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by rakudazou

 日本の障がい者・自動車運転50年のあゆみ  その2

◎ 国立身体障害者センター〔東京都〕   
d0019913_21413725.gif多くの懇願から昭和35年〔1960年〕12月20日に道路交通法が施行された。同時に田原庶務課長は入所生の児玉忠雄氏、小野時雄氏、岡田光輝氏等に呼びかけて入所生の中で自動車クラブを結成すると共に、自動車メーカーに趣旨書を送り寄付を仰ぐことにした。最もこの当時は、一般社会でも自動車運転は縁遠い時代であった。当時のセンター職員115名の中で調べたが運転免許の所持者は田原氏庶務課長と1名の運転手のみの2名であった。
この頃に、寄贈された自動車は東洋工業のマッダR360クーペやコニー㈱のコニーグッピー〔後に日産自動車と合併〕である。1967年〔昭和42年〕トヨタ自動車よりパブリカ800ccを寄贈されている。これにより昭和36年〔1961年〕6月30日より、入所者の自動車クラブの活躍で自動車操作訓練が始まった。当時は車を操作することが運転をするという考えから「自動車操作訓練」という独特の用語が使われていた。
 最初に免許取得したのは、田原課長指導による小野時雄氏〔小児マヒ〕昭和35年~37年〔1961年~1962年〕入所生、戸山40期、岩手県出身の小野時雄氏が我が国最初の昭和36年〔1961年〕7月に合格「免許の条件:アクセル・ブレーキは手動式オートマチック車に限る」である。当時の入所生の全員が自分と同じように障がいのある者が「自動車の運転が出来る!」この事実を目にして夢が広がった。それから彼等の中に免許取得希望者が急増したことは言うまでもない。そして、小野氏の指導による〔戸山入所生43期〕村田稔氏〔小児マヒ〕が免許取得の2番目である。村田氏は後に車イスの弁護士として活躍をした。続いて、両大腿部切断の児玉忠雄氏は3番目である。しかし、児玉氏は中途障がい者で、免許そのものは資格があり、条件付きの書き換えであり8月に手続きをしている。相次ぎ合格者を出し、現在は詳細に判っている。
 d0019913_21435314.jpg後に中村雄氏の回想録を新宿馬場下で西尾印刷に依頼した。その回想録の中で寄せている文面の中で西尾陽二氏は昭和37年9月〔1962年〕に8番目の免許取得者であると回想録で本人が記している。しかし、同氏は、この時期に和田先生の機能改善手術を受けてから補装具を付けて歩行可能になり免許取得していると思われる。営む西尾印刷では、最も長きに渡りセンターのある地元に住んで居て、昔は遠い地方から訪れる修了生の臨時の宿泊場所となり、住まいと食を提供したと聞いている。d0019913_2245121.jpg
                                                                    西尾陽二氏:昭和10年(1935年)75歳、新宿区在住、戸山37期、鳥取県出身〔胸椎カリエスによる体幹障害〕の障がいから関連する直腸など内臓器官が次第に悪化し手厚い夫人の介護により現在、在宅治療中である。
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 西尾氏は最初から乗った自からの自動車の写真の記録を撮っていたが、同氏の乗る自動車は生涯に渡り住む住宅事情から助手席の窓から室内の窓を通して出入りをいていた。駐車のスペースと住宅の問題で同氏のような自動車の大きさや利用の仕方が当時は多くの障がいを持つ人々が存在していたと考えられる。
昭和35年(1960年)50年前に障がいを持つ人々に手動装置の必要とする人々に許可されたが、あくまでも乗り降りが可能な歩行出来ることが条件である。「障がい者に免許が取れる!!」と当時、新聞等にも報道されて、希望を抱いて多くの重度障がい者が戸山にあった国立身体障害者更生指導所に入所して来た。この時代に免許取得の目的で入所していた岩井元秀氏、48期生の話によると、誰しもが直ぐに免許取得出来た訳ではなく、少しでも歩行が出来るように、当時、医務課の和田博夫整形外科医による機能改善手術をし、条件を満たした中で自動車の乗降は自ら可能な条件の基で免許が取得出来た。歩行困難で車イス使用者として免許取得出来るようになったのは、その後、昭和44年を経てからであった。
 昭和37年〔1962年〕4月に田原圓十氏から中村雄氏に正式に自動車クラブの担当を引き継いでいる。この時点では更生指導所の正規の業務として扱われる事になり、単なるクラブ活動として位置づけられていた。担当職員の不足のため、学科は心理判定職の岩坪寄子氏が昭和41年〔1966年〕まで担当し、技能は中村氏とクラブ員〔入所生〕が分担するという、たぐいまれな奇策で凌いでいる。
当時、入所生の全員が自分と同じような障がいを持つ者が「自動車運転が出来る!」この事実を目の前にして、免許取得希望者が増加の一途をたどったのは勿論のことである。

◎練習コースの環境について   
 昭和35年〔1960年〕12月20日、道路交通法施行〔障害者の転免許制度スタート。道路交通法第88条による①目の見えない者②耳が聞えない者、③口がきけない者、④これらの者の他、政令で定める身体に障がいある者には、免許を与えないと定め、これらを受けて同法施行行令33条、同法施行規則第23
条が定められた。身体障害者の法律に基づいて運転免許を取得出き道が開かれた最初である。その後、免許取得の希望者が増加し自動車クラブも活気に満ちたのは言うまでもない。
 昭和36年〔1961年〕、当時の国立身体障害者センターでは、自動車訓練は危険のであるが、正規に定められた上による当時の所長決裁で決められた。その実施主体を入所者の自動車クラブとして発足と同時にクラブとして活動し、指導員の指導の基に、免許取得した後輩の入所生が補佐して数年間に渡り正規の指導員として携わった経緯がある。本館と寮につながるセンター橋の下の広場に自動車練習場を作り、その指導的立場に立ったのはこの年の8月に中村氏や自動車クラブの体験や意見を取り入れた中でセンターに程近い文京区に当時あった、カナダ自動車工場で手製の手動装置を製作し、オートマチック車による自動車の改造を行っていたと思われる。
 d0019913_21462316.jpg当初の訓練車は、東洋工業マツダクーペR360cc、その後、東京コニーKKコニーグッピー、トヨタ自動車のパプリカ700cc、それぞれと1台寄贈されて、かろうじて練習が開始された。
昭和34年〔1959年〕道路交通基準法案作成の段階で、国立身体障害者更生指導所に障がい者の自動車運転に必要な四肢の運動能力の調査に担当者が訪れた。入所生の柳谷直樹氏、高橋清文氏、小池日左加江氏等が調査の協力し実測が行われている。この当時から自動車クラブが開始されたようだ。
練習コースは前面雑草が茂っている広場であった。入所生は中村氏をよく助けて前面除草を繰り返し行い、集められた草の山は多い時には2mにも達した。縁石は古縄をつないで代用、小石を拾い集めて並べるなど練習コースを作るまでには維持管理に積極的に協力している。練習は雨天でも休まずに行われて、ぬかるみ化したコースで動かなくなったマッダR360ccクーペやコニーグッピーの後押しを入所生が行っている。更に、コースの泥水はバケツで〔車イスの者はステップにバケツを乗せて〕運び出す努力や協力が一斉に行った。
 この訓練が始まって以来、昭和45年〔1970年〕までの実に9年間、この劣悪な諸条件が続いた。唯、ひたすら、車を生活に使いたいと、この強いやむにやまれぬ希望があるとはいえ、代々のクラブ員はよくこれに耐え抜いたと思う。
 d0019913_13104336.jpg1961年〔昭和36年〕から、排気量が360ccに限定されていたが昭和42年〔1967年〕にトヨタパブリカ800ccが国立身体障害者センターに寄贈された頃に、何とか360ccの壁をクリアしたいと当時のトヨタ・パプリカ800ccの車両を使い、鹿児島県出身、入所生、戸山61期の春山敏秀氏〔脊髄損傷〕埼玉県川口市在住、関わった職員の云うには、上半身が大きいからという理由で、同年12月に府中試験場に及んだが、別に何の問題もなく合格し普通免許取得として第1号者となった。
これを機会に360ccから排気量アップする者も多くなり、当時は1200ccから、1、5t、2tと排気量アップが出来るようなった。最初からオープンで免許取得したのは戸山入所生の前田敦子氏は昭和55年~平成4年、〔1955年~2004年〕である。昭和36年からの18年間の戸山時代で521人、1955年に所沢時代となり現在まで130人の障がい者の免許取得者で両方を合計すると651人であった。

◎ 中村雄氏の生涯に渡る障がい者への運転指導の影響力 d0019913_2148849.jpg 
 中村雄氏は大正3年~平成12年〔1914年~2000年〕享年86歳、山口県周防市大島郡、医師の家の長男として生まれた。昭和29年〔1954年〕中村氏は和歌山県の社会事業協会時代から、40歳の時に国家公務員厚生省事務次官となり、当時、新宿戸山にあった国立身体障害者更生指導所〔後の国立身体障害者センター〕指導課長補佐として就任した。福祉の仕事に従事した当時所長以下職員は「このセンターは障がい者のための施設だ」という考えに徹して、たえず障がい者と接して言葉を交わすように熱意を持ち仕事をした。
また、同氏は長い間の公務員の生活の中で傍目には語らなかったが、政界との深いつながりがあった。郷里の山口県で、中村氏の父上が佐藤栄作前総理大臣の後援会長をしていた関係もあり、岸信介前総理大臣、三木武夫前総理大臣、安部晋太郎衆議院等から、何かあったら直ぐ来いといつも言われて、平生何事も話して力や助言を貰いそれを守り貫き通していた。大学で同級の飛田社会党委員長とも親しかった。昭和33年〔1958年〕かねてから障がい者の自動車利用について関心を持っていた、岸信介氏に合い「警視庁で近く交通法制定の準備が進んでおり、その法律の一定の条案のもとに、障がい者も運転免許がとれるように・・・」と話したところ快く賛同し、警察庁長官より間もなく警視庁、科学警察研究所、警視庁試験場の各、運転専門官数名がセンターに訪れて障がい者の能力を調べた。この問題はかねてから懇意にあった渡邊聖火氏が発足した社団法人厚生車輌協会の多年の熱望であった。このようにして、昭和35年〔1960年〕に施行された道路交通法で、適性のある障がい者へ条件付きの自動車運転免許交付の道が開かれた。
 センターでは、初代自動車訓練室長になった同氏の影響は大きかった。中村氏は「自動車操作訓練」と称して国立身体障害者更生指導所の時代に昭和36年〔1961年〕本館と入所生寮の間にあった広場に自動車訓練コースを作り我が国で初めての自動車訓練場を当時の入所生等と共にコースを作った。これらの人々が帰郷して全国に先駆けて地域の自動車取得するための自立向上に大きな言動力となった。丁度その頃、マツダ自動車㈱が日本で初めて開発した〔下肢を用いないで運転出来る〕マツダクーペR360cc1号車がセンターに寄贈された。
「相手の身になって話し行動すること」を常にモットーにして、障がい者のニーズに本格的に応えるべき、技能試験、仮免本免と奔走し、昭和37年6月30日からセンターでは本格的に日本で最初の障がい者運転〔姿勢の安定、認知、判断、操作〕の練習〔教習〕と運転特殊方法、装置の工夫、研究を始めた。
 同氏は懇意にしていたセンター近くの自動車修理業カナダ自動車㈱の加藤社長等が明朝、受験に間に合うように試験場に持ち込む身体障害者用特殊車の修理を夕方から夜11時まで工員3名を残して無償で提供してくれた。練習も雨の日、雪の日やその直後の路面の凍結した道路など、免許既得者全員にタイヤの装着、チェーンの着脱などを、同乗して走行をして滑るときの対処法を学んだりした。センターから近くの場所にあった公認教習場、世田谷自動車学校に協力を依頼して、夕食後には障がい者3名程、免許を取るために時速40kmの直線コースを本人負担で練習を重ねて夜9時までにセンターへ戻ったものだ。
 しかし、公僕としての国民〔障がい者〕に尽くすことが第一と考えていた同氏とっては張り合いであり楽しくもあった。当直の日は生徒と共に入浴もした。遠い地域から在居している入所生たちは、毎月、日曜日には、同氏の板橋ある自宅までいつも3~4人で訪ねて団欒を楽しみ遠い家族を思っていた。同氏は自分の人生の最大の不幸は障がい者として物を言えないことであると思っていた。
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 試験場の試験官の中にいろいろの人がいて、融通の効かない人に当たったりするといろいろのトラブルも起き1969年年(昭和44年)受験をした車イス常用者の工藤七政君は不合格にされた。工藤君の運転技能を飛躍的向上するべく、本人は高度な技能教習に堪えこれを克服して4ケ月後、再び試験場で受験をした。試験官が同乗して試乗しコースを走った。工藤君は当時の軽自動車試験場のコース全部を『後進』で前進と全く同じ速度で走りぬいた。降りてきた試験官はビックリして「これは健常者でも出来ない神業だ。センターのレベルはさすがに国立だ」と感嘆された。同氏は「ここは役所なのですから、合理的に常に公平であるべきではありませんか。そのためにも適性合否をその日に担当した人の主観や感情に委ねないで、成文化した基準に従って公平に受験をして下さい」と同氏の提言が発端となって、東京都公安委員会の障害者運転適性基準が出来た。しかし、根底には「障がい者にはなるべく免許を取らせないよう、取らせてもなるべく排気量の小さいものに」という観念があったようである。工藤君は翌週、受験をして学科満点、技能減点なしで合格し泣いて喜んでいた。当時、彼は20歳であった。同氏は担当機関に赴き東京都府中試験場での不公平な適性審査の状況と工藤君の余分の苦労と適性基準成文化のこれまでの経緯のすべてを説明すると「免許は法律に基づいて交腑されるもので、適性基準は全国同一公平であるべきである。
 警視庁では障がい者への免許をなるべく取らせないようにしよう、取らせる場合でもなるべく排気量の小さい車に抑えようとしている。それが発動した警視庁基準表である。基本的に考え方を改めた新しいものを作って全国に通達して下さい」と同氏が懇願すると、以後、詳細一字一句まで協議して作った。手動装置を使って2000cc車を運転して合格すればAT車で排気量制限なしの普通免許が、また、一上肢と片下肢、両肢健常で膝下以下切断の場合は2000ccのAT車で合格し運転経験を積めば、二種免許もAT車限定で免許取得、タクシー運転も可能になった。これはすべての障がい者にとって明るいニュースであった。
d0019913_16162640.gif 昭和39年〔1964年〕警視庁交通局長から全国宛に制度の変更が通達された。センターの修了生で〔教習〕訓練で免許を取得後、後輩の指導経験を積み重ねていた、佐賀県の山口雅敏氏、岩手県の小野時雄氏、大信田康統氏〔3人とも両下肢重度障がい者〕等は故郷に帰り地元の障がい者に運転する可能性を自らの体験を話し広めて、後に県内、地域の障がい者のために自動車運転の指導を始めて、それらが近県に広がり、一般の指導者により足立区南千住教習場や遠くは香川県にも及んだ。
 
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昭和40年代に入ると世間でも障がい者の運転に注目されるようになり、NHKテレビや民放からも取材が訪れ、認識も広がるようになった。この頃、社会局更生課、大蔵省主計局に出向き、障がい者の使用する自動車の物品税の免除の懇請、警視庁交通局に対して障がい者の路上駐車の特別許可制度を何度となく懇請した。
 また、当時は路上の運転なくして免許取得が出来たが、実際には経験の無いままで一般道を走ることは危険性が高く、同氏は時間を割いては路上運転に同乗し必要性を説いた。後に運転免許取得には一般的に路上運転、高速道路走行も義務づけられたのだ。
また、国立身体障害者センターの新宿区戸山時代から昭和55年〔1980年〕国立身体障害者リハビリテーションセンターが埼玉県所沢市に移転後も公に自動車練習場として公認された自動車訓練室に2年間ほど勤務し後任の指導に当たった。中村氏は障がい者が使う自動車物品税、自動車税の免除申請を大蔵省主税局へ懇請し、昭和39年〔1964年〕に路上駐車の特別許可制度を懇請し、実現された駐車禁止除外指定車のステッカーが発行されるようになった影の立役者である。
また、除外禁止ステッカーの最初はすべて都道府県別に分かられていたが、利用する障がい者の請願が実り全国共通の駐車禁止除外ステッカーとなった。同氏は昭和50年〔1975年〕昭和58年〔1983年〕昭和61年〔1986年〕3回の渡欧で諸国の障がい者の為の福祉制度、車輌等の視察を行った。
中村氏は免許取得の出来る重度の障がい者に対しても、多くの相談や免許取得までの指導に当たり、障がい者と自動車の最初の団体・社団法人・厚生車輌福祉協会の顧問をしていた。昭和51年〔1976年〕警視庁・永年の無事故無違反運転と安全運転の普及努力に対して感謝状、定年後、昭和56年〔1981年〕に天皇陛下より勲一瑞宝章を受章した。

◎ 府中の試験場・障がい者の窓口d0019913_21485239.gif 
 自動車訓練学科の教養の草分けが安田憲吾氏である。昭和33年〔1958年〕に警視庁から派遣されて、府中免許試験場長に任命され、昭和33年〔1958年〕警視庁運転免許試験場の最初の仕事は学科試験を担当する傍ら、身体障がい者の人々の運転相談と事前審査を行い、後に専門試験官を引き継ぎの折りに渉外係であった小川剛氏は現在も元気で講演とか活躍をされているがお目にかかった時はとてもスマートな優しい紳士であった。小川氏の障がい者担当の時期は少なく、昭和57年〔1982年〕特に思い出の深いことはフラッツ式の足のみで運転する自動車免許取得に関わった白井典子さんや吉森こずえさんの印象が深いとの話であった。小川氏は外国籍の担当が併用されていた当時「君、一つ身体障害相談窓口をやってもらえないか?」と云われて渉外の表示の看板に何処の国の人でも誰でも判り易いように「しょうがい」と書かれたということであった。
by rakudazou | 2010-11-09 19:44 | 日本の障がい者・運転の歴史50年