人気ブログランキング |

障碍を持つひとの楽しさを支援しています!


by rakudazou

カテゴリ:《ひとりごと》中村陽子( 5 )

 左肩、手が痛いのを江戸川でヘルパー会社をしている友人に強く薦められて、昨日、御徒町の駅の近くの湯島針灸医院にその友人の介助で行って来た。外神田の道が迷路になっている古いビルの5階であった。ビルの入り口も段差があったが1段の段差が1台の車イスが乗ってくれたので女性の力でも何とかクリア出来た。エレベーターも横に広い古いもので車イスがそのままではドアが閉まらず、無理やり横向きになりこれも何とかクリアできた。
 その薦めてくれた友人いわくここの医院の院長とは何十年の付き合いで、彼女の今までの体験では殆どよい結果を出しているので、1度はだまされたつもりで入って結果を見て痛みが無くなることがあればそれに越したことはないと言われた。
 d0019913_16215441.gif針をしている時はスーッと痛みが和らいでいくのが分かった。30分くらいの時間であったが、左手を上に上げて下に下すときにはいつもは途中でくの字に肘を曲げないと下ろせなかったのが真っ直ぐに下ろせるようになったし、腕を横に広げようとすると痛みが走ったが、それもいくらか痛みなく広げられるようになった。手の平で押す力も少しは出てきた。全体に左肩が軽くなった感じがしたが、針の治療は持続力がないのである程度、痛みが取れるためには通院をしなければならないし、保険対象ではないので自己負担も増えるが、1週間に1度くらいずつ通ってよくなるのであれば、このような努力も現在の体制を維持、また持続していくためには選択肢の余地はない。
 一夜明けて、朝方、肩の痛いので目が覚めたが昨日の効果は残っている。2~3回通うことで、私に合っている治療法かどうか結果が出ると思う。私の期待は自動車の乗り降りがこれで楽に出来るようになったらうれしいと思っているし、勿論、日常生活もずっと安心して楽に過ごせると思うが、まだ、結果を出すのには早いし、暫く介助でわざわざ江戸川から駆けつけてくれる友人も忙しい人なので、私のためにその度に時間を費やすのは申し明けないと思っているが今は感謝でいっぱいである。感謝、感謝
by rakudazou | 2006-02-23 15:10 | 《ひとりごと》中村陽子
 この数年、私の住む大田区のそのまた地域に2件、「車イスでも入れる歯医者さん」が出来た。最初の歯医者さんは私の車イスで20分くらいかかるひとつ先の商店街にあることがあるとき発見した。思い切って数十年ぶりにかかった。昨年、私の住む商店街にも2階で開業していた歯医者さんが、店舗が空いたのを機会に1階になり、窓ガラスに「車イスでも入れる歯医者さん」と書いてあり、そこなら10分で行けるので近くの歯医者さんに出掛けるようになった。
玄関は平らでトイレも車イスも利用出来るようになっている。診察室もなだらかなスロープになっていて、私は全く歩行が不可能なので診察台に上がるときやレントゲン室に入るときもなんとか車イスで入ることが出来たが先生などが親切に手伝ってくれた。

 私の長い間のイメージは町の歯医者さんは必ず段差があり、入り口が狭くて車イスの人は行きたくとも行けない。どうしてものときには障碍者専門の医療機関や大きな病院にいかなければ見てもらえないと思っていた。
幼い頃、母が「あなたは歯が痛くなっても歯医者さんにいけないから、虫歯にならないように注意して」とよく言われて、今でも耳に残っている。
これからは安心して生活が出来るが、障碍者の人は日々の歯磨きには気をつけよう!!
そして、どこの町にもこれからはバリアフリーな歯医者さんや個人医院が多くなることだとおもうし、また、そのような便利な世の中になってほしい。重度な障碍者にとっては生きる場が広がることになる。
by rakudazou | 2006-02-07 10:35 | 《ひとりごと》中村陽子
早いもので2月になってしまった。春の訪れも身近に感じられて、気分的に寒さも和らぐ今日この頃である。
私の左手の痛みも一進一退である。室内のほんの1㎝ほどの段差の衝撃でも車イスでは常に注意しないと危ない。物を床から拾うのでも手で何かに寄りかかるのでも移動を停止するときにはブレーキは習慣として欠かせないが、それでもふとした緊張感を忘れると転落しそうなときに気分を引き締める。

転落したときは室内のトイレの側に上下稼動のリフトがある。どこにいても自分の身体と車イスをその側まで引きずっていって、お尻と両脇にベルトを回し、モーターで車イスの高さまで上に上がり、車イスを身体の中心に手で寄せて、車イスの席に着地、いつも途中で落ちてしまったらどうしようと一人移動は怖い。

特に毎日のベッドから車イスの移動とトイレから車イスの移動は我が家であるから現在のところ、何とか危険を感じながら出来るが、もう、外に出掛けて宿泊するときはホテルでもトイレでも移動に関しては一人では出来なくなってしまった。介助者が必要だということだ。
いままで出来ていたことが出来なくなったと実感したとき、がっかりよりホッとした気持ちになったのも事実である。もう、旅行などは介助者がいないとでかけられないということだ。

今、現在、心と現実の葛藤していることがある。私は30数年、手動式装置をつけて乗用車を長い間、自らの足の確保としていた。今でも運転そのものは困らないのであるが、左手の痛みのため車イスから自動車の座席の乗り移りが困難になってきて、時々と失敗しては誰かに助けを求めなければならない。
もう、やめようか?と思う気持ちと何とか努力をして、いま少し運転したいと思う気持ちがゆれている。私から運転を取ってしまうと更に行動力が狭くなる・諦めきれないひとつの理由として、埼玉に住む年老いた母のところに気軽に尋ねていけなくなることである。

2月に10年目の車検を取る予定をいるが乗れなくなる日が訪れるのは分かっている。悩みながらそれでも車検を取ろうとしているのは希望を引き伸ばしたいからである。乗れなくなると私の生きる活力の減少にもなるが、これから2年間、運転出来たら幸いである。
その後の電動車イスの生活のことも常に考えている。これからは公共機関を利用して社会参加することになる。そこに至るまでの経過が難しいが、身体の後退の現実は決して待ってはくれない。
by rakudazou | 2006-02-01 15:40 | 《ひとりごと》中村陽子
◆車イスのひとり生活者の実態 
今年も1月の半ばを過ぎ、日々だけはどんどんと過ぎていく。私の身体の後退はそれに何をやっても追いつく訳はない。私は車イスの一人住まい者である。
私は脊髄炎による体幹機能障害で1種1級の処に40代の初めに乳がんになり左胸を摘出手術をした。車イスのところに両手の握力がこの時点で差がついてしまい、現在では乳がんになったことよりも、その後遺症の左手の痛みの負担や不安がとても大きい。両足も駄目、唯一健全であった私の左腕の痛みはもう、10年以上前から続いて、状態は年々と後退している。

 現状では外にいる時より室内の日常移動のほうが助けを求めるのにとても怖いと思っている。
外で車イスで転んでも誰かが助けてくれるが、室内では状況によっては誰か尋ねてくるまでそのままでいるようなことになってしまう。私なりには方法手段を考えているが、この頃ではついていけなくなってしまっている。

 ひとりごとのような日常の緊張感と危機感をいつも抱えて生活している障碍者の人は多いと思うので、私なりの過程や今後の身体の変化を綴ろうと思う。
用事はあるのであるが寒くて暖かい日に外出をしようと思っている。明日はヘルパーが来る日、この寒いのにシャワーを使わなければならない。今日、24日は父の月命日である。
by rakudazou | 2006-01-24 16:15 | 《ひとりごと》中村陽子

★愛しき人よ★

 いつかそんな日がと・・・ 
 
 いつもどこにいても同じ呼吸をしているという安堵感でこれまで生き続けて来られたが,5月の終わりに私が生涯に渡り心から愛した人、あの人の亡くなった事実を知った。いつかはそんな日が訪れると覚悟はしていた。あなたはもうこの世にはいない、遠い遠い天国に逝ってしまった。
私はで大声を上げてひとりで泣いた。たまらなく悲しい気持ちだったが「本当にご苦労さま、本当にありがとう」と、唯、言い残したい。そして、私も天国に行ったら最初にきっとあなたに会えると思っている、あなたも待ってくれていると信じている。
 不思議なことに亡くなった夜、何故かあなたのことを思い出しては一晩中眠れなかった。当時のあなたの一途な態度は、私の人生の中で最も「無垢な愛」のときでありとても幸せで、いつものことながら涙を流し、遠い昔を懐かしみながら思い起こしていた。天国に旅立つ前にあなたの魂が別れを告げに訪れていたのかもしれない。
 亡くなったその瞬間から肉体から魂は分離され、人生の折々に世話になった人々に無言の「別れ」であったのかもしれない。d0019913_16351421.gif 愛されること 
 
 若い頃から年上の人にあこがれ、それが私にf普通の気持ちであり、知り合った頃のあなたと私の年齢差だけではなく精神年齢も子供と大人ほどの差があった。
とある、障碍者の施設の規律のある生活の中、一日か終わり自室で、8月のある夏の日、アイスクリームを食べていた、あなたが覗き込んで「そのアイスクリームが食べたいなぁ」と言った。私は変な人と思いながら食べたかったら買ってくればいいのにと思った。その様子を側で見ていた人生経験豊かな同室の女性が言った。
「あなたの食べているアイスクリームだから食べたいのよ」その一言から彼の存在を意識するようになった。d0019913_16465733.gif 交通事故で左半身の手足をもぎ取られて頭にも目の近くにもその時の傷が残っている。障碍になり、初めの頃は絶望し何度も自殺を考えていたと知り合ってから話してくれた。ここで生きる勇気と希望を見出そうとしているとも語ってくれた。希望を見出した中に「私」の存在もあったと思う。彼からの誠意や活動力を精一杯もらい、私はそのことに接しながら心も身体も成長していったように思われた。彼と出会わなかったら今日の私は無いと思う。社会の中心に私を導いてくれた人なのだ。
常識的なことも含めて、私の知らない些細なことでも指摘してくれることが常に的を得て常に包み込まれている愛情を感じるようになっていた。d0019913_16475715.gif 妙薬 
 
 その時は大人の男性はこのようなものなのだ?と思っていたが、今までの年月を経て反芻することは、20歳のときから何年間余りの凝縮した時間は、あなたの懐の中ですべてが初めての驚きと喜びと素直さがそのまま出せてとても充実した幸せな日々であった。何かに迷うこともなくあなたの判断力に満ちあふれた行動力と言葉には、心から男気のある頼れる優しい人であった。
 本来のあなたは常識人でどちらかというと保守的とも感じられたが、とても清潔好きだったのかもしれないと思っている。しかし、それらはあなたにとって、自らの理想を語っていたことが後になって分かった。
 今でも何故か覚えていることは、醤油入れの蓋の上が汚れてはいけないとか、ズボンの折り目はしつかりつけなければならない、玄関はいつもきれいにしておかなければならない、外から突然と電話を掛けて来て、そんな応対では駄目だとか、当時の私は吸収力が良かったのか、あなたからいろんなことを諭されたものである。
「顔ばっかり磨かないで車イスもきれいにしなければ・・・」と、よく、芝生の上に座り込み私の車イスを片手で無心に掃除をしてくれた。そんな片腕を愛しみ汚れた手を洗ってあげたり爪を切ってあげたものだ。今だったらそんな小さなことを一々言われたら「うるさい!!」と思えることもそのときは素直に受け止められた。「愛の妙薬」というオペラがあるが、まさに私は妙薬にかかってしまった訳である。

  しあわせなとき 
 
 外に出て働くようになってから、中野に住んでいたあなたは毎月、フローベールのボゥバリー夫人を毎月1冊ずつ贈ってくれた。私には何故、ボゥバリー夫人だったのか理由は分からないが、何度も引越しをしたが、いつも大切に持ち歩き、あなたの意思とする思いは何を私に教えたかったのか、私なりに今になり思い返す事は、ボゥバリー婦人は若い頃、年上の抱擁力の男性と幸せな生活が続くはずであったが、ふと周りに目をやると、外の世界を見ることにより、いろんな男性も知るが同じくらいの奔放さゆえの非難や心を傷つけられた波乱の生涯を送ることで、何世紀も本当の話としてボゥ゛バリーリズムとして、当時のフランスには大きな影響を受けた女性である事がわかった。あなたはきっと何の苦労も無い幸せな結婚をしょう!!とこの本を贈っていたのではないのか?と感じると、今頃、気付いても悲しいだけだけだが、あなたの深い思いを再び感じている。
 その頃、私は障碍の関連から、右の腎臓を摘出するために入院をすることになった。動けるときには、毎朝、朝食前に公衆電話から、職場の2階に住んでいたあなたに「お早う!!」の電話をすることが習慣となっていた。たわいのないことを何でこんなに沢山と話すことがあるのかと思えるほど時の過ぎるのも忘れて楽しい会話することが幸せであった。
 手術後には日1回は顔を見せてくれたが、辺りへの配慮と照れくささかいつも「やぁ」と言っては病室に入って来て「早く元気になれ!」と多くの言葉はなく5分も居ると帰って行った。
 ある朝、早くに病室を訪れたとき、手を上に掲げながら「おふくろがパァだよ」と母親が逝ってしまったことを告げた。あなたは末っ子でお母さんにはきっと可愛がられて育ったのだと思う。
 ちょうどビートルズが来日して世の中を賑わしていた1966年6月のときで39年前のことである。
 手術の前は少し無理すると高熱ばかり出し、熱を下げる薬を飲むと唇までしびれてきた。手術への不安は今、思い出してもあなたの存在があり全く怖くはなかった。単純に正常に動いていない腎臓さえ取れば元気になれると思っていたが、その後も油断をすると熱発を繰り返していた。

  
 
 まもなく私は元のセンターに戻っていった。あなたはその頃。360ccの小さな自動車を買った。毎日のように訪ねてきたが、時折、名もない花を摘んできたり、食事を作ってきた。それはカレーであったり簡単な料理ではあったが、彼は港の見える丘公園で食べようと言った。行ってみるとすぐ近くの高台の敷地で港などは見えなかったが2人で食べることだけで美味しかった。
d0019913_16491498.gif

片腕の彼がどのように努力して料理をするのか不思議であったが、その現場を見ていたある看護婦さんが、「男の人が料理を作って来るなんて余程のことよ」と言われた。
 よくドライヴにも出かけたが、彼は器用な人ではなくいつも安心して走れる大きな道路しか行かず
、最も遠出したのは彼の心の中にはいつもあった故郷の筑波山であった。
 ある日、自然な態度であなたは自分の職場の2階の住まいに連れて行ってくれた。職場の上を見上げると直角に近い急な階段があった。彼はこのような状況であるということは知っていて連れて来たのである。
私を抱きかかえると私はあなたの首にかじりつきそのままのぶら下がった姿勢で右半身の腕と足の力で2階に上げてくれた。屋根裏部屋のようなところで男の人にしてはきれいにしてあった。
毎日、自活しているという生活ぶりは「無趣無風流」言うだけありシンプルであるがいろんな創意工夫がされていた。
まな板を出してきて「こうすると簡単にできるんだ」とまな板の上の中央に大きな釘が挿してあり、その釘にリンゴやジャガイモなど刺して動かないようにして配置を代えて皮をむいたり切って見せた。
遠い日のことなのでやさしかったことと、「立派にお嫁に行けるよ」納得するように言われたことくらいしか思い出せない。今、考えるとこのとき、私が社会へ女性として生きて行けるかあなたから確かめられたように思われた。

 医療闘争の狭間で 
  
  変形してしまい、車イスや松葉杖の人は外すことが出来る、また、松葉杖の人は杖をなくすことが出来る画期的な機能改善手術がセンター内の病室で長いこと実施されて多くの障碍を持つ人たちが社会復帰が出来る時代であった。
 ところが突然に運営方針の変更で担当医は近くの国立病院に更迭され手術がストップになってしまった。多くの手術の順番を待つ人や当時の入所者で作られている自治会が、一弾となり「手術の再開と担当医の返還を求めて」7月の炎天下の中で「ストライキ」に入った。
センターに入って間もない私は戸惑いと新鮮な社会の動きを体験した。正面玄関のロータリ中だけではなく、当時の厚生省前にも大勢の障碍者が外部の団体の支援を受けて「座り込み」に入った。私も同寮たちと厚生省に座り込んでいた。
 数日経つとあなたが歯ブラシを持ち「帰るんだ」と私の前に怒って立っていた。気まずい雰囲気になったが帰らなかった。この医療闘争は夏になると数年続いた。
この問題に反対しているのではなく、私自身が参加していることが嫌なだけなのだ。私は若かったしまだ、何でも目の前に起こることや関心のあることは経験してみたかった。だから芽を摘むようなことはしてほしくなかった。この「医療問題」で彼との対立は初めてであった。

 1通の手紙 
 
 何気なく片付けをしているとき、今までにも何度も1通の手紙を目にした。手にすると、私もあなたもセンターに居る頃、夏休みで実家に帰っていたときに届いた手紙である。もう、こんな古い手紙を処分しようと何度も思いながら捨てられないでいた手紙があなたの死後、また偶然出てきた。d0019913_1793019.gif 宛先は実家の古い住所で後ろには、センターの住所と差出人が書いてある。2枚の便箋にぎっしりと書かれた内容はその日に起こった出来事、出会った人ことであったが今も懐かしい人の名前が書かれてあった。誰かさんがいないから寂しいという内容だが、8月15日の日付は、20年目の終戦記念日で昼の食堂で時報と共にみんなで黙祷をしたと書かれてある。歴史の流れが遠くにも近くにも感じられる、この手紙は39年前の手紙で今年の8月が来ると40年前になる。もう1度読み返してきっと私は永遠に持っているだろうと思った。
 あなたは心の中では歳の差を気にしていたが、私は全く気にならなかった。愛するということはその人のために何かをしたい、考えてあげたいということであるが、尽くされるままでよかったのに、結婚をいつまでも待たすことに気になってきたし、車イスでこんな重度な私でよいものだろうかと言う不安もあり、自らの気持ちも顧みないで、あるとき「いい人がいたら結婚してもいいのよ」と言ってしまった。暗黙の了承で結婚を信じていた気持ちが裏切られたような無言で怒りの目をし、小娘にバカにされたように思ったのかもしれない。言ってしまってからすぐに後悔したがそのときはすでに遅かった。

 その時から涙が止まらなくなった 
 
 チャンスは前髪を掴み、後ろ髪を掴んでも何も得られないと後に知ったが全くその通りで、自らの痛い経験からも自分のことを一番大切に考えないと「後悔先に立たず」である。
そんな日から1ケ月も経たないうちに、私も知っている身近な女性と結婚した噂を聞かされた。あなたが遠いところに行ってしまった悲しみで、日中は何かしているので気がまぎれたが、1人になると長い年月、涙が溢れて止まらなかった。
本当かどうかは分からないがその頃から、私には「泣き黒子」が目に出来てしまったが、今は消えてない。
 世間では「やはり軽い障碍の人を選んだのね」と言われたが、あなたの性分として選んだ人がそうだったと言うだけで私は余り気にはしていなかった。d0019913_17151912.gif 半年も経過した頃、偶然にあなたに会う機会があった。「何故、結婚したと自分から言ってくれないの」と訪ねると「おこがましくて言えない」と言う返事が返ってきた。
涙が止まらないまま私はセンターを修了したが、あなたから受けたいろんな教えの多くの経験は影響が大きくその後の人生を変えるまでに現在まで引きずり続けてしまった。

 ひまわりは日陰では生きられない 
 
 家に落ち着くとやはり出歩く足に不自由をするので、代々木に住んでいた友人のところに居候をして自動車の免許を取ることにした。d0019913_1718568.gif 当時、新宿の小滝橋に民間の自動車教習所があり、そこではあなたと友人の中沢利二さんが同じ障碍を持つ人々のために専用の改造自動車を用意し免許を取るための教習指導を仕事にしていた。余り大きくないコースであったがビルに囲まれたコースで現在はない。
主に中沢さんの自動車で教習をしてもらった。私は友人の運転する車で毎日のように甲州街道から青梅街道を通って教習所に通った。
あなたはいつも微笑んで冗談などを言って語りかけてきたが、私はそんな様子を見ているだけで幸せであった。
 免許を取得後、また、家に戻ってしまったら元も子もないので、まず、車を購入することと同時に就職先を探し、都立心身障害者福祉センターの窓口を訪ねた。その頃は車イスでの就職は探すのには困難な時代だった。窓口の先生は親切にしてくれて、その頃、美濃部都政の福祉の向上の追い風となり、何軒か「車イスでもよい」という就職先を探し回った。世田谷の上野毛駅の近くの洋裁店に勤めることに決まった。住むアパートまで探してくれて落ち着いた先が環状8号線と玉川通りが交差する近くの瀬田の交差点の八百屋さんが家主のアパートだった。車で通勤しょうと張り切ったが、店の駐車は注意がうるさくて住む所から仕事先までは直線で500mほどだったので車イスで通うことになった。休みの日は極力、実家に帰えったり車で出かけることにしていた。
 そのうち、あなたが訪ねて来るようになった。あなたが結婚している現実を除けばほかには何ら変わりはなかった。理解し合えるぬくもりの中で幸せだったが、その頃の私にはまだ、誰よりもあなたのことを知っているという信念があり「帰るよ」と背中を向けて去る姿を見るのが辛かった。半年ほどそんな行き来があったが、初めのうちは日陰のひまわりでも会っていたいという気持ちが強かったが、私の性分としては愛している人のことを秘密にして合うことが苦しくなり出し、そのうち子供が出来たと聞いたとき、私の気持ちに大きな変化が起きた。あなたは健常な頃、結婚していて子供もいたことも知っていたので、生まれてくる子供には罪はなくやさしい両親であってほしいと願い、そのためには私から「けじめ」をつけなければいけないと思い、会えないより生涯の友になろうと決心をした。

 時が止まる 
 
 その後も機会のある度に出会うこともあったが、内心はどうあれ表向きは友人関係を貫いた。その頃、1人だけの生活にも疲れて、自動車が大好きな、この人なら私らしさが出せるだろうという、唯、それだけの安易な気持ちで結婚をした。夫にも過去があったが関心はなかったし、夫も私とあなたとの付き合いは知っているはずであった。
 あなたに結婚すると伝えたとき「あいつは大嫌いだ!!」とハッキリ言われて「私が結婚するのだから構わない」と答えたが、あの剣幕には驚いた。
曲りなりにでも平凡な家庭生活をしているように見えたが、結婚して1年も経たないうちに結婚したことを後悔した。その後悔を乗り越えられたのは自己責任と家族への期待を裏切りたくない思いからだ。自然と近場の家庭より遠くの世界を見るようになり、夫婦というよりは親しい同居人と暮らしているという感じで長いこと過ごしてしまった。
ある日、駐車場で夫とあなたが両サイドから私の車を洗車している風景を目にしたとき複雑な思いに駆られたこともあった。
 私は何故か360ccのときを含めて通算して4回ほどの排気量アップをしている。最後のオープンのアップのとき、今から24年ほど前、彼のブルバードUで練習をしたが乗り易い自動車であった。私はずっとウィンカーは自分の手で操作していたが、その数秒の遅れで細かな操作のときにはハンドルにブレが起きることが分かり、本来取り付けてある左側のウィンカーをこの機会に使い慣れるように助言をしてくれた。このために時間が少し掛かり府中の試験場に行く甲州街道の並木道のイチョウの葉が黄色から赤に変わり落ち葉が散りだす頃になってしまったが、何年経っても彼との垣間見る時間はいつも昔の時間にその瞬間だけ戻ってしまうことだった。

 最後に会ったとき 
 
 住んでいた新宿区の地域の仲間たちが集まり、丁度、国際障害者年を記念して区立障害福祉センターが設立されることになり、出来る前の運営委員会から私たちは参加した。
完成して、20数年前になるだろうか。公の場を提供してもらい、私たちの希望は地域の在宅している女性障碍者を中心にその頃、流行っていたカルチャー活動を力を入れたが、他の団体が「健康な人も障碍を持つ人も平等に憩える場」として提案していた「喫茶店」のやり手がなく、女性軍の多い私たちの会にこの話が舞い込んできて、「面白いかも・・・」と最初のうちはあくまでも家庭の延長線上で車イスの人たちと健康な女性たちと同じ目線で「ふれんど」という喫茶店をオープンさせた。館内で働く障碍者だけではなく、外部からもいろんな障碍を持つ人も健康な人々も訪れて、そこはみんなの交流の場となった。
 オープンして間もない頃に、午後のある日、あなたがいつものように幾分斜めに肩をいからせて「おぉ」と言いながら訪ねてきた。顔色もよく元気そうだった。何を話したのかは忘れたがこのときの彼の姿は今でもハッキリと心に焼き付いている。また、このとき、誰が写したのか2人の写真が残っている。私にとってはたった1枚の写真である。後になって思うことはこれが私があなたに会った最後となった。

 2人でいてもひとり 
  
 ふと夏の暑い日、自分の胸元に小さなしこりがあるのを気づき、それは「乳ガン」だった。このときは震えるほど怖かった。手術をして退院してからも気持ちが塞ぎ込み、また、嫌でも身近を見るようになり、なおさら心が痛んだ。どんなに努力しても夫は変わらないことが分かり夫に比がある訳ではなかったが、いつも1人でいるようであった。病気の影響もあるかもしれないが、本当に落ち込んで立ち直ることが出来なかった。
このまま我慢をしていたら長い間封じ込めていた精神が爆発しそうになり、夫にしては突然変異だったかもしれないが、否応もなく一方的に私は別れて新しく生きる道を選んだ。
 私は結婚することも1人で決めて、17年間の生活の中で1人芝居をしていたようにも思う。この間も気持ちの中ではあなたがいつも存在していた。いつも心の中であなたの存在を意識する生活をしているうちに、出会う人と少しでもあなたに性格が残留している錯覚してしまうと惹かれて行く自分が分かったが、すぐに違うと気づくと愚かに思えた。何年経ってもいつでもどこでも心の中にあなたの存在が大きく残った。

 彼が倒れて・・・ 
 007.gif007.gif
 私が新しい生活を我武者羅にして1年も経つか経たないとき、血圧か高いのが原因であなたが脳溢血を起こし倒れたことを知った。左半身切断のところに運の悪いことに今度は丈夫だった右半身がマヒする二重の重荷を背負うことになってしまい、どれほどの重度な障碍者になってしまったかは想像できた。d0019913_1720482.gif何もする術もない私は植物や花々がとても好きだった彼に何度となく入院先に花を送ったが、それがかえって重症の身には負担になるのでは思い送ることもやめてしまった。
 2年ほど経ち退院して在宅生活を出来るようになった。何度となく電話で会話をしたが、身体はともかくもあなたの精神は健在で、私がやっている仕事に対して「何故、私ではなく、誰が他にやる人が居るだろう」と私を責めた。私こそ、あなたが望めば1日中、家の中に居ないで明るい外に出ることで気持ちがまぎれるとおもったが、あなたのプライドが許さず自らの不自由さも語ろうとはしなかったが、「トイレで倒れてベッドまで30分かかった」などとふと聞くと彼の生活の不自由さが伝わってきた。私が知る限りでは「人に施しを与えても自らは施しを受けたくない」と言う気持ちが強かった。
 暫くしてから労災施設に入所13年間を過ごした。何度か電話で会話したが、「いい所だよ。遊びにおいで・・・」とか、今で言うガーデニングを楽しみ「元気になったら、また、施設内だけでも自動車の運転がしたい!」と語っていた。
 仕事の関係でその施設にも何度か利用者を運んだこともあるが、訪ねていこうと思えば出来たのだが、私は最後に「ふれんど」会ったその時のままの印象でいたいという気持ちが次第に強くなり訪ねることはしなかったし、そのうち電話を掛けることもなくなっていた。しかし、何度となく仕事で車は行っていたのだから、思うと行っておけばよかったと後悔している。
 晩年のあなたが幸せであったか不運であったかは私が確かめる術はないが、あなたの死を知ったときより日が経つに連れて悲しみの深さが大きく伝わってきて、涙でいっぱいになり胸が痛くなる。
もう、人生の大半を「胸に仕舞う」ことで生きがいを求めて来てしまった。私が生きている限り「心の中で語り」あなたの存在も生きている。あなたの死がすでに私の生活に何の変化も起きないほどに時間が遠く過ぎ去った現実がある。
 これからも心の隙間を過去のあなたの存在が埋めてくれるであろうし、心の中には私が生きている限りあなたの面影をこれからも引きずっていくのである。それは私の生活の中の習慣性になり私の青春の残留が息づいているのだ。

 あとがき 
  
 それは偶然にしては余りにも距離というか日を置かないで、無二の親友がの中沢さんが亡くなったので二重のショックであった。
 国立障碍者センターを修了してから、新宿の小滝橋から始まり、その都度コースは変わってもずっと一緒にあなたが倒れるまで長い間、障碍者の自動車教習の仕事をしていた友人がが追いかけるように3日後に亡くなった。勿論、病気も異なるが同時期に亡くなったことには生前の縁の深さを感じずにはいられなかった。彼らの自動車免許取得でどれだけ多くの障碍者の人々の社会参加の機会を与え、社会への貢献度は高い。2人は仲もよかったし性格も全く違っていた。近年の中沢さんに会うといつも「会いにいかなければ・・・」と必ず語っていた。近頃は病の性もあったが痩せてしまったが、友人の人なつっこい笑顔がどうしても重なってしまう。
 悩みも苦しみもない天国で2人はまた、同じ仕事をしているのではないかと思うし、きっと仲良く自動車を走らせながら暮らしているだろうと思う。

                                           2005年6月11日記
by rakudazou | 2005-08-09 18:15 | 《ひとりごと》中村陽子