導的立場の活動が認められ、昭和44年〔1969年〕に故人の生前の功績により『勲五等従六位』を贈られた。
 渡邊聖火氏の一生の業績は、在宅に篭っていた障がい者を自ら出かけて行き、社会参加の必要性を説き「私を見なさい、こうして出かけているのだよ」と呼びかけて、同氏自身は免許取得はしなかったが「自動車免許の取得する事により足と成り得る」と全国に存在する障がい者諸君に希望と勇気を与えたパートナーシップに富んだ友愛の精神であったと思う。

◎ 地方に於ける障がい者の自動車運転免許取得への動向  
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地方では断片的であるが、昭和28年〔1953年〕長崎県佐世保市の掛橋一郎氏は左大腿部切断したが義足着装をして、家業を継ぐためラビット〔スクーター〕で受験を受けて運転免許取得していた事が障がいを持つ人では我が国での最初の記録である。
いずれにしても、昭和30年〔1955年〕初期はごく少数の障がい者が三輪車イスに50cc以下のエンジンを取り付けて使用したのにとどまった。

◎ 佐世保自動車学校〔長崎県〕 
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昭和37年10月〔1962年〕佐世保自動車学校の社長、故内海幸輝氏〔医師〕は、山口雅敏氏の訴えに協賛するところとなり、長崎県佐世保市において我が国で2番目〔民間では最初〕に障がい者の教習所を開始し、早くも翌年の1月には故品川龍一氏が免許を取得している。同氏は教習所に車を持ち込み自由教習の方法で行い、受験は大村市にある長崎県自動車運転免許試験場で学科と技能の試験を受けている。この取得方法は暫く続き、その後、県から練習用の車が提供される事になったが、健常者のように実施試験免除の扱いを受ける事はできなかった。それにしても適性試験の引率、大村市にある長崎県自動車運転免許試験場への送迎、ましてや、障がい者の初めての指導者には何かと負担・気苦労が伴った事は推察できる。障がい者の事などは一般社会においても、あるいは、試験場や教習場でも顧みない時代に受け入れたのは故内海幸輝氏が医師であったことも履歴を調べるとその答えは自然と理解できるのである。センターに次いで2番目、民間では我が国で最初であった。

◎ 香川県身体障害者更生指導所〔香川県  
 香川県身体障害者更生指導所、寺沢幸一氏と生活指導員、久保庄一郎氏は昭和38年〔1963年〕国立身体障害者更生指導所おいて開催し、更生指導実務研究会に出席、ここで行われている自動車訓練を実際に見る事になった。両氏は帰郷するや、直ちに同所において障がい者の自動車訓練を行うべき準備に入った。翌、昭和38年〔1963年〕11月、昭和39年〔1964年〕6月、自動車訓練は開始されたのである。これが我が国で3番目となる。これを知る最も適切な資料として、香川県立ひかり整肢学園長・香川県身体障害者更生指導所医学博士・寺沢幸一氏の報告書「奇跡を見た日」の一部を紹介する。
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【これほどの重度障がい者が運転する自動車のハンドルやアクセル、クラツチなどの改造を加えていることも驚きである。この自動車の改造と一つの障がい者専用の練習コースを持つことが身体障がい者の運転練習には不可欠だと考える。実際ハンドルやアクセル、ブレーキなどが改造され、全部手で出来るようになって足の不自由さを助けるためのバンドが付いて工夫がいろいろとされている。最初、一般コースに練習に行った時は健常者より好奇な目で見られ、その視線に耐え難く、さすが熱意に燃えた彼等も練習を断念して帰ったそうで、それから今までバレーコートであった中庭に練習場を作られたそうだ。先に、練習場で中村雄氏に言った。「あなたは身体障がい者に奇跡をおこしましたね」傍らの両手で松葉杖をついた女性も心から同和したが、履歴書に運転免許有りと書ける事を非常に誇りとしていた事は想像以上であった。
配達とか外回りが出来ないために就職が出来なかった相当数の障がい者が運転免許を取得して就職が出来るようになった。最近、文具店を営んでいる障がい者の青年が結婚式場から花嫁を自分の運転する車に乗せて新婚旅行へ出かけた嬉しい事例もある。
 実際にこれらの若者たちの笑顔は希望と喜びに溢れていた。健常者が困難とする運転免許を取得したという、また、スピードの出る移動が可能になった喜びが彼等の顔を輝かせたのだろう。何事もやれば出来るという強い自信を彼等の心に植え付けた事が自動車運転練習の最大の効果があった。
 香川県身体障害者指導所の所長として、27名の免許取得者がこの寮にいるが、運転出来る者が出来ない者を乗せて、ドライブを楽しんだり外出するために服装もおしやれとなり、この障がい者たちが努力すれば目的達成出来るという現実を間近かに目にして涙の出るほどの感激の思いであった。繁栄する日本の姿は世界の驚異であると言われている。その日本のまた、香川県の障がい者が自分の足として、このような改造した軽四輪車をそれぞれに持つ日も予想以外に早く訪れるように思う】
 自動車運転実施のために奔走は、この発展して間もない新組織で寺沢幸一所長を先頭に始められたのである。ここで奇妙な共通点を確認しておきたい。それは国立身体障害者センターの田原・中村両氏と同じように、寺沢。久保氏の両氏も自動車運転免許を取得していなかったのである。自動車の事は何も知らない。全くの素人が、障がい者の自立に役立つ事を洞察し、情熱を持って先取の気性で取り組んでいる事である。昭和39年6月〔1964年〕障がい者用に改造したコニーグッピーを購入することが出来、さらにマッダR360クーペが寄贈され練習開始となったのである。さまざまな実績を残した人々   その1_d0019913_16333222.gif
練習担当職員は久保庄一郎氏と戦前から免許を取得していた中村芳隆主事であった。練習は施設の空き地を使い、必要により練習コースを借りに行った。早くも同年9月10日には香川県運転免許試験場において、8名の受験で7名の障がい者が合格している。7名のうち5名が女性であった。障がい種別としては脊椎カリエス、ポリオ、切断、脳梗塞、脳性マヒである。
 寺沢氏の「奇跡を見た日」の末文で記しているようにこの時代、同氏をして訓練に踏み切らせ、それに携わった職員の労も然る事ながら、この県下の実情を踏まえて敏速に基準の制定を行った試験場等の職員も見事の一言に尽きる、と言い切る事は許されるはずである。
 身体に障がいがあっても運転が出来る、あるいは使い易い自動車をと〔昭和35年〕に発売された東洋工業〔現在のマツダ〕のマツダR360クーペオートマチック車が我が国で最初の車となる。続いて昭和36年〔1961年〕には手動装置を取り付けて発売している。当時、この車は両下肢障がい者が運転出来る唯一の車であった。民間ではで3番目。 その後、昭和40年代に入り、スバル360、ホンダN360、ニッサンサニーやトヨタカローラ、ホンダシビックなど、1200cc以上の大衆車が多く広まった。
by rakudazou | 2010-11-09 19:32 | 日本の障がい者・運転の歴史50年