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by rakudazou

日本の障がい者・自動車運転50年のあゆみ   その1

◎ プロローグ     
 現在では、障がいを持つ人々が自動車の運転免許を取得し運転出来るようになることは当たり前のような時代になっている。しかし、今から50年前には、一般の人でさえ自動車を運転出来る事は限られている時代に、障がいを持つ人々が自動車を運転することは「夢」のまた、夢の時代があった。
 一人で『外に出たい、移動の手段がほしい!!』と思う事は自然なことである。しかし、障がいを持っているから哀れみを乞うのではなく、仕事がしたい、自立したいと思う気持ちは当然のことである。戦後の困難な時代に多くの障がい者の先人たちは夢を叶えようようと生活や仕事に賭けて、不屈の精神で行政に物申し実力行使を幾度ともなく行い最後にはようやく行政を動かした。そのようなたゆまぬ努力の成果が現在の免許制度になった事実を忘れてはならない。このような先人諸先輩たちの厳しい苦難の歴史を残しておきたい。

◎ あゆみ始めた時代    
 障がい者の自動車運転が生活出来るようになる以前には、敗戦でアメリカの統治下にあった我が国において、マッカーサー元帥は昭和20年〔1945年〕8月30日に専用機バターン号で神奈川県厚木海軍飛行場に到着、以後、昭和26年〔1951年〕4月11日まで連合国軍最高司令官総司令部(GHQ / SCAP)の総司令官として日本占領に当たった。昭和20年〔1945年〕9月27日には報道機関に掲載のため昭和天皇陛下と会見写真を撮影した。この写真ではリラックスしている大男のマッカーサー元帥と、緊張して直立不動の小柄なd0019913_20524459.jpg昭和天皇陛下が写されて当時の国民にショックを与えた。マッカーサー元帥は「これからは自動車の時代が訪れる!!」と1947年〔昭和22年〕に千代田区九段にあった警察学校で警視庁警察官の運転免許教育が開始され、戦後、間もなくの自動車の免許制度が作られた。
 また、「日本には障がい者がいないのか?」と発言をした。当時、神奈川県相模原市に国立相模原陸軍病院に隣接した。昭和24年〔1949年〕に国立身体障害者更生指導所が設けられていた。マッカーサー元帥はまた、「障がい者の施設は国の中央に持っていくべき」との提言を受けて、国では昭和27年〔1952年〕東京都新宿区戸山の国有地に近代的な新庁舎の建築に着工、昭和28年〔1953年〕国立身体障害者更生指導所は移転され、全国から重度の障がい者が入所して来た。昭和39年〔1965年〕に東京オリンピックが開催されるのを機に国立身体障害者センターと名称変更、更に昭和54年〔1979年〕国立身体障害者リハビリテーションセンターと変更した。そして、昭和36年~54年〔1961年~1979年〕にかけて、障がい者の運転の条件や指導が大きく変革した。
 障がい者の運転免許を取得するまでの訓練、練習等は国立身体障害者センターから始まっている。戦後まもない時期から、困難にも負けずに自分の足の代わりとなる自動車を改造しては、制度化される以前は無免許で自動車を改造して走らせ仕事をしていた人たちも多く存在していた事実もあった。

◎創世期に関わった人々
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創世期に関わる人々の特徴昭和35年〔1960年〕厚生省行政補佐官時代から、障がい者の自動車免許が取得出来るように懇請をした。田原圓十氏が庶務課勤務として、国立身体障害者更生指導所に配属したときに田原氏は「これからは障がい者にとって自動車の運転が必要となります。一緒にやりませんか?」と誘った人物が、指導課勤務の中村雄氏であった。大正3年~平成10年〔1914年~1998年〕中村氏は昭和29年〔1954年〕に国立身体障害者更生指導所にケースワーカーとして転勤してから昭和55年〔1980年〕退官、これに賛同した中村氏と田原氏の2人の決心から「我が国で最初の自動車訓練」が始まったのである。
 創世期には現在の車社会と違って、信じ難い実態であった事も事実である。当時の一般の人々でも自動車運転を必要とする人は少ない時代に、障がい者が自動車の運転を顧みられず、また、障がい者自身も「自ら自動車を運転する」事に気づいていなかった時代に、自動車を障がい者が運転をする事によって世界が広がるという先駆的な人たちであった。東京の田原圓十氏、中村雄氏、渡邊聖火氏、長崎県の内海幸輝氏、香川県の寺沢幸一氏、久保庄一郎氏、岩手県の小野時雄氏である。中村雄氏の先駆けした先輩の共通点は「仁怒の精神」と「洞察力」を兼ね備えていた事であった。

◎ 時代の経験者から・・・  
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谷岡保男氏、障がいは下肢不機能障害のポリオ、昭和10年〔1935年〕12月20日、高知県生、埼玉県川口市在住74歳である。子供の頃からオートバイの走る爆音がすると心が躍りカソリンの匂いが大好きな元気な少年であった。昭和29年〔1954年〕19歳で希望を抱いて神奈川県相模原市から新宿区戸山に移転したばかりの真新しい国立身体障害者更生指導所に手に職を得るために靴科の21期生となった。技術と共に機能改善の手術を3回受けながら多くのものを学んだ。d0019913_2123334.jpg3輪手動車イスで移動をしてよく遊びに出かけた。後に同氏は靴科であった事は修了して直ぐに仕事として結び付き、昭和32年957年〕6月に修了した。
 池袋西口の靴屋に就職したが、ゆっくりと寝る所もない狭い所で靴を作っていたが生来の器用さが発揮できた。よく仕事もしたが遊ぶのにはことも欠かない歓楽街であったので同じ仕事仲間と松葉杖を付きながらいろんな体験が後に役に経ったのであった。
自動車に乗れたらどんなに便利だろうと、その当時、道路を走る自動車がほしくて仕方がなかった。
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昭和33年〔1958年〕独立し結婚をして、靴作りをしていた時からゴルフの「日本製のキャディバックがつくれないか」と請われて以来、キャリディバックの道一筋、それも本物の手作り逸品を作り続けて47年を超える中で仕事人としては反乱の多い人生であった。d0019913_21104857.jpg
 昭和34年〔1959年〕念願の自動車を購入した。ダイハツ・ミゼット250cc〔バーハンドル〕を無免許で2年くらいの期間に乗っていた。通常のクラッチペダルを改造しブレーキペダルにした。仕事で無免許で運転中に明治通りの飛鳥山を右折した折に
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車が故障で動かなくなってしまった。警察官がかけっけて来たが、無免許の谷岡氏は当時、貴重品であった皮製品を荷台に沢山乗せていたので怪しまれて、引き取りにかけっけた人もオートバイの無灯火で2人とも罰金を払うはめに合ったり、スピード狂で何度も捕まる事もあったようだ。
 d0019913_2114583.jpgしかし、その警察から後から便りがあり「何だろう」と不思議に思っていると障がい者にも免許が取得出来るようになったので免許が取れる知らせを親切に教えてくれたのであつた。豊島区の都の練習場に於いて自らの車を持込み、昭和37年〔1962年〕6月に免許が取得を出来た時にはどんなにうれしかったことだろうか?
車の歴史も多才で、昭和38年〔1963年〕にコニーグッピー、次にマツダ・クーペR360cc初めてのオートマチック車に乗った。トヨタ・パプリカ、そして、初めて普通免許になって乗ったのはマツダ・ファミリアであった。次にはトヨタ・クラウン、アメリカ車のリンカーンを運転していた事もあったと云う。d0019913_21152931.jpg
最後まで自動車を愛して止まなかった同氏は最終的に乗り心地の良さで最も長く愛用したのはトヨタ・セルシオであったが、平成21年〔2009年〕5月で運転する事は残念ながら辞めた。多分、今でも運転している夢を見る事であろう。同氏は、とても元気な人で現在はスエーデン製の電動車イスに乗り、公共交通を使いながら第2の人生をたのしみながら何かを模索しているようである。
谷岡氏のように、免許の取れない時代を仕事のため、生活のために移動手段として、無免許であろうと苦心して改造した車を操作し運転をしたり、免許が取得されるようになると同じような障がいを持つ人たちといろんな情報交換をしながら自らの努力で運転免許を取得した努力した人々が多く存在すると思うが、直接に本人から当時の話を伺えた事は幸いであった。
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by rakudazou | 2010-11-09 19:53 | 日本の障がい者・運転の歴史50年