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by rakudazou

ある友の一生     その1    中村陽子

春風に乗って
 冬空が晴れている2012年2月末日、暖かい部屋でウトウトとまどろんでいた時に急に電話のベルが鳴りぼんやりした頭で受話器を手に取ると年配の女性の声が流れて来た。「私は高橋健の従妹の1人ですが、高橋健が亡くなりました。最後まで生きるつもりで頑張っていましたが、多くの皆様にお世話になりまして感謝しています」と、心に感じない声で知らせであった。

健さんとの40年以来の交流 
 ある友の一生      その1                   中村陽子_d0019913_15245729.jpgそれは半世紀にも渡る、高橋健さん自身の人生の3/2は母亡き後はひとりぼっちの孤独の生活であった。健さんとの長きに時を経ても母の心が支えであった。1人で生きると言うことは孤独な生活である。それぞれと生活環境も異なってもひとりぼっちで生きる虚しさや寂しさは充分に分かっているはずである。経済観念はしつかり者であった。楽しかったことよりは辛かった事が懐かしく思い出として残るのは何故なのだろうか?ある友の一生      その1                   中村陽子_d0019913_15265278.jpg
「行きたい!!」と、いつも期待感でいたように思う。健さんが昭和6年の生まれだと知って「俳優の高倉健と同じ健さんだよね」と言うと、恥ずかしそうにはにかんでいた。何故か?私の愛した人と同じ生まれだということだけで年々と歳を重ねる姿に愛した人の姿を見ていたように感じる。健さんが亡くなった1年後、俳優の高倉健さんは2014年11月に亡くなり、名優の存在が重く凛と輝<きみんな良い人は先に死んでしまう。

偏見を乗り越て
ある友の一生      その1                   中村陽子_d0019913_15285789.jpg いつの頃か、健さんは喜怒哀楽を軸として生き甲斐に代えて生きて来た。苦楽の「光と影がハツキリと見えて来るような追憶を感じている。
 忘れもしないあの日から10日程前に健さんから電話があり、2月~3月は水戸の偕楽園の梅祭りをしているから[行きたいよ]と云う、多分、TVニュースで観たので急に行きたくなったのであろう。梅の産地で有名な水戸の偕楽園に出掛ける事になった。ある友の一生      その1                   中村陽子_d0019913_1531126.jpg
最初は「いくら?」と訪ねて、行きたい場所に出掛ける条件が納得すれば参加する、その積み重ねが、健さんの半生は「「出かけること」「旅行をすること」がすべてであった。健さんは2012年2月4日、春分の日、春風に乗って、3月26日が訪れると83歳になれるのを待てずに82歳の生涯を穏やかな終焉を迎えた。
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最後に会った時
ある友の一生      その1                   中村陽子_d0019913_154022.jpg 健さんと最後に会ったのは、はない光景は私だけではなく生涯の痛みであり、安全だと思っていた日本原発の汚染も多くの次世代の人々にまで影響をあたえるショックな出来事が重なり、世界で唯一あの東日本の大地震と福島の原発が起こった日は忘れもしない2011年3月11日の起こった少し前であった。今でも思い出すと恐ろしい無残な現実が正夢になり、次々と襲って来る地震と津波の繰り返しをTVで見ていた東日本大震災には自然界の恐ろしさはこの世のもので、原爆の被爆国なのに、現在を司る企業や政治家に更なる不信感を抱き生きるなんて・・・」と、まるで急かせるように頼み込んで来た。ある友の一生      その1                   中村陽子_d0019913_15413149.jpg
友人のМ氏の運転と介護も頼んで健さんの希望が適った。健さんの体調の変化は最近会う度に衰えているのが感じられていた。旅に出ると楽しさの余り我儘になるが、この頃は常に「これが最後かもしれない」と、会う度に感じるようになった。
 ある友の一生      その1                   中村陽子_d0019913_183972.gif梅の花はひそかに甘い香りを辺り一面に漂わせていた。「真っ白い花と紅梅が交差して香り高き上品な花びらである。梅の樹は幹が成長するのも長い年月がかかるが、桜の花とは違って花が咲いても長く楽しませるし、桜の樹は枝を折るといけないが、梅は枝を線引きすることにより更に良い樹になり美しい花を咲かせると聞いている。
 車イスを少し近寄って花びらを見ると澄み切った空を見ると心爽やかになりそこでしばらく寝てしまった。昔、訪ねた時は、車いすでは入口の辺しか見られなかったが、今は次々とエレベーターやスロープが出来てバリアフリーになっていた。私は自分の電動車いすさえも操作に自信が無い初心者で出かけたので、健さんたちとはいつの間にか遠く離されてしまい、入り口の平らな辺の散歩をした。
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誘致した映画
 ある友の一生      その1                   中村陽子_d0019913_1654477.jpgこの近くには茨城県と映画会社が提携して、何億円もかけて実物大の立派なオープンセットが作られてありこの時は『桜田門の変』というオープンセットがあった。観光スポットにと考えているらしい。私は新年に上映した映画を見たが、健さんたちは時代劇の主人公になったかのように2人はとても楽しめたようだ。
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満足した焼肉ランチ 
 ある友の一生      その1                   中村陽子_d0019913_19193938.jpg次は少し遅いランチ、健さんは焼肉が食べたいと言い出し、車いすで入れる店を探しながら車が走らせていると間もなく幸いにも焼肉と書いてあり大きな看板が見えた。大きな駐車場もあり、店の人に頼んでみると快く引き受けてもらい車いすでもokであった。健さんは外食する時にはお腹の空いた子供のように慌てて食べるので、喉にでもつかえたら大変なので出来るだけ柔らかい肉を特別注文して「うまい、うまい」と本当に幸せそうに満足そうして食べていた。確かに値段の割には美味しい焼肉の店であった。ある友の一生      その1                   中村陽子_d0019913_1922699.jpgお勘定の時、健さんは大大判振る舞いをする「本当にいいの」と尋ねると「いつもお世話になっているからね」と笑顔に満ちた感謝の気持ちであった。

行商と健さん
 ある友の一生      その1                   中村陽子_d0019913_1323496.jpg健さんは新宿の生まれではないが生涯の殆どを新宿富久町で過ごした。この街に半世以上紀も1人で住んで歩いて暮らした。目に止まったのはいつも同じ場所にいて片杖を持ち立って何かを待つ姿であった。
 国立障害者障害の施設のロータリーの付近で側には医務室や病棟があり、勤務医、看護婦さんたちが手招きをすると彼は嬉しそうに中へ入って行った。想像するのには、行商をしていたと感じた。少しでも自分の力で稼がないと様子を知っている人にはニコニコと話掛けていた。時には医務課の人が手招きをすると嬉しそうに少し大きなカバンを肩から斜めにかけて中に入って行き、多分、親切な職員たちがタバコやストッキングなどを買ってくれていたのだと思われた。目が不自由でもないのに身の丈より高い白い杖を付いて坂道を下って来る健さんの存在がその頃に始まっていた。週にⅠ~2回程度の割合で訪れて、決して正面玄関のからは入って来ることはなかった。過去はすべて行き先々で捨て去り、いつも前向きに夢を持ち続けていたである。
悲しみは当たり前の事として心に呑み込み、それが最も誰にも迷惑を掛けないことだと信じて、後に判ったことはじっと我慢して生き続けたのだった。ある友の一生      その1                   中村陽子_d0019913_19242940.jpg
 40数年間を語り尽くせないほどの話を行動で語っていたのだろうと思う。本当に大きな病気もせずにひとりで生き抜いて来たことは、健さんの生き様は意地や怒る根性は動物的な本能で自分にとって「よい人か悪い人?」をしつかりと見極めた。しかし、ずっと我慢しなから暮らすことは重度な障碍を持つ宿命でもあり理解出来る人も多いと思う。

やさしいヘルパーさん
 ある友の一生      その1                   中村陽子_d0019913_1926487.jpgその当時のヘルパーさんの佐々木(仮称)さんはいつも健ちゃん、健ちゃんと呼んでまるで傍から見ていると肉親のようによく世話をして可愛がっていた。周辺から見ていると人生の最後に佐々木さんのような健さんの気持ちになって世話になり、ひと時の安らぎを多く得られたことは幸せな事だと感じている。この数年は会う度に少しずつ身体の衰えは感じ始めていた。
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佐々木さんはとても家庭的なヘルバーで、もしかしたら遠い先に逝った健さんの母の姿になって健さんの世話をしているのではないか?思われる程にやさしく仕事の領域を超えた介護ぶりだといつも感じていた。健さん自身も言語障碍がひどく字を書けないために生活の日々に常に心から頼っていたと思う。献身な世話の仕方ふりは健さんの身に付けている物を見ただけで感じられた。


Gパンとサスペンダー

 健さんは生涯Gパンでサスペンダーを愛用していた。それも細身のために健さんの身体に合うGパンを探すのには大変でいつも苦労していた。めったに無い細身のGパンを見つけ出すことが出来た時にはとても嬉しそうに買い求めて大切に使っていた。そして、家の中では両手で膝をずって動いていたのでGパンの膝の辺りが一番早く傷むのは仕方がなかった。
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そんな時には佐々木さんはGパンを後ろ返しにして1刺、1刺ずつ裏側から布を当てて何度も縫い直して履き尽していた。大切な時計のバンドが壊れると健さんは手先がとても不自由だったので佐々木さんはGパンによく似た布でバイヤスにした布の輪の中に時計を通して簡単に使えるように作り替えて健さんの大切な時計は生まれ変わり、健さんはとても嬉しそうに私たちに自慢をしては見せていた。
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by rakudazou | 2015-07-22 14:26 | 《エッセイ》中村陽子