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by rakudazou

カテゴリ:日本の障がい者・運転の歴史50年( 20 )

話し相手
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 しのぶはオカメインコのオスで2014年3月末生まれの若鳥である。我が家に訪れたのは2014年9月⒕日で、全体はクリーム色で全長は28㎝ほど、日の丸のようなオレンジ色のホッペをしたインコである。d0019913_45167.jpg私にとって最後の心癒せるペットになるに違いない。聞く処によると、オカメインコは平均して20年は生きるといわれている。しのぶの生涯のほんの一部の間だけしか、私と共に過ごすことは出来ないと思う。

愛する人に逢いたい
 昔のことであるがグレーのオカメインコを飼っていたことがあった。グレーと両方の兄弟らしい元気なオカメインコがショップにいたが、今度はクリーム色のオカメインコを選んで、名前は「しのぶ」と迷わずに決めた。しのぶという名前にしたのには深い心の痛みが残る思い出があり、その人は既に故人となり今年の5月て10年を迎えるのは早いが、魂だけでもしのぶの身体を伝わって彼が天から舞い下りて来て、弱っている私の身体と心を救ってほしいと祈る想いで私の感情移入も入っていた。d0019913_313818.jpg
 私の青春、20歳の頃、私をとても心から愛してくれた人、半世紀の時を経ても、私は心から愛して止まない、幽霊でも良いから会いたい人で、心から尊敬し信頼が出来てとても判断力がある素晴らしい男気のある人であった。と、後に判ったのである。d0019913_315724.jpg
 価値感も同じ、趣味も合い私は彼の影響を経て大人になって現在があると思っている。お互いに結婚した後でも友人として、私には恩を返すこともなく悔いが一生残ってしまった。影から何かと助けられて?分らないほどに力になってくれた彼は13年歳年上の人であった。天国で両手を広げて、私も歩いて彼も普通の身体で胸の中に飛び込んで行きたいと思っている大切な人である。
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昨年の後半から数ある入退院の繰り返し 
 しかし、昨年は、立て続けての入退院を繰り返して最後には肺炎で1ケ月半入院をしてしまった。d0019913_3195643.jpg
 もともと呼吸器の悪い私の身体には動物を飼うのは良くないという意見と、反対に生きる生き甲斐として、何か?言葉をかける動物がいたほうが話相手として1人で生活するよりは生きる張りが持てるという2つの意見に分かれた話になった。7月に泣き泣きハナ太郎と別れて2重に心が萎えていた私にはパァと眼の前に希望が見えた。生活する中で話かける相手がぜひほしいと思うと同時に「早いもの勝ち」と先に実行した。猫がダメなら小動物のオカメインコだと思っていた。d0019913_3294895.jpg
 いろんな親切な人に情報をもらい洗足の店に2匹のオカメインコがいたのである。多分、兄弟なのか?グレーとクリームの元気なひな鳥であった。

美しい人との出会い
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知り合いのSさんの誘いで 車イスの中途障碍者のĪKさんが訪ねて来られた。しのぶが来て半月たらずの時で怖さも何も知らない素直な頃であった。まだ、舌足らずで人には分からないが、健気にしのぶちゃんと言っているのは私には理解出来るが皆さんにはしのぶちゃんとみんなには親バカだと言われている。ただいま練習中である。d0019913_3415862.jpg「おはよう」は上手に言えるようになった。何とか、私が元気なうちに誰でもしのぶちゃんとハッキリ聞こえるように教えているが「ぶ」という言葉が難しいと思っている。難しいのは分かっているがしのぶには誰でも判るようにしのぶちゃんと言えるようになってほしいと願っている。d0019913_339893.jpg
 Kさんの車イスは彼女の個性のようなものだが障碍は可なり重度である、個人的な訪問だったが、この時間を設定するのもいつも忙しい彼女には大変だったらしい。詳しくは聞かなかったが会計部門の先端の会社を経営して、女性らしく私の印象であったが、実際は大勢の社員を手分けして手腕を発揮している社長として経営者として社会の波に乗って、勿論、彼女自身の努力もあるが成功者として、今は、自らの考え方により、障碍の壁は無いと感じられた。

先輩たちの苦労と運動によっての現在がある
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 男女等平の時代には珍しくはない時代であるが、彼女は自動車の自尊事故でそれにめげずに今はその自動車を自由に乗って最も強い味方となって仕事が出来のも、国の力でも行政の考え方でも無く、戦後まもなく生きるためにいろんな障碍を持つ諸先輩の方々の自分のために、そして、仲間たちのために大変な苦労と運動を継続して、先進国と言われた国々を自分の目で仲間も連れて実際に見て来て、日本が最も福祉では先進国であり、現在の高齢化社会においては障碍者の存在は消え入りそうな面もあるが、障害福祉は生きている。そして、日本だけではなく世界に目を向けると貧困の格差が激しくこの戦後70年となるが、常に世界のどこかで戦争があり、そのために常に弱気物、幼い子供たちが犠牲になっているのだ。Kさんは最も先進国である今の時代で活躍を期待したい。
 障碍も単なる個性、現在は障碍という大きな試練をよき経験として生かして超越してこそ、人の心が良く見えると思う。彼女にも心の痛みを乗り越えて、悲嘆にくれる弱気な時もあったと思う。現在の自らの仕事に自信を持ち立ち直るまでの過程はあったと思うが、仕事に生き甲斐を持てる時と身体も心も疲れる時があると思う。
人生はひとつしか選べないもの、Kさんは1度結婚して離婚していると話した。それらは過去の事で現在は愛する人はいないとの話、結婚をする気持ちも持っていないという。まだ、若き美しいひとりの女性として、家族以外で信頼出来る彼女の存在を丸ごと支えて理解して愛する人がいつも見守ってくれる人がいると思うし、見つける努力は彼女自身のためには必要だと思う。結婚は心の負担になる事が多いのは、私の経験でも感じている。しかし、出来れば異性との楽しい語らいリラックスさと時には余暇と視野を持っているほしいと私はより幸せになって欲しい事と言う印象を持った。

しのぶは元気でこれからの飼育とお勉強
 今は特に午前仲はよく大きな声で元気よく私だけではなく自分への存在をアッピールしている。d0019913_5191131.jpg
 ピイピイと元気よく鳴き、朝のおはようを1日中、夜になってもおはようと話をしてるが、ソプラノのような早口でピイピイと鳴き、期待して鳴いているが仕事が忙しいくして看護師さんやヘルパーさんへそれでも自分の方へ振り向いてほしくて、いそいそと嬉しそうに早口で鳴くのである。もっとゆっくりと話すように教えているのだが、人に解ってもらえるようになるのには、もっとゆっくりと話してほしいと教えているが、もっとよく練習しなければならない。d0019913_19545033.jpg
 今のしのぶには外に出た出してほしいときだけ大きな声で買主だけではななく訪れる人々に毎日元気に鳴いている。来た頃は何の怖さも知らない素直なしのぶであったがいつの間にか?自らの嫌な態度を示すうにって知恵が増したうだ。私は息が苦しくて声がよく出ないこともあるが、ゆっくりと時間を掛けて誰にでもしのぶちゃんと聞こえるように、私の日課として、生きる喜びとして身体の変化や痛みを超越して誰にでも「しのぶちゃん」と聞こえるようにに日々努力中である。
 私はどんなに苦しくともしのぶだけは最後まで離さないで頑張っていこうと思っている。しのぶちゃん、がんばろうね!!
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by rakudazou | 2015-02-07 03:53 | 日本の障がい者・運転の歴史50年
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自動車生活を振り返って

奈良県 磯田恵三
  私は、昭和17年、7人兄弟の一番末っ子として生まれました。健康優良児でした。昭和20年3歳の時にポリオにかかり下半身麻痺。不運は続きました、4歳の時、母が亡くなりました。父は元気で経済的には恵まれましたが、母を失い不自由な身体なのに甘える人がいなくなり辛い幼少時代でした。
 私は、一般の小学校、中学校に入学でき卒業しました。今だったら養護学校があるのでそこに入ったと思います。父は学校に改善は何も要求していません。母がいたらしたかもしれません。そのため、本人の私は学校にいる時間帯は地獄でした。朝から学校終了まで教室の椅子に座ったままです。トイレも学校が終わるまで我慢しました。11時頃からたまらないほど小便がしたいが我慢しました。学校の帰り道端でしますが、痛くて出ません。幼少ながら朝水分を取らない知恵もつき、毛穴が広がり水分は汗で出す体質に変わりました。朝8時に用をたすと夕方5時ぐらいまで大丈夫になりました。d0019913_1564098.jpg
 自転車屋さんに子供自転車を三輪自転車にして、ペダルを手でこぐようにしてもらい、それで学校まで行き、一人の学友におぶってもらい教室に入りました。その美談は中学卒業までに何回も新聞に載りました。子供自転車と同じスピードが出ました。田んぼに落ちたり、怪我もしましたが自転車屋さんにそのことを言いませんでした。現在では怪我をされて訴えられたら損害賠償を支払わなければなりませんのでそんな危険なもの作ってくれませんでしょう。その三輪車のおかげで近所の子供達と活発に遊べました。座わり相撲を考案して遊んだり、レスリングも野球もして遊び筋肉隆々のガキ大将になりました。その体験が今も役に立っています。
 藤森さんという方が日本で初めて手動式の自動車で免許を取得したのを新聞で見ました。早速、父に自動車を買ってくれと頼みましたが、父自身免許取立てでミゾにはめたりしている時でそんな危険なものダメと言われました。20歳の時、父が癌で亡くなりました。人生が真っ暗になり、将来が不安で死にたい気持ちでした。そのどん底の中で光となったのは自動車でした。自動車を発注しました。父が亡くなって2ヵ月後、手動式のマツダクーペが入ってきました。今でも自動車は父が変身したものだと思っています。
 車を購入したが奈良県警では検討すると言って6ヶ月間運転免許試験が受けられず、自動車学校へも行かず、直接試験場のコースを走り合格し21歳の時に免許を取得しました。
 また、独学で簿記を勉強し、兄におぶってもらい商工会議所の簿記2級まで取りました。1級を取れば大学卒とみなされ税理士試験を受けることが出来ます。しかし、難しくて1級は取れませんでした。
 病院で岡本前会長と知り合いました。趣味で挿絵を描いていたのが私の人生に幸運を招きました。岡本会長は印刷の版下、写植業をしておられて、絵は生かせると言われ岡本さんのところで、写植を修行しました。修行中、奈障運設立のため車で県庁等関連機関を回ったのを覚えています。28歳の時、岡本さんから独立して写植業を自営しました。
 奈障運の運転競技会は最初から参加し、奈障運の車8台ほどで連なって行く旅行も行きました。全車にリボンを付けて、最後の何回かは無線も付けて走りました。全車旅館に横付けしたときは付近の人々に大臣でも来たのかと思わせるほどで優越感を味わいました。白浜、岡山、鳥取等を旅行したのを覚えています。鳥取の旅行は冬でした。畑か道か分らないほどの積雪の中、チェーンを付けてもらい走りました。坂道でブレーキを掛けたため半回転したのを覚えています。d0019913_158424.jpg
 協会の行事で東京都小金井市から障害者専門の東園自動車教習所が奈良へ来てくれました。それをきっかけに奈良県の障害者多数が運転免許を取得しました。その時まだ奈良県では手動式は軽自動車しか免許を与えてくれませんでした。東京都では手動式でも1200㏄までの普通車だったら免許を与えてくれると聞きました。東園には宿舎が有り、運転免許が取れるまでその宿舎が面倒をみてくれます。d0019913_1594696.jpg
 東園で免許証を取得したいという3人の障害者と私が運転するマツダキャロル360で東京へ行きました。4人全員歩けません。その時代、軽自動車に載せられる小型の車椅子など有りません。もしトランクに載っても誰も降ろしに行ける人はいません。エンストが起きても誰も車から出られません。そんな危険な状況で名神高速、東名高速を小便はペットボトルにして永遠と走って東京小金井市の東園に着きました。途中、交番で降りられないので大きい声で道順を尋ねると降りてこいと怒られました。
 私は、軽免許から普通免許に切り替えるだけなので2週間で普通免許を取得し一人奈良へ帰りました。3人は一ヶ月後免許を取得し東園の車で奈良に帰ってきました。2回目の東京行きは、トヨタパブリカに兄夫婦を乗せ東京足立区のホテルで妻と見合いしました。
 私の免許歴は47年です。今の車は11台目です。今乗っているトヨタアルテッツァが一番古く乗っていて13年目になります。175,000km走っています。47年間の総走行距離は600,000km~700,000kmの間だと思います。地球から月までの距離は384,400kmです。もう月に着きました。月を見て、ああもうあそこまで車椅子の人間が行ったんだなぁと思うと感無量になります。今は地球への帰り道です。80歳まで車に乗っていてもおそらく無理でしょう。90歳まで乗っていれば地球に帰れるかも。
 平成9年に仕事を止め無職になりました。そして奈障運の理事をさせていただきました。ボランティア部所属のときは、大勢の会員ドライバーで送迎依頼者を送迎しました。編集部所属の時は、奈障運だよりを1号~18号まで4人の編集部員で発行しました。そして昨年理事を離任させていただきました。
 これからは、子供の時の経験を生かし障害者と健常者の格差を無くすことに頑張ろうと思っています。これからは色々な人と触れ合って障害者のパワーを見せ付けて頑張ります。色々な人をどんどん乗せて走り回り運転競技会で賞を頂いた証を見せます。
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by rakudazou | 2011-06-16 15:05 | 日本の障がい者・運転の歴史50年
d0019913_14453718.jpg障害者シライバーの先賭駆者たち 

大阪 吉 本 昭  
 奈障運40周年ですが障害者自動車運転免許取得が認められたのは、51年前、昭和35年12月20日施行の新道路交通法によってです。戦後10年を経て昭和30年代に入り高度経済成長下のモータリーゼーション(自動車の大衆化・自動車が生活に欠かせなくなった社会状況)には、戦前からの道路交通取締法では対応できず障害者運転には視聴覚障害者の運転資格がなく、下肢障害者は明確に規定されず、新道路交通法の成立が待たれました。原動機付自転車が普及して、下肢障害者も手動三輪自転車に同じ原動機を取付けても殆んどの府県で認められない侭、自立のため止むを得ず走行していたのが「障害者ドライバーの先駆者」と呼ぶべき人たちで、私もその一員でした。
 新法の施行で原付免許として漸く認められ、明記された障害者自動車運転免許への挑戦が始まりましたが、歩行不能・困難故に日常生活(商用・通勤・通学・通院・旅行等)に必要不可欠の自家用車の運転免許取得は、手動運転装置付AT車を用意して府県警本部で運転が見込めるかの適性判定を受け自動車学校に持込み練習。公安委員会の厳しい試験に臨まねばならないのが、手動運転装置は製品が無く、AT車種は僅かで高価。故障勝ちとの困難に直面していました。
 その中で新法と同年発売の軽乗用車マツダクーペのAT車に一本のレバーを引けばアクセル、押せばブレーキの手動運転装置取付車を購入。自動車学校へ持込み、練習を重ね免許を取得する例が出始めました。価格は30万円代でした。残念ながら私は、家業で竹材を積むためにクーペには乗れず、普通貨物車に乗ろうにもAT車はなく両下肢マヒでクラッチを踏めないのが、軽貨物車なら右足よりマヒの軽い左足で何とか踏めるので、当時キャブオール型(鼻ぺちゃで後部座席が長い)は富士重工の「スバルサンバー」東急くろがね工業の「くろがねベビー」の二車種しかないのを荷台の広い「くろがねベビー」を選んだのが、同社初の手動運転装置の製作取付に手間取り、自動車学校へ持込み教習を受けられたのは同年末で、翌37年3月27日に運転試験合格。28歳の誕生日でした。下肢障害者の軽貨物車の運転免許第1号でした。
 大阪の下肢障害者の普通乗用車免許第1号は36年3月の吹田市の福村周次氏(当時41歳)で、戦傷で両大腿部切断の義足となり、苦学して有名病院の薬剤師となられ、原付手動三輪車を経ての自家用普通免許は夫人(健常者)が先ず取得して協力。ダットサン中古車を改造、クラッチは義足で踏んで合格。全国の下肢障害者運転免許でも第1号とされ、夫妻で何度もテレビに出演。その苦労と喜びを話されました。同じ頃、驚いたことに下肢障害者が自分用の自動車を知人に頼んで製作。陸運局の車両認定を受け運転免許を取得されたのが新聞に載りました。阿倍野区の佐々木稔氏(当時51歳)で、車は大型の三輪オートバイに似ていました。同氏の勇気に感動して連絡をとりましたが、同氏や福村氏や私のような例が東京・大阪始め全国に生まれるのには、運輸省の諮問に応え新法の障害者運転免許規定の明記に尽力されたのが東京の下肢障害者渡辺聖火氏(当時56歳)でした。同氏は新法成立10年も前から「下肢障害者の自立更生には車両運転が必要」と厚生車両人団を設立、機関紙「足」を発行。運輸省始め関連官庁に訴え続けられ、私は同紙上で免許取得直後の福村氏の苦心談を読むのですが、毎号のように「免許取得を早めるにはどうすれば!!」と叫ばれていたのが東京の小山力太朗氏でした。
 昭和38年正月、佐々木氏から福村氏の要望される厚生車両人団関西支部結成の相談で集まるとの通知があり、両氏と大阪市内の下肢障害の中村光氏(当時39歳)村上徳正氏(33歳〉と私の5名が運転免許取得者で、免許取得に挑戦中の下肢障害者が5名の集まりとなり、福村氏を支部長として同支部が結成されるのですが、「厚生車両人団」との名称が堅苦しいので「大阪身障者自動車クラブ」とも呼ぶことに決定。席上、福村氏の「苦心して免許を得たが、駐車禁止地点が増えて行先から離れて駐車せねばならず意味がない。救急車・医師の往診車並みの駐車制限緩和を要望したい」との発言に共感。これが下肢障害者車両の駐車禁止除外(駐車可のステッカー交付)運動の始まりで、翌年の東京パラリンピックに呼応しての第1回大阪市身障者体育大会時の選手移動の運転奉仕を行い、パラリンピック終了後来阪予定の外国選手への運転奉仕を大阪善意銀行に預託しました。同年8月、私は初めて上京。渡辺氏を訪ねると初対面の私を泊め積年の苦労と当面の課題「駐車可のステッカー交付」の要望を続けていることを熱く話されました。
 翌39年、私は新型コロナAT車で普通免許取得。新型ブルバードAT車に乗り代えた佐々木氏と日野コンテッサAT車の中村光氏とで東京オリンピック後のパラリンピック見学に開会前日上京。翌日会場で待ち合わせた渡辺聖火氏と小山力太朗氏とで見学したのですが、初対面の小山氏は43歳。両下肢マヒでも長足・長身で眼鏡とハンチングの似合うダンデイでした。オリンピックと同時に東京では駐車可のステッカーが交付。大阪ではパラリンピック終了直後外国選手の来阪に合わせて交付されました。
 翌40年9月、福村氏が急逝され、厚生車両人団は同41年社団法人厚生車両協会として認可されますが、同44年、小山氏主導の東京都障害者運転協会の設立時に渡辺氏が病没され、同氏を障害者運転の父と仰ぐ小山氏等は日本障害者運転協会の設立を目指されるのが、奈障運は、その過程の昭和46年に生まれたことになります。当時、東京都身障運転者協会と山梨県身障運転者協会があるのみで、後年㈱ニッシン自動車工業関西となる広陵町の山本敏喜氏の手動運転装置取扱の創業間もなく、利用者の増加と結束を期して奈障運設立を早められたようでした。
 私は同年末購入の日産プリンス・スカイラインの手動運転装置取付を同氏に注文。以後22年間に乗り代えた4台の内3台を同氏に1台は外国車(フオルクスワーゲン)のため埼玉のニッシン本社(亀田藤雄氏)の取付でしたが、下肢障害ドライバーとしての両氏は最高の手動運転装置を製作普及されました。奈障運会長の奈良市の印刷業岡本章氏(当時50歳位)も柔和な人柄で親しくなり奈障運の吉野への一泊ドライブや総理大臣杯の出る障害者運転競技大会にも参加致しました。
 昭和48年、日本身障者運転者協会が正式発足。会長は山梨県障運の原徳明氏(当時53歳)で小山氏は事務局長に就任。副会長は複数制で佐々木氏の他、都障運の畑中良三氏(当時34歳)宮城県の平田健治氏等で、厚生車両協会関西支部は日障運関西支部として移行。佐々木氏が支部長就任。同年秋、石油シヨックによるガソリンの高騰と供給不安に障害者ドライバーも動揺するが翌年沈静。各地に増える有料道路の無料化が課題となり関西支部も道路公団に要望するが、5年後の昭和54年に漸く全国で半額割引が実現。日障運は全国大会を毎年開催。社団法人全国脊損連合会も各県に支部を設け積極的に運動を展開した結果でしたが、日障運役員が全国脊損連合会の役員を兼ねての活動もありました。
 以上、私の出会った障害者ドライバーの先駆者たちの運転免許取得後20年。奈障運発足10年頃までの思い出を述べましたが、山本敏喜氏、亀田藤雄氏以外の方は私より年長。免許取得時、既に中年であられて全て逝去され、山本氏も昨年逝去され、亀田氏のみ健在です。ネットで「らくだぞうblog 日本の障がい者・自動車運転50年のあゆみ」を検索されれば、渡辺聖火氏、小山力太朗氏、原徳明氏、畑中伸三氏、平田健治氏、亀田藤雄氏についての記述があります。是非お読み下さい。何事も先駆者は民間人で早くから憂い、公(マスコミ・国会議員・官庁等)に訴え続け、漸く事が成就しても短かく楽しみ、つまり「先憂後楽」して先立たれた姿を奈障運設立40周年を祝われる皆様に改めて知って頂ければ幸甚です。
 尚、私は大阪在住ですが父祖三代奈良県出身で、親族・知己・友人が奈良県に多く、生駒にも住居があり、自家用車で往来する生活を続けています。岡本章氏、山本敏喜氏とのご縁で昭和時代の奈障運の行事に参加させて頂きました。旧知の本誌編集部長 高森敏夫氏からの依頼で拙文を寄稿致しました。御判読を感謝致します。
by rakudazou | 2011-06-16 14:46 | 日本の障がい者・運転の歴史50年
◎ プロローグ     
 現在では、障がいを持つ人々が自動車の運転免許を取得し運転出来るようになることは当たり前のような時代になっている。しかし、今から50年前には、一般の人でさえ自動車を運転出来る事は限られている時代に、障がいを持つ人々が自動車を運転することは「夢」のまた、夢の時代があった。
 一人で『外に出たい、移動の手段がほしい!!』と思う事は自然なことである。しかし、障がいを持っているから哀れみを乞うのではなく、仕事がしたい、自立したいと思う気持ちは当然のことである。戦後の困難な時代に多くの障がい者の先人たちは夢を叶えようようと生活や仕事に賭けて、不屈の精神で行政に物申し実力行使を幾度ともなく行い最後にはようやく行政を動かした。そのようなたゆまぬ努力の成果が現在の免許制度になった事実を忘れてはならない。このような先人諸先輩たちの厳しい苦難の歴史を残しておきたい。

◎ あゆみ始めた時代    
 障がい者の自動車運転が生活出来るようになる以前には、敗戦でアメリカの統治下にあった我が国において、マッカーサー元帥は昭和20年〔1945年〕8月30日に専用機バターン号で神奈川県厚木海軍飛行場に到着、以後、昭和26年〔1951年〕4月11日まで連合国軍最高司令官総司令部(GHQ / SCAP)の総司令官として日本占領に当たった。昭和20年〔1945年〕9月27日には報道機関に掲載のため昭和天皇陛下と会見写真を撮影した。この写真ではリラックスしている大男のマッカーサー元帥と、緊張して直立不動の小柄なd0019913_20524459.jpg昭和天皇陛下が写されて当時の国民にショックを与えた。マッカーサー元帥は「これからは自動車の時代が訪れる!!」と1947年〔昭和22年〕に千代田区九段にあった警察学校で警視庁警察官の運転免許教育が開始され、戦後、間もなくの自動車の免許制度が作られた。
 また、「日本には障がい者がいないのか?」と発言をした。当時、神奈川県相模原市に国立相模原陸軍病院に隣接した。昭和24年〔1949年〕に国立身体障害者更生指導所が設けられていた。マッカーサー元帥はまた、「障がい者の施設は国の中央に持っていくべき」との提言を受けて、国では昭和27年〔1952年〕東京都新宿区戸山の国有地に近代的な新庁舎の建築に着工、昭和28年〔1953年〕国立身体障害者更生指導所は移転され、全国から重度の障がい者が入所して来た。昭和39年〔1965年〕に東京オリンピックが開催されるのを機に国立身体障害者センターと名称変更、更に昭和54年〔1979年〕国立身体障害者リハビリテーションセンターと変更した。そして、昭和36年~54年〔1961年~1979年〕にかけて、障がい者の運転の条件や指導が大きく変革した。
 障がい者の運転免許を取得するまでの訓練、練習等は国立身体障害者センターから始まっている。戦後まもない時期から、困難にも負けずに自分の足の代わりとなる自動車を改造しては、制度化される以前は無免許で自動車を改造して走らせ仕事をしていた人たちも多く存在していた事実もあった。

◎創世期に関わった人々
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創世期に関わる人々の特徴昭和35年〔1960年〕厚生省行政補佐官時代から、障がい者の自動車免許が取得出来るように懇請をした。田原圓十氏が庶務課勤務として、国立身体障害者更生指導所に配属したときに田原氏は「これからは障がい者にとって自動車の運転が必要となります。一緒にやりませんか?」と誘った人物が、指導課勤務の中村雄氏であった。大正3年~平成10年〔1914年~1998年〕中村氏は昭和29年〔1954年〕に国立身体障害者更生指導所にケースワーカーとして転勤してから昭和55年〔1980年〕退官、これに賛同した中村氏と田原氏の2人の決心から「我が国で最初の自動車訓練」が始まったのである。
 創世期には現在の車社会と違って、信じ難い実態であった事も事実である。当時の一般の人々でも自動車運転を必要とする人は少ない時代に、障がい者が自動車の運転を顧みられず、また、障がい者自身も「自ら自動車を運転する」事に気づいていなかった時代に、自動車を障がい者が運転をする事によって世界が広がるという先駆的な人たちであった。東京の田原圓十氏、中村雄氏、渡邊聖火氏、長崎県の内海幸輝氏、香川県の寺沢幸一氏、久保庄一郎氏、岩手県の小野時雄氏である。中村雄氏の先駆けした先輩の共通点は「仁怒の精神」と「洞察力」を兼ね備えていた事であった。

◎ 時代の経験者から・・・  
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谷岡保男氏、障がいは下肢不機能障害のポリオ、昭和10年〔1935年〕12月20日、高知県生、埼玉県川口市在住74歳である。子供の頃からオートバイの走る爆音がすると心が躍りカソリンの匂いが大好きな元気な少年であった。昭和29年〔1954年〕19歳で希望を抱いて神奈川県相模原市から新宿区戸山に移転したばかりの真新しい国立身体障害者更生指導所に手に職を得るために靴科の21期生となった。技術と共に機能改善の手術を3回受けながら多くのものを学んだ。d0019913_2123334.jpg3輪手動車イスで移動をしてよく遊びに出かけた。後に同氏は靴科であった事は修了して直ぐに仕事として結び付き、昭和32年957年〕6月に修了した。
 池袋西口の靴屋に就職したが、ゆっくりと寝る所もない狭い所で靴を作っていたが生来の器用さが発揮できた。よく仕事もしたが遊ぶのにはことも欠かない歓楽街であったので同じ仕事仲間と松葉杖を付きながらいろんな体験が後に役に経ったのであった。
自動車に乗れたらどんなに便利だろうと、その当時、道路を走る自動車がほしくて仕方がなかった。
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昭和33年〔1958年〕独立し結婚をして、靴作りをしていた時からゴルフの「日本製のキャディバックがつくれないか」と請われて以来、キャリディバックの道一筋、それも本物の手作り逸品を作り続けて47年を超える中で仕事人としては反乱の多い人生であった。d0019913_21104857.jpg
 昭和34年〔1959年〕念願の自動車を購入した。ダイハツ・ミゼット250cc〔バーハンドル〕を無免許で2年くらいの期間に乗っていた。通常のクラッチペダルを改造しブレーキペダルにした。仕事で無免許で運転中に明治通りの飛鳥山を右折した折に
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車が故障で動かなくなってしまった。警察官がかけっけて来たが、無免許の谷岡氏は当時、貴重品であった皮製品を荷台に沢山乗せていたので怪しまれて、引き取りにかけっけた人もオートバイの無灯火で2人とも罰金を払うはめに合ったり、スピード狂で何度も捕まる事もあったようだ。
 d0019913_2114583.jpgしかし、その警察から後から便りがあり「何だろう」と不思議に思っていると障がい者にも免許が取得出来るようになったので免許が取れる知らせを親切に教えてくれたのであつた。豊島区の都の練習場に於いて自らの車を持込み、昭和37年〔1962年〕6月に免許が取得を出来た時にはどんなにうれしかったことだろうか?
車の歴史も多才で、昭和38年〔1963年〕にコニーグッピー、次にマツダ・クーペR360cc初めてのオートマチック車に乗った。トヨタ・パプリカ、そして、初めて普通免許になって乗ったのはマツダ・ファミリアであった。次にはトヨタ・クラウン、アメリカ車のリンカーンを運転していた事もあったと云う。d0019913_21152931.jpg
最後まで自動車を愛して止まなかった同氏は最終的に乗り心地の良さで最も長く愛用したのはトヨタ・セルシオであったが、平成21年〔2009年〕5月で運転する事は残念ながら辞めた。多分、今でも運転している夢を見る事であろう。同氏は、とても元気な人で現在はスエーデン製の電動車イスに乗り、公共交通を使いながら第2の人生をたのしみながら何かを模索しているようである。
谷岡氏のように、免許の取れない時代を仕事のため、生活のために移動手段として、無免許であろうと苦心して改造した車を操作し運転をしたり、免許が取得されるようになると同じような障がいを持つ人たちといろんな情報交換をしながら自らの努力で運転免許を取得した努力した人々が多く存在すると思うが、直接に本人から当時の話を伺えた事は幸いであった。
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by rakudazou | 2010-11-09 19:53 | 日本の障がい者・運転の歴史50年
◎ 国立身体障害者センター〔東京都〕   
d0019913_21413725.gif多くの懇願から昭和35年〔1960年〕12月20日に道路交通法が施行された。同時に田原庶務課長は入所生の児玉忠雄氏、小野時雄氏、岡田光輝氏等に呼びかけて入所生の中で自動車クラブを結成すると共に、自動車メーカーに趣旨書を送り寄付を仰ぐことにした。最もこの当時は、一般社会でも自動車運転は縁遠い時代であった。当時のセンター職員115名の中で調べたが運転免許の所持者は田原氏庶務課長と1名の運転手のみの2名であった。
この頃に、寄贈された自動車は東洋工業のマッダR360クーペやコニー㈱のコニーグッピー〔後に日産自動車と合併〕である。1967年〔昭和42年〕トヨタ自動車よりパブリカ800ccを寄贈されている。これにより昭和36年〔1961年〕6月30日より、入所者の自動車クラブの活躍で自動車操作訓練が始まった。当時は車を操作することが運転をするという考えから「自動車操作訓練」という独特の用語が使われていた。
 最初に免許取得したのは、田原課長指導による小野時雄氏〔小児マヒ〕昭和35年~37年〔1961年~1962年〕入所生、戸山40期、岩手県出身の小野時雄氏が我が国最初の昭和36年〔1961年〕7月に合格「免許の条件:アクセル・ブレーキは手動式オートマチック車に限る」である。当時の入所生の全員が自分と同じように障がいのある者が「自動車の運転が出来る!」この事実を目にして夢が広がった。それから彼等の中に免許取得希望者が急増したことは言うまでもない。そして、小野氏の指導による〔戸山入所生43期〕村田稔氏〔小児マヒ〕が免許取得の2番目である。村田氏は後に車イスの弁護士として活躍をした。続いて、両大腿部切断の児玉忠雄氏は3番目である。しかし、児玉氏は中途障がい者で、免許そのものは資格があり、条件付きの書き換えであり8月に手続きをしている。相次ぎ合格者を出し、現在は詳細に判っている。
 d0019913_21435314.jpg後に中村雄氏の回想録を新宿馬場下で西尾印刷に依頼した。その回想録の中で寄せている文面の中で西尾陽二氏は昭和37年9月〔1962年〕に8番目の免許取得者であると回想録で本人が記している。しかし、同氏は、この時期に和田先生の機能改善手術を受けてから補装具を付けて歩行可能になり免許取得していると思われる。営む西尾印刷では、最も長きに渡りセンターのある地元に住んで居て、昔は遠い地方から訪れる修了生の臨時の宿泊場所となり、住まいと食を提供したと聞いている。d0019913_2245121.jpg
                                                                    西尾陽二氏:昭和10年(1935年)75歳、新宿区在住、戸山37期、鳥取県出身〔胸椎カリエスによる体幹障害〕の障がいから関連する直腸など内臓器官が次第に悪化し手厚い夫人の介護により現在、在宅治療中である。
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 西尾氏は最初から乗った自からの自動車の写真の記録を撮っていたが、同氏の乗る自動車は生涯に渡り住む住宅事情から助手席の窓から室内の窓を通して出入りをいていた。駐車のスペースと住宅の問題で同氏のような自動車の大きさや利用の仕方が当時は多くの障がいを持つ人々が存在していたと考えられる。
昭和35年(1960年)50年前に障がいを持つ人々に手動装置の必要とする人々に許可されたが、あくまでも乗り降りが可能な歩行出来ることが条件である。「障がい者に免許が取れる!!」と当時、新聞等にも報道されて、希望を抱いて多くの重度障がい者が戸山にあった国立身体障害者更生指導所に入所して来た。この時代に免許取得の目的で入所していた岩井元秀氏、48期生の話によると、誰しもが直ぐに免許取得出来た訳ではなく、少しでも歩行が出来るように、当時、医務課の和田博夫整形外科医による機能改善手術をし、条件を満たした中で自動車の乗降は自ら可能な条件の基で免許が取得出来た。歩行困難で車イス使用者として免許取得出来るようになったのは、その後、昭和44年を経てからであった。
 昭和37年〔1962年〕4月に田原圓十氏から中村雄氏に正式に自動車クラブの担当を引き継いでいる。この時点では更生指導所の正規の業務として扱われる事になり、単なるクラブ活動として位置づけられていた。担当職員の不足のため、学科は心理判定職の岩坪寄子氏が昭和41年〔1966年〕まで担当し、技能は中村氏とクラブ員〔入所生〕が分担するという、たぐいまれな奇策で凌いでいる。
当時、入所生の全員が自分と同じような障がいを持つ者が「自動車運転が出来る!」この事実を目の前にして、免許取得希望者が増加の一途をたどったのは勿論のことである。

◎練習コースの環境について   
 昭和35年〔1960年〕12月20日、道路交通法施行〔障害者の転免許制度スタート。道路交通法第88条による①目の見えない者②耳が聞えない者、③口がきけない者、④これらの者の他、政令で定める身体に障がいある者には、免許を与えないと定め、これらを受けて同法施行行令33条、同法施行規則第23
条が定められた。身体障害者の法律に基づいて運転免許を取得出き道が開かれた最初である。その後、免許取得の希望者が増加し自動車クラブも活気に満ちたのは言うまでもない。
 昭和36年〔1961年〕、当時の国立身体障害者センターでは、自動車訓練は危険のであるが、正規に定められた上による当時の所長決裁で決められた。その実施主体を入所者の自動車クラブとして発足と同時にクラブとして活動し、指導員の指導の基に、免許取得した後輩の入所生が補佐して数年間に渡り正規の指導員として携わった経緯がある。本館と寮につながるセンター橋の下の広場に自動車練習場を作り、その指導的立場に立ったのはこの年の8月に中村氏や自動車クラブの体験や意見を取り入れた中でセンターに程近い文京区に当時あった、カナダ自動車工場で手製の手動装置を製作し、オートマチック車による自動車の改造を行っていたと思われる。
 d0019913_21462316.jpg当初の訓練車は、東洋工業マツダクーペR360cc、その後、東京コニーKKコニーグッピー、トヨタ自動車のパプリカ700cc、それぞれと1台寄贈されて、かろうじて練習が開始された。
昭和34年〔1959年〕道路交通基準法案作成の段階で、国立身体障害者更生指導所に障がい者の自動車運転に必要な四肢の運動能力の調査に担当者が訪れた。入所生の柳谷直樹氏、高橋清文氏、小池日左加江氏等が調査の協力し実測が行われている。この当時から自動車クラブが開始されたようだ。
練習コースは前面雑草が茂っている広場であった。入所生は中村氏をよく助けて前面除草を繰り返し行い、集められた草の山は多い時には2mにも達した。縁石は古縄をつないで代用、小石を拾い集めて並べるなど練習コースを作るまでには維持管理に積極的に協力している。練習は雨天でも休まずに行われて、ぬかるみ化したコースで動かなくなったマッダR360ccクーペやコニーグッピーの後押しを入所生が行っている。更に、コースの泥水はバケツで〔車イスの者はステップにバケツを乗せて〕運び出す努力や協力が一斉に行った。
 この訓練が始まって以来、昭和45年〔1970年〕までの実に9年間、この劣悪な諸条件が続いた。唯、ひたすら、車を生活に使いたいと、この強いやむにやまれぬ希望があるとはいえ、代々のクラブ員はよくこれに耐え抜いたと思う。
 d0019913_13104336.jpg1961年〔昭和36年〕から、排気量が360ccに限定されていたが昭和42年〔1967年〕にトヨタパブリカ800ccが国立身体障害者センターに寄贈された頃に、何とか360ccの壁をクリアしたいと当時のトヨタ・パプリカ800ccの車両を使い、鹿児島県出身、入所生、戸山61期の春山敏秀氏〔脊髄損傷〕埼玉県川口市在住、関わった職員の云うには、上半身が大きいからという理由で、同年12月に府中試験場に及んだが、別に何の問題もなく合格し普通免許取得として第1号者となった。
これを機会に360ccから排気量アップする者も多くなり、当時は1200ccから、1、5t、2tと排気量アップが出来るようなった。最初からオープンで免許取得したのは戸山入所生の前田敦子氏は昭和55年~平成4年、〔1955年~2004年〕である。昭和36年からの18年間の戸山時代で521人、1955年に所沢時代となり現在まで130人の障がい者の免許取得者で両方を合計すると651人であった。

◎ 中村雄氏の生涯に渡る障がい者への運転指導の影響力 d0019913_2148849.jpg 
 中村雄氏は大正3年~平成12年〔1914年~2000年〕享年86歳、山口県周防市大島郡、医師の家の長男として生まれた。昭和29年〔1954年〕中村氏は和歌山県の社会事業協会時代から、40歳の時に国家公務員厚生省事務次官となり、当時、新宿戸山にあった国立身体障害者更生指導所〔後の国立身体障害者センター〕指導課長補佐として就任した。福祉の仕事に従事した当時所長以下職員は「このセンターは障がい者のための施設だ」という考えに徹して、たえず障がい者と接して言葉を交わすように熱意を持ち仕事をした。
また、同氏は長い間の公務員の生活の中で傍目には語らなかったが、政界との深いつながりがあった。郷里の山口県で、中村氏の父上が佐藤栄作前総理大臣の後援会長をしていた関係もあり、岸信介前総理大臣、三木武夫前総理大臣、安部晋太郎衆議院等から、何かあったら直ぐ来いといつも言われて、平生何事も話して力や助言を貰いそれを守り貫き通していた。大学で同級の飛田社会党委員長とも親しかった。昭和33年〔1958年〕かねてから障がい者の自動車利用について関心を持っていた、岸信介氏に合い「警視庁で近く交通法制定の準備が進んでおり、その法律の一定の条案のもとに、障がい者も運転免許がとれるように・・・」と話したところ快く賛同し、警察庁長官より間もなく警視庁、科学警察研究所、警視庁試験場の各、運転専門官数名がセンターに訪れて障がい者の能力を調べた。この問題はかねてから懇意にあった渡邊聖火氏が発足した社団法人厚生車輌協会の多年の熱望であった。このようにして、昭和35年〔1960年〕に施行された道路交通法で、適性のある障がい者へ条件付きの自動車運転免許交付の道が開かれた。
 センターでは、初代自動車訓練室長になった同氏の影響は大きかった。中村氏は「自動車操作訓練」と称して国立身体障害者更生指導所の時代に昭和36年〔1961年〕本館と入所生寮の間にあった広場に自動車訓練コースを作り我が国で初めての自動車訓練場を当時の入所生等と共にコースを作った。これらの人々が帰郷して全国に先駆けて地域の自動車取得するための自立向上に大きな言動力となった。丁度その頃、マツダ自動車㈱が日本で初めて開発した〔下肢を用いないで運転出来る〕マツダクーペR360cc1号車がセンターに寄贈された。
「相手の身になって話し行動すること」を常にモットーにして、障がい者のニーズに本格的に応えるべき、技能試験、仮免本免と奔走し、昭和37年6月30日からセンターでは本格的に日本で最初の障がい者運転〔姿勢の安定、認知、判断、操作〕の練習〔教習〕と運転特殊方法、装置の工夫、研究を始めた。
 同氏は懇意にしていたセンター近くの自動車修理業カナダ自動車㈱の加藤社長等が明朝、受験に間に合うように試験場に持ち込む身体障害者用特殊車の修理を夕方から夜11時まで工員3名を残して無償で提供してくれた。練習も雨の日、雪の日やその直後の路面の凍結した道路など、免許既得者全員にタイヤの装着、チェーンの着脱などを、同乗して走行をして滑るときの対処法を学んだりした。センターから近くの場所にあった公認教習場、世田谷自動車学校に協力を依頼して、夕食後には障がい者3名程、免許を取るために時速40kmの直線コースを本人負担で練習を重ねて夜9時までにセンターへ戻ったものだ。
 しかし、公僕としての国民〔障がい者〕に尽くすことが第一と考えていた同氏とっては張り合いであり楽しくもあった。当直の日は生徒と共に入浴もした。遠い地域から在居している入所生たちは、毎月、日曜日には、同氏の板橋ある自宅までいつも3~4人で訪ねて団欒を楽しみ遠い家族を思っていた。同氏は自分の人生の最大の不幸は障がい者として物を言えないことであると思っていた。
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 試験場の試験官の中にいろいろの人がいて、融通の効かない人に当たったりするといろいろのトラブルも起き1969年年(昭和44年)受験をした車イス常用者の工藤七政君は不合格にされた。工藤君の運転技能を飛躍的向上するべく、本人は高度な技能教習に堪えこれを克服して4ケ月後、再び試験場で受験をした。試験官が同乗して試乗しコースを走った。工藤君は当時の軽自動車試験場のコース全部を『後進』で前進と全く同じ速度で走りぬいた。降りてきた試験官はビックリして「これは健常者でも出来ない神業だ。センターのレベルはさすがに国立だ」と感嘆された。同氏は「ここは役所なのですから、合理的に常に公平であるべきではありませんか。そのためにも適性合否をその日に担当した人の主観や感情に委ねないで、成文化した基準に従って公平に受験をして下さい」と同氏の提言が発端となって、東京都公安委員会の障害者運転適性基準が出来た。しかし、根底には「障がい者にはなるべく免許を取らせないよう、取らせてもなるべく排気量の小さいものに」という観念があったようである。工藤君は翌週、受験をして学科満点、技能減点なしで合格し泣いて喜んでいた。当時、彼は20歳であった。同氏は担当機関に赴き東京都府中試験場での不公平な適性審査の状況と工藤君の余分の苦労と適性基準成文化のこれまでの経緯のすべてを説明すると「免許は法律に基づいて交腑されるもので、適性基準は全国同一公平であるべきである。
 警視庁では障がい者への免許をなるべく取らせないようにしよう、取らせる場合でもなるべく排気量の小さい車に抑えようとしている。それが発動した警視庁基準表である。基本的に考え方を改めた新しいものを作って全国に通達して下さい」と同氏が懇願すると、以後、詳細一字一句まで協議して作った。手動装置を使って2000cc車を運転して合格すればAT車で排気量制限なしの普通免許が、また、一上肢と片下肢、両肢健常で膝下以下切断の場合は2000ccのAT車で合格し運転経験を積めば、二種免許もAT車限定で免許取得、タクシー運転も可能になった。これはすべての障がい者にとって明るいニュースであった。
d0019913_16162640.gif 昭和39年〔1964年〕警視庁交通局長から全国宛に制度の変更が通達された。センターの修了生で〔教習〕訓練で免許を取得後、後輩の指導経験を積み重ねていた、佐賀県の山口雅敏氏、岩手県の小野時雄氏、大信田康統氏〔3人とも両下肢重度障がい者〕等は故郷に帰り地元の障がい者に運転する可能性を自らの体験を話し広めて、後に県内、地域の障がい者のために自動車運転の指導を始めて、それらが近県に広がり、一般の指導者により足立区南千住教習場や遠くは香川県にも及んだ。
 
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昭和40年代に入ると世間でも障がい者の運転に注目されるようになり、NHKテレビや民放からも取材が訪れ、認識も広がるようになった。この頃、社会局更生課、大蔵省主計局に出向き、障がい者の使用する自動車の物品税の免除の懇請、警視庁交通局に対して障がい者の路上駐車の特別許可制度を何度となく懇請した。
 また、当時は路上の運転なくして免許取得が出来たが、実際には経験の無いままで一般道を走ることは危険性が高く、同氏は時間を割いては路上運転に同乗し必要性を説いた。後に運転免許取得には一般的に路上運転、高速道路走行も義務づけられたのだ。
また、国立身体障害者センターの新宿区戸山時代から昭和55年〔1980年〕国立身体障害者リハビリテーションセンターが埼玉県所沢市に移転後も公に自動車練習場として公認された自動車訓練室に2年間ほど勤務し後任の指導に当たった。中村氏は障がい者が使う自動車物品税、自動車税の免除申請を大蔵省主税局へ懇請し、昭和39年〔1964年〕に路上駐車の特別許可制度を懇請し、実現された駐車禁止除外指定車のステッカーが発行されるようになった影の立役者である。
また、除外禁止ステッカーの最初はすべて都道府県別に分かられていたが、利用する障がい者の請願が実り全国共通の駐車禁止除外ステッカーとなった。同氏は昭和50年〔1975年〕昭和58年〔1983年〕昭和61年〔1986年〕3回の渡欧で諸国の障がい者の為の福祉制度、車輌等の視察を行った。
中村氏は免許取得の出来る重度の障がい者に対しても、多くの相談や免許取得までの指導に当たり、障がい者と自動車の最初の団体・社団法人・厚生車輌福祉協会の顧問をしていた。昭和51年〔1976年〕警視庁・永年の無事故無違反運転と安全運転の普及努力に対して感謝状、定年後、昭和56年〔1981年〕に天皇陛下より勲一瑞宝章を受章した。

◎ 府中の試験場・障がい者の窓口d0019913_21485239.gif 
 自動車訓練学科の教養の草分けが安田憲吾氏である。昭和33年〔1958年〕に警視庁から派遣されて、府中免許試験場長に任命され、昭和33年〔1958年〕警視庁運転免許試験場の最初の仕事は学科試験を担当する傍ら、身体障がい者の人々の運転相談と事前審査を行い、後に専門試験官を引き継ぎの折りに渉外係であった小川剛氏は現在も元気で講演とか活躍をされているがお目にかかった時はとてもスマートな優しい紳士であった。小川氏の障がい者担当の時期は少なく、昭和57年〔1982年〕特に思い出の深いことはフラッツ式の足のみで運転する自動車免許取得に関わった白井典子さんや吉森こずえさんの印象が深いとの話であった。小川氏は外国籍の担当が併用されていた当時「君、一つ身体障害相談窓口をやってもらえないか?」と云われて渉外の表示の看板に何処の国の人でも誰でも判り易いように「しょうがい」と書かれたということであった。
by rakudazou | 2010-11-09 19:44 | 日本の障がい者・運転の歴史50年
◎ 障がい者の運転の父と呼ばれた、渡邊聖火氏のあゆみ 
d0019913_16104984.jpg 先人たちの歩んだ苦難の道、この時代は捕まるのを覚悟で走っていた。多くの先人たちの中で疾病により歩行が出来ない両下肢マヒの渡邊聖火氏は戦後、昭和28年〔1953年〕私財を投げ打って障がい者の運転問題の根幹に貢献し「障がい者の運転者の父」と呼ばれた。障がい者の自動車運転の必要性を広くアピール、このような社会状況の中で、社団法人厚生車輌福祉協会の創始者となった。故渡邊聖火氏は、都身連主催の身体障害者大運動会の会場へ、50cc三輪車イスを試走させることで、障がい者と多くの観衆に対して、障がい者が運転できること、車が必要なことについて啓蒙運動を行っていた。また、関連当局に対して熱心に障がい者の自動車運転を認めてほしいという運動を進めていたのであった。
世田谷区~神奈川県座間市に移転、明治41年~昭和44年「1908年~1969年」渡邊氏は心臓病により国立相模原病院で亡くなったが、生涯敬謙なクリスチャンとして知られている。戦後、家族の生活費のために三輪車に125ccのエンジンを付けては走っては見つかり検挙された事も何度もあった。d0019913_16251312.jpg

▲発病 
渡邊氏は、新潟県高田市出身、農家の次男として生まれた。幼少頃から頭脳明折、勤勉型で東京に出て来ても真面目さが買われて多くの師より溺愛を受けて、学問特に漢学に秀でるようになった。長じて官史となり台湾に渡って多年灌漑事業に貢献した。くそ真面目と言われるほどに真面目で優秀な官史として信望を集めて活躍していた同氏が癌に倒れたのは昭和9年〔1934年〕8月、まだ、35歳という若さで大阪市平野区で灌漑事業を行っていた頃である。
 ある日、突然、渡り廊下から庭への段を下りるとズキンと脾腹が痛み、身体がだるくなった。8月9日、発熱、それから3日目の朝、膝も腰も立たないことに気づいて多い急ぎで入院、診断の結果、「マラリア誘因よる多発性神経炎」とのこと。熱る目が驚異に変わり喜びに変わった。かすかに呼吸が戻った。医師の手に喜びの力が伝わり、間もなく呼吸と共に血液が身体をめぐり瞼が開いた。奇跡と呼ぶ以外はない。何とすばらしい生命力なのだろう。だんだんと温かくなってくる手を握り締めながら酸素呼吸器の中で静かに呼吸を続ける同氏の顔を唯、まじまじと見詰めるだけであった。
 それから数時間後「まだ、死ねない、死ねない!!」と口走り、会の今後を憂う同氏の心が胸にこたえた。「やらなければならないことがある。車椅子生活者のため、すべての障がい者のために、まだまだ、やらなければならないのだ」 脳軟化症で倒れて右半身不随は不自由になったが、「命さえあれば何でも出来る、今まで以上の仕事が出来るかもしれない」そう言った言葉に胸に打たれた。それ以来、私心を忘れて純粋に障がい者の幸せのためにと激しい情熱を傾け続けた同氏をみんなで支えていくべき「足」の編集や雑用を励んで行った。更に激しい情熱に周囲は目頭が熱くした。
 支那事変の頃、孟宗竹を割って槍、予防の寝□に利用することを思いついて研究、寝台や便器を製作、それをもって傷兵を励まし続けたことで、当時の東条総理から感謝状を受けた。計らずもそれが仕事として業者と関係を結んで生活の糧となり、不自由な身体で数々の工夫を凝らした作品を作り上げていった。
終戦、次男の戦死や三男の病気、病みがちな次女や夫人を案じながら三男と共に担架で鹿児島に上陸。故郷の新潟県高田市に帰った。三男が入院のために上京、三男の死亡を目前にして発奮した。
 その後、生計を立てるために威信を掛けたが、常に自由に自活出来ることを考え続けていた。手動三輪車の入手と改造について日夜研究をしながら当時の高田厚生省事務次官などに陳情を続けられた。昭和23年〔1948年〕11月、生活保護法により許可された。以来、雨の降らない限り外出を続けていた。障がい者の会に出席したり、役所に掛け合って業者の紹介を受け、車椅子の製作に力を注ぎ、障がい福祉の向上に力を注ぐべき足の無い者のために一生を捧げる決意を強固していた。昭和27年〔1951年〕「足」の前足であった「自活の友」を創刊した。
 全国の家の奥には寂しく身を伏せている障がい者が多く、何かのきっかけで「足」を知り、渡邊氏の活動により情報と希望を与えて勇気づけられた。明るく生きる気力を身につけたという便りを何度となく手にした事か、その度に我がことのように喜び、便りをしたため、受話器をとって、やさしい言葉を掛けるであった。反面、ステッカー交付や自動車の物品税免除などの実績を作り、障がい福祉の向上のために当時の厚生省、警視〔察〕庁、市区役所、福祉事務所などの役所に叱咄激励の電話や陳情を続けてきた。一筋の命を賭けてという言葉が決して誇張ではなく77歳をもろともせずに全国の会員及び障がい者へ会報を送り続けて、明日への希望を与え続けいた。

◎入院 
明日は第4回、総会が開かれるという日、総会に必要な書類を作るために謄写版をバタつかせて印刷に励んでいた。渡邊氏は机に向って何くれとなく遅くまで仕事をしていたが、ちょうど12時頃、急にカチャカチャと机の上にあった湯のみがぶっかり落ちる音がした。周囲の人は気付きハッと振り向くと同氏は真っ青になって硬直していた。 直ぐに治まりはしたが夜通し眠れない様子、刷り上った書類をまとめながら周囲は心配であった。明日の総会は大丈夫だろうか?やはり総会当日には同氏の姿はなかった。大阪から遥々と訪れる会員は人目、会の代表者の渡邊聖火氏に会いしたいと待ち焦がれていた。年1回の総会なので同氏の姿を待ち望んでいた人々も多かったに違いない。寂しさが漂わせながらもスムーズに総会は終わると渡邊聖火氏の入院が伝えられていた。心臓病。

◎ おわりに 
 渡邊聖火氏の自らの体験から来る当事者としての長年に及ぶ障がい者の自立獲得指導的立場の活動が認められ、昭和44年〔1969年〕に故人の生前の功績により『勲五等従六位』を贈られた。
 渡邊聖火氏の一生の業績は、在宅に篭っていた障がい者を自ら出かけて行き、社会参加の必要性を説き「私を見なさい、こうして出かけているのだよ」と呼びかけて、同氏自身は免許取得はしなかったが「自動車免許の取得する事により足と成り得る」と全国に存在する障がい者諸君に希望と勇気を与えたパートナーシップに富んだ友愛の精神であったと思う。

◎ 地方に於ける障がい者の自動車運転免許取得への動向  
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地方では断片的であるが、昭和28年〔1953年〕長崎県佐世保市の掛橋一郎氏は左大腿部切断したが義足着装をして、家業を継ぐためラビット〔スクーター〕で受験を受けて運転免許取得していた事が障がいを持つ人では我が国での最初の記録である。
いずれにしても、昭和30年〔1955年〕初期はごく少数の障がい者が三輪車イスに50cc以下のエンジンを取り付けて使用したのにとどまった。

◎ 佐世保自動車学校〔長崎県〕 
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昭和37年10月〔1962年〕佐世保自動車学校の社長、故内海幸輝氏〔医師〕は、山口雅敏氏の訴えに協賛するところとなり、長崎県佐世保市において我が国で2番目〔民間では最初〕に障がい者の教習所を開始し、早くも翌年の1月には故品川龍一氏が免許を取得している。同氏は教習所に車を持ち込み自由教習の方法で行い、受験は大村市にある長崎県自動車運転免許試験場で学科と技能の試験を受けている。この取得方法は暫く続き、その後、県から練習用の車が提供される事になったが、健常者のように実施試験免除の扱いを受ける事はできなかった。それにしても適性試験の引率、大村市にある長崎県自動車運転免許試験場への送迎、ましてや、障がい者の初めての指導者には何かと負担・気苦労が伴った事は推察できる。障がい者の事などは一般社会においても、あるいは、試験場や教習場でも顧みない時代に受け入れたのは故内海幸輝氏が医師であったことも履歴を調べるとその答えは自然と理解できるのである。センターに次いで2番目、民間では我が国で最初であった。

◎ 香川県身体障害者更生指導所〔香川県  
 香川県身体障害者更生指導所、寺沢幸一氏と生活指導員、久保庄一郎氏は昭和38年〔1963年〕国立身体障害者更生指導所おいて開催し、更生指導実務研究会に出席、ここで行われている自動車訓練を実際に見る事になった。両氏は帰郷するや、直ちに同所において障がい者の自動車訓練を行うべき準備に入った。翌、昭和38年〔1963年〕11月、昭和39年〔1964年〕6月、自動車訓練は開始されたのである。これが我が国で3番目となる。これを知る最も適切な資料として、香川県立ひかり整肢学園長・香川県身体障害者更生指導所医学博士・寺沢幸一氏の報告書「奇跡を見た日」の一部を紹介する。
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【これほどの重度障がい者が運転する自動車のハンドルやアクセル、クラツチなどの改造を加えていることも驚きである。この自動車の改造と一つの障がい者専用の練習コースを持つことが身体障がい者の運転練習には不可欠だと考える。実際ハンドルやアクセル、ブレーキなどが改造され、全部手で出来るようになって足の不自由さを助けるためのバンドが付いて工夫がいろいろとされている。最初、一般コースに練習に行った時は健常者より好奇な目で見られ、その視線に耐え難く、さすが熱意に燃えた彼等も練習を断念して帰ったそうで、それから今までバレーコートであった中庭に練習場を作られたそうだ。先に、練習場で中村雄氏に言った。「あなたは身体障がい者に奇跡をおこしましたね」傍らの両手で松葉杖をついた女性も心から同和したが、履歴書に運転免許有りと書ける事を非常に誇りとしていた事は想像以上であった。
配達とか外回りが出来ないために就職が出来なかった相当数の障がい者が運転免許を取得して就職が出来るようになった。最近、文具店を営んでいる障がい者の青年が結婚式場から花嫁を自分の運転する車に乗せて新婚旅行へ出かけた嬉しい事例もある。
 実際にこれらの若者たちの笑顔は希望と喜びに溢れていた。健常者が困難とする運転免許を取得したという、また、スピードの出る移動が可能になった喜びが彼等の顔を輝かせたのだろう。何事もやれば出来るという強い自信を彼等の心に植え付けた事が自動車運転練習の最大の効果があった。
 香川県身体障害者指導所の所長として、27名の免許取得者がこの寮にいるが、運転出来る者が出来ない者を乗せて、ドライブを楽しんだり外出するために服装もおしやれとなり、この障がい者たちが努力すれば目的達成出来るという現実を間近かに目にして涙の出るほどの感激の思いであった。繁栄する日本の姿は世界の驚異であると言われている。その日本のまた、香川県の障がい者が自分の足として、このような改造した軽四輪車をそれぞれに持つ日も予想以外に早く訪れるように思う】
 自動車運転実施のために奔走は、この発展して間もない新組織で寺沢幸一所長を先頭に始められたのである。ここで奇妙な共通点を確認しておきたい。それは国立身体障害者センターの田原・中村両氏と同じように、寺沢。久保氏の両氏も自動車運転免許を取得していなかったのである。自動車の事は何も知らない。全くの素人が、障がい者の自立に役立つ事を洞察し、情熱を持って先取の気性で取り組んでいる事である。昭和39年6月〔1964年〕障がい者用に改造したコニーグッピーを購入することが出来、さらにマッダR360クーペが寄贈され練習開始となったのである。d0019913_16333222.gif
練習担当職員は久保庄一郎氏と戦前から免許を取得していた中村芳隆主事であった。練習は施設の空き地を使い、必要により練習コースを借りに行った。早くも同年9月10日には香川県運転免許試験場において、8名の受験で7名の障がい者が合格している。7名のうち5名が女性であった。障がい種別としては脊椎カリエス、ポリオ、切断、脳梗塞、脳性マヒである。
 寺沢氏の「奇跡を見た日」の末文で記しているようにこの時代、同氏をして訓練に踏み切らせ、それに携わった職員の労も然る事ながら、この県下の実情を踏まえて敏速に基準の制定を行った試験場等の職員も見事の一言に尽きる、と言い切る事は許されるはずである。
 身体に障がいがあっても運転が出来る、あるいは使い易い自動車をと〔昭和35年〕に発売された東洋工業〔現在のマツダ〕のマツダR360クーペオートマチック車が我が国で最初の車となる。続いて昭和36年〔1961年〕には手動装置を取り付けて発売している。当時、この車は両下肢障がい者が運転出来る唯一の車であった。民間ではで3番目。 その後、昭和40年代に入り、スバル360、ホンダN360、ニッサンサニーやトヨタカローラ、ホンダシビックなど、1200cc以上の大衆車が多く広まった。
by rakudazou | 2010-11-09 19:32 | 日本の障がい者・運転の歴史50年
◎ 自動車訓練と免許取得の実績・岩手県 
 
昭和37年6月〔1962年〕小野時雄氏、戸山40期生〔小児マヒ〕は運転免許取得、国立身体障害者更生指導所、修了後、故郷の盛岡市に帰郷し下各地で、全く足を使わないで 両上肢だけによる運転を見せて東北地方の世人を驚かせた。
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昭和40年〔1965年〕に故郷の障がい者から運転指導の依頼を受けると直に友人〔障がい者〕を糾合し、障がい者に自動車の運転免許を取得させるための岩手県身体障害者自動車協会を設立した。昭和42年〔1967年〕に身体障害者社会参加促進事業として県からの委託事業として、ホンダ・シビック、ニッサングローリアの車両を用意されて公認の運転免許取得事業を実施した。
 昭和40年~45年〔1965年~1970年〕に同郷の大信田康統氏、国立身体障害者センター〔戸山59期生〕小児マヒ・機能改善による9回に及ぶ機能改善の手術を得てから車イスから歩行可能になった。在所中に中村雄氏の下で後輩の入所生に対して、学科テストや運転技能の指導を行っていた。免許取得後、都内で就職していた。d0019913_21422418.jpg 間もなく昭和45年〔1970年〕小野時雄氏より故郷、盛岡市に呼び戻された大信田氏は自動車指導員として、盛岡身体障害者自動車訓練所で障がい者の免許普及に貢献し、昭和42年~52年〔1967年~1977年〕期間に岩手県だけではなく近県の運転免許を希望する障がい者の数は500人を有に越えていた。これらの実績の中で「身障自動車友の会」として、盛岡、秋田、仙台等のグループで毎年、自動車安全競技大会を開催している事であった。また、岩手県障害運転免許試験場における障がい者の直接に受験に関わる受け入れ体制が出来たことであった。
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このように小野氏、大信田氏に見られるようなバイタリティ溢れる指導能力と優れた青年たちが障がい者の自動車免許の 取得を通じ、社会福祉の向上に貢献している実例は他にもいくつかあった。
 その後、大信田氏は「もりおか福祉バンク」を立ち上げて軌道に乗せて、13年前から「もりおか障害者支援プラザ」の所長として県内の相談窓口として盛岡市内の障がい者雇用、自立支援の向上に努力している。民間では4番目

◎ 山梨県下で障がいの運転者の父・原徳明氏は発明家 
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原徳明氏は8人兄弟の2男として山梨県下に生まれた。幼いころは、わんぱくで手がつけられなかったそうでである。小学校に入学しても一日としてケンカをやらない日はないぐらいだった。ところが、小学1年の夏休みが終わるころ、突然40度以上の高熱を出し意識不明の状態が3週間続いた。両親らの寝ずの看病の甲斐もなく、熱が下がらずに半身マヒとなってしまった。診断は脳背髄膜炎。「何とか障害を治せないものか---」と両親は幼い原氏を背負い来る日も来る日も甲府や東京のマッサージ治療や病院に通った。5年間通い続けたが東京の大学病院で「もう治らない、あきらめるしかない」と宣告された。12歳(昭和7年)になっていた d0019913_21275919.gif
 昭和28年〔1953年〕山梨県下では原氏の存在は貴重であった。脳脊髄膜炎による下肢障害障碍者である。甲府市里吉の養蚕農家に大正9年~平成18年〔1920年~2006年〕享年86歳。同氏は生きているうちはすべて修行と寝る間も惜しまず考案し、重い障がいを克服していろいろと自動車に関するアイデアを思案し製作に取り掛かり、日常の便利であると思う事はアイデアを次々と生み出した。大変な研究熱心であった同氏は自宅の中に創作室を設けていた。昭和11年〔1936年〕に手回しの軽三輪車イスを完成させた。これを機会に、独自なモーターで走る三輪自動車を製作し県内の最初の許可証と手製の手動装置付き三自動車を品川区鮫洲の試験場に持ち込み受験し見事合格を果たした。d0019913_22395023.jpg
原氏は大変な発明家で多くのものを考案した。その数は百種類にも及び、昭和16年〔1941年〕2年かがりで自動ミシン針製器機を考案、当時は外国製だけだったのでとても貴重品でよく売れたそうだ。
 免許取得後は、山梨県内の障がい者と共に自信を得た大きな勇気を受けて、何度となく県内の仲間たちと全国へと身障者の運転の啓蒙の旅を実現をした。
晩年の原氏の尋ねた時には家屋敷も既に無くなっていて詳細は判らなかったが、同氏の亡くなった後、原氏が最も愛した女性も後を追うように亡くなったと伝えられている。
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◎ 障がい者用自動車の開発と教習のパイオニア  
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藤森善一氏、長野県出身、大正4年~昭和61年〔1915年~1986年〕享年76歳、昭和28年〔1953年〕に仕事中に交通事故で両大腿部を失ってしまった。11ケ月の入院中、再び運転出来ないものかと考え、退院後、2ケ月くらいしてから、米車のダッジを購入、近くの町工場に行き、運転装置の改造を考案して依頼した。それが同氏の手動装置の改造を手がけた最初である。
 1年後、ジャッキ修理工場を開き、経営の片手間に自動車をいかに運転するのか、切断した残存部分により運転出来る自動車を作ったり、手動でクラッチまで切れる運転装置を考えた。
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 また、チェンジレバーを握るとクラッチが切れる仕組みなど、いずれも実用車として利用されている。聞いた話によると、同氏はその当時の運転の折には助手席に乗る妻に脇からクラッチを切らせていたという事であった。しかし、免許更新の時に免許証を取り上げられてしまった事実はどんなにか悔しい思いをしたであろう。しかし、法律の作られる以前の昭和35年〔1960年〕2月に免許取得している。d0019913_21335157.jpg
昭和37年〔1962年〕長野県小布施町に身体障害者援護施設「東園」開設、同時期に、提供されたニッサンブd0019913_21355062.jpgルーバードで「身障者運転日本一d0019913_2139124.jpg周施設激励」と書かれて障がい者の後輩たちを伴い北は青森県~南は九州各県に至るまで、、都府県庁、全国の障がい者施設を訪ねて、多くの仲間たちと直接出会い、希望と勇気を与えた同氏の六千キロ余りの旅は後の同氏の自信の源になった。最初の日本一周のことは「おじちゃん、ボクたちもできるんだね」という藤森氏が書いた著書に共に旅をした綱木くんと鈴木くんは、鈴木さんはカメラマンを務めていたが既に故人になっている。綱木政義氏は80歳を超えて耳は遠くなったが、矍鑠と故郷の岩手県で畑作りをしながら夫妻で過ごしている。
藤森氏は3回に渡り全国一周を実現している。昭和38年〔1963年〕リンゴ園の中で身体障がい者運転教習場が始まった。d0019913_2285956.jpg
以来、国際障害年を迎えた昭和55年〔1980年〕までの20年間、身体障害者運転免許取得者はわずか8万人であった。それが昭和55年〔1980年〕から9年間で16万人に達する。一般健常者は免許証を取ってもその数は40%は運転しない人が多かったという。しかし、障がい者の場合には免許取得と同時に殆どの人々が車を購入と就職、結婚にと社会参加が出来たのである。
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◎ 日本身障運転者協会・小山力太朗事務局長の社会への影響力
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小山力太郎〔昌(あきら)〕氏、大正10年~平成8年〔1935年~1996年〕享年73歳。大阪府堺市出身、17歳の時に葡萄状菌による脊髄膿症による脊髄損傷になり、当初は寝たきりの生活になってしまった。早くに父母を失い、戦後の混乱時期に苦労を重ねながら不自由な身体で勇気を出し、いろんな仕事に挑戦、都内で就職後、友人たちに支えられて「宅地建物取引主任者」の国家試験資格、昭和38年〔1936年〕練馬区に㈱丸越宅建社を設立、平成5年〔1993年〕まで30年間営業をしていた。仕事と運動を両立させて、意欲的な活躍の場は全国に及んでいた。身体の大きな人であったが生涯小型車に乗っていた。当事者の立場として身に受ける不自由さを一環として行政運動、高速道路公団に対して「運動をする者が立派な車輌に乗っていては相手の気持ちを動かせない」と云うのが流儀であった。同氏の熱心さがなければ、自らの車の側まで、各、官庁関係者を出向かせたのは小山氏だけだろうと思う。また、当時の車イス障がい者には、自動車から家への出入りのために車の大きさが関係し、同氏も個人的な事情があったであろう。
 昭和30年〔1965年〕小山氏の「運転の父」として崇める渡邊聖火氏が手漕ぎ三輪車イスに乗って訪れた。「足が不自由であるからこそ、自動車の運転の必要性」を運動を常に障がい者の社会参加の基本として、その利便性を訴え続けた。渡邊氏の影響受けた人たちは多く、渡邊聖火氏は生涯自動三輪車姿で「自動車の必要性を社会に訴えて」独自の運動を続けていた。世の中にも国産車が多く走る時代になり「国民車」として一般の国民も自動車を購入出来るようになった年代訪れた。d0019913_21463838.jpg
昭和30年の初期にはクラッチ車だけてだ下肢障がいを持つ人たちの自動車はなかった。自由な足の代替を得る自動車の必要性をいろんな機会を通して社会に訴える時代にでもあった。
同時に実力行使として「自走車」を違反を覚悟で道路を走り警察に追われた。何度捕まっても諦めることなどはせずに、更に創意工夫をして道路を走った。小山氏も先人の1人として自ら「足権(そつけん)を守る!」と訴え、違反承知で小山式改造車は①軽三輪車〔バンビー〕②手動式三輪車イス③エンジン付き三輪車イス〔エコー〕である。道路法改正以前の改造、豪快な性格で警察官に向かって「私は無免許運転だ!!」と何度となく無免許運転で走行し、それらの違反車を運転して、東京から大阪へと往復など計26回も警察に検挙されたが、いずれも警察官には運転出来るような車ではなく警察の人がその度に自宅まで送る事も度々の事であった。
昭和35年〔1960年〕12月20日の道路交通法の法律の施行で、ようやくと公に堂々と自動車を運転出来る時が、それまでの多くの障がいを持つ先人の仲間の努力が行政に認められたのだ。その1人が小山氏である事は言うまでもなく、成果が実り晴れ晴れとした吉報であったと思う。
日本の自動車メーカーもオートマチック車輌を作り出し実力行使をしてまでも根強い運動をしていた人たちの多くはおそらく当時、交流のあった東厚生会の藤森善一氏が都下に作った、東園自動車練習場で自動車持込で府中自動車試験場で免許取得したと思われる。
 確かに昭和35年〔1960年〕12月20日に法律の施行され、翌年の36年〔1961年〕には主なる先人の人々は運転免許証を取得出きるになったが、最初の頃に藤森善一氏が、当時、新宿の戸山にあった国立身体障害者センターに運転免許を取得するために短期入所をして免許を取った。藤森氏が作った身体障害者専用の練習場「東園」で、昭和36年に入り小山氏はマツダクーぺR360ccを購入、同氏だけでなく、昭和36年〔1961年〕小山氏は免許を取得したものと思われる。この時期は行政を相手どって運動していた障がい者自身は藤森氏を中心としてみんな免許を取得した事実があるが、間もなく法律の修正があったようであった。新聞等の報道で知った障がい者の多くは、国立身体障害者センターに入所を希望して免許取得を希望した。義足を装着して歩行可能な人は適性検査に合格したが、ポリオとか脊髄損傷とか、歩行出来ない起立出来ない者は、当時の残る記録や証言によると、昭和37年〔1962年〕当時、適性検査の段階で不合格扱いされてしまった。免許取得するために機能改善の手術を行い、歩行が出来るようになってから受験したという。歩行が出来ずに車イスのままで免許が取得出来るようになったのは、昭和40年〔1965年〕初期になってからである事が歴史に残されていた。

◎ あるがままに
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反復するのといろいろな事があるが、「存在する日々は、たのしんであらんや」とい昔の言葉ではないが、小山氏に最初に出会った時代は長く暗いトンネルを乗り越えた最も充実期であった。日本身障運転者協会を平田健治氏や畑中伸三氏等の全国のハンディドライバーたちと設立したのは、昭和49年以後〔1974年〕であった。現在のように携帯もない、事前に連絡もなく、外からクラッションの音がする度にその先にはメタリックグレーのトヨタ・スターレットのハンドルを握り微笑んだ笑顔が見られるようになった。「どうぞ上がってください」と声をかけると「降りるのには面倒だ」よく庭先までお茶を何度か運んだ事がある。そこに感じる存在は車イス障がい者の大先輩であり、その風格と言葉の内容で「身障者ドライバーの運動家」であることは理解したが、差し出す名刺には「事務局長」と記されており、立場上、忙しい人なのだろうと思った。自動車の中を見ると車イスは見えるところに置いてはなく、大きい身体を座席に座り、両足は胡座をかいて窮屈そうな足元が狭かった。
車イスの仲間を求めている様子であったが、無事故無違反10年を継続する障がい者ドライバーのために優良運転者表彰を警視庁発行の推薦された表彰状と安全記念のバッヂを多くの後輩のドライバーたちに推薦して贈り続けていた。このバッヂを見せると「1回くらいの違反は見逃してくれる・・・」と云うのが小山氏の自論で楽しみでもあったようだ。用件を言うと、いつも長居はせずに何処となく走り去る。数年に渡りいろんな自ら運転をしている車イス障がい者を紹介したが、その相手がどのような対処をすることまでは考えていなかった。何事も同氏は礼儀作法には厳しくて「あいつの礼状の葉書一本もない!!」とよく、叱責され、それからは「礼状」を書くようにと伝えるようになった。
いろんな官庁など陳情に出かけたり、高速道路のモニターは「私だけ!!」と自負していたが、モニターとしての運動の業績はとても大きいものを残した。公の交渉に慣れている人だとも感じられた。
小山氏は、三田にある都障害者福祉会館の会議室で日本トイレ協会との共催で「車イス女性のトイレの問題」と題したセミナーを行った。その問題の中心として、神奈川県内に当時、在宅雇用であった、筋ジストロフィーの女性の出席の依頼で参加をした。話が進行するに連れて、同氏は自身のトイレのことも触れていたが、彼女は女性障がい者のトイレの現実については話をしたが、同氏の期待に反して、自身のことには一切触れる事はなかった。終了後、とても不機嫌な顔をして「あの女は何様だと思っているのか。自分のことは一切話さないで許せん!」と怒鳴った。私的事情として「オムツをしている」事は話したくないとのだと理解をした。同氏はしばらくの間、許せない様子であった。それから、数年後、その彼女は自立して勇敢なJIL生活の運動家に変身したのを行き合い、あらためて同氏の「怒り」を思い出されるのであった。警察、旧労働省等に請願・陳情に訪れた場合、担当役人を車の側まで出向かせたのは小山氏の人柄であろう。
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大変にタフな人で長距離運転も意図はせず、全国へと普及運動展開へ運転をしていた。同氏の後車に付いて行くには、途中で休憩もしてもらえずに大変にキツイ運転になった。
晩年の主な運動は車イストイレの普及と高速道路のサービスエリア内の車イス専用駐車場の設置、特に乗降の事も視野に入れて、普通車だけではなく、大型のリフトバスの駐車場確保、また、現在、多くの場所で屋根付きの駐車場になった事も小山氏の貢献するところが大きく、最初の運動は多くの努力と忍耐が必要であった。
現在では高速道のサービスエリアの駐車場の屋根付きも珍しくはなくなったが最初が肝心である。長年に渡り高速道路のモニターとなり、常に高速道路上のサービスエリアの向上と視察を行い、詳細に渡り不備な点を道路公団との交渉で常に話し合って来た姿勢は、現在の高齢化社会では世論も動かす活躍であったと思う。小山氏いつもこころがけていた言葉であった。

           『クルマは私たちの足です』
          身障者が自ら自動車運転することによって七つのよろこびを得ま
          した。
1、生   活  就労、職種が拡大され多数の自立更生者が生まれた。
2、結婚家庭  自立更生の結果、結婚に恵まれ健全な家庭を築けるようになっ
          た。
3、勉学治療  通学、通院が可能になった。
4、旅   行  家族を同乗させ共に目的地に行き、愉しみを分かち合えるように
          なった。
5、平   等  健常者との交流が増え、健常者との差別感が取り除かれて人生
          観が変わり生きる世界が広がり、毎日を希望をもって過ごせるよ
          うになった。
          現在、障がいを持つ人々が地域社会で免許が取得出来るように
          なったのは、先人の先輩障がい者の運動が基礎にあったことを
          忘れてならない。
by rakudazou | 2010-11-09 19:21 | 日本の障がい者・運転の歴史50年
◎ 東京都身障運転者協会・初代・会長 畑中伸三氏
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畑中伸三氏は享年50歳、神奈川県出身、昭和14年~平成元年〔1939年~1989年〕聞き及んでいる話であるが、畑中氏は大学生の時に駅舎で子供が線路に転倒、勇気ある人で線路に飛び込み、子供は無事に救助されたが、電車に引かれ気付いた時には両下肢切断の重度障がい者に一揆になってしまった。ハンディや幻覚を乗り越えるのも大変であったと思うが、1人の子供の命を救った事実は一生感謝されたであろう。
気性は表向き穏やかそうであったが、青春を打破するかのようにその情熱と行動力は弱き者に向けられたが強者に対しても正しき者は制する精神も深く感じられた。同氏は生前、「人間の基本的な願いは自由に行動や移動が出来ること」であると言った。
 勿論、同氏が障がい者になった頃は、上肢だけで運転する車両は無く、違反覚悟でいろんな自動車運転を試みた様である。法律が施行されると同時に「東園」で免許取得したと考えられる。都内を中心として、多くの重度障がい者に対して助言を行ったと思う。昭和44年〔1969年〕に東京都身障運転者協会を小山力太郎氏や当時、都内都下に在住の障がいを持つ仲間たちと設立をした。安全運転等の多くの障がい者に対して自立の道を開拓、昭和59年〔1984年〕都立心身障害者スポーツセンター多摩支所が出来る事が現実になった時に、協会として東京都から建物の管理、それらの仕事を障がい者雇用として特に知的障がい者の雇用に熱意を傾けて障がい者自身の「身体を動かし働く喜びと働く事の得る報酬の大切さ」を本人だけではなくその家族達に感謝されたという。
このセンターの中に障がいを持つ人々の働く軽食喫茶を設けたのも都内では最初であった。此処をモデルとして多くの都内に区立障害者福祉センターや区役所の中に健常者と共に障がい者の働く場として喫茶コーナーの設置も奔りであった。
 畑中氏は「典子は今・・」の松山善三監督で一躍有名になった白井典子氏〔旧姓・辻〕の足だけで運転する自動車の開発及び免許制度の改正には、当協会の根強い懇請陳情等でようやく陽の目をみた事であった。ホンダ自動車の会社に協力を得ながら、両足だけで運転する自動車の開発及び免許制度にも努力し貢献した人である事は知る人が少ないと思う。
 晩年にしては早すぎた平成時代が訪れた間もなく、わずらっていた糖尿病が悪化し苦しみ、義足で歩けなくなり視力も低下した車イスを押された姿は憂いを帯びた同氏の姿を見た者にはハッとする「悲しみ」を感じられた。短く、そして、中身の濃い人生であったが、これから、活躍が出来る存在であったが病には勝てずに大変に残念なことである。同会は平成16年〔2004年〕に「設立記念」の集大成として身障ドライバーのあゆみの35周年記念行事を盛大な開催したが、畑中氏は天国で見ていたであろうか。

◎ 自動車運転装置を開発・障がい者雇用促進に尽力を尽くす。
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㈱ニッシン自動車工業代表取締役・亀田藤雄氏、昭和22年〔1947年〕生、茨城県出身、大型自動車の整備工場で働いていた21歳の時にブルトーザーの下敷きで脊髄損傷となり車イス生活となった。リハビリ後、職場復帰をして障がい者用の自動車を運転したが、使い勝手が悪く特に長距離を運転すると激しく疲れてしまう現実があった。そこで「障がい者が運転し易い車を作りたい」と工夫研究し、改良を重ね開発に成功、昭和48年〔1973年〕に陸運局からAP車〔手動式運転装置車〕の認可、昭和58年〔1983年〕身体障がい者用自動車運転装置の専門工場「日身自動車工業」設立から後のニッシン自動車工業となった。
趣味は30代後半から始めたスキューバダイビングである。夫人の真津子さんも骨髄腫のために右足切断の障がいを持ち、夫妻揃って伊豆半島沿岸の静岡県伊東市赤沢の海で昭和61年〔1986年〕ハンディキャッパーダイバーとして認定第1号となった。
 同氏も手動装置を使用しているため、同じ目線で利用者の心をつかみ、より重度な障がい者の要望にできるだけ取り組み運転し易い装置を取り付けるためにはよく希望を聞き、障がいの部位や程度は個々に異なり運転する際の微妙な感覚の違いもあり、それを十分に把握し改造を加えていくことが大切である。また、できるだけ故障や事故につながる可能性を極力少なくする努力を行う。利用者との信頼度を増すためにはアフターフォローの充実が必要で、代理店のネットワーク化を図るため、6年間に渡り全国を訪ねて歩き、代理店網を充実することでアフターフォローに万全を期している。
利用者は障がい者であり、運転する車を簡単には代えることができない、利用者に不便を与えないのがモットーで代理店となるには同社の社員を派遣し研修を受けてもらう。また、福祉車両やレンターカー業も行い、高齢化社会を迎えて、事業内容も大きく広がっている。
同社の社員の三分の一は車イスの障がい者で、障がいを持つ社員は障がい者である利用者の要望についても理解し易く、開発やアイデアも生まれ、彼等は障がい者の友人が多く、自然と技術や商品が口こみで拡大するメリットがある。d0019913_11422244.gif
現在、同氏は残された能力を使って運転するジョイスティックで操作する補助装置の製作に取り組んでいる。国内産のジョイスティックも間もなく完成することであろう。同社は平成21年〔2009年〕3月に㈱ニッシン特装は合併により㈱ニッシン自動車加須工場となる。






◎ 東京身障者運転教習協会・免許取得に功績 
 国立身体障害者センター時代には殆ど、佐藤忍氏、中沢利二氏は自動車関係に携わり、主に義手や義足を作るのに時間を費やしていたように思う。修了後、センターの入所生に対して運転教習を指導していた。センターで知り合って生涯の友人同士であった。両人は昭和41年〔1966年〕東京身障運転者教習協会を発足させた。個人指導では多種多様な障がいを持つ人々に対してその数は千単位を有に越える人数であった。「佐藤先生の指導のもと免許を取った。中沢先生から練習を学んだ」との声が聞かれるが、奇しくも仲が良いと云っても、2日間違いでこの世を去った事実は不思議な縁である。
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 昭和6年~平成17年〔1931年~2005年〕戸山56期生。享年73歳、修了生の岩倉ひとみさんと結婚。
佐藤氏が32歳の折に故郷に近い国道6号線沿いで、同氏の乗るオートバィと自家用車と正面衝突した。身体が車体の上に飛んで左手、左足をフロントガラスの中に入りそのままねじ曲げられて、左半身の手足を切断した。霞ヶ浦の見える国立病院での頃、先々の事を悩み、霞ヶ浦の湖畔に身を投じて自殺も考えたそうだ。
しかし、昭和39年(1964年)国立身体障害者センターに入所すると更に重度の人々と初めて接して、みんなとても明るく強く生きている姿を目にして自らの生き甲斐を見出したという。多くの勇気と自らも役に経つ自信を得て、修了後、中野区内のネームプレートの会社に勤務した。気付いた時には自動車の指導員として新宿・当時の小滝橋にあった自動車訓練コースで元気な姿が見られた。同氏が最初に乗った車輌はマツダクーペR360ccであった。当時、指導しているうちに排気量アップの為に訪れる人々も多くなり、1800ccニッサンブルバードの普通車と交代で対応をした。
左半身が不自由な同氏は助手席にもたれるように座り、幻覚の痛み止めを常用していて、眠っているかと思い気を許すと補助ミラーやブレーキをかけて注意が飛んだという。一見穏やかそうで自動車は訓練生が運転をするが「危険は自ら制す!!」という。運転する工程を理解しない者には判るまで待っている気長な面を見せていたが事実はとても短気な性格だったらしい。「佐藤先生は大きな道路を悠々と中沢先生は細かい道筋をいかに早く走るかいつも正反対ですよね」と受験の為に府中の試験場に向かう時にも性格の違いはよく現れていた。「合格祝いだとドライヴに行く場所いつも筑波山だった」と知る人には有名な話である。d0019913_11405827.jpg
平成元年〔1989年〕同氏は日頃から親譲りの血圧が高く脳梗塞で倒れたのは57歳の時だった。入院治療したが、暫くすると自宅に戻った。何と右半身にマヒが残った現実に「神様は悪戯だ!」と思った。この時点で自動車をこよなく愛したが運転は出来なくなってしまった。後に、千葉県四街道市にある労災関係者の施設に、精神だけ正常で「ハダカの王様」になった同氏はこの「四街道プラザ」に入所、晩年は夢に描いた花壇や植物に囲まれて、人とのふれあいも少なく孤闘の人になってしまった。面会に行く人々に「この広い庭でよいから、もう1度、自動車の運転がしたい!」と真剣に語っていた。プライドも何もかも失い、左半身切断、右半身がマヒの後遺症とは、17年間に及ぶ闘病生活から開放されて脳出血で亡くなった。天国で佐藤氏と中沢氏は仲良く、そして、健康な身体になり、自動車を運転しているのではないか?と両人を知る人々はそう思っている。
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中沢利二氏、群馬県出身、享年71歳、昭和9年~平成17年〔1934年~2005年〕戸山58期生、修了生の小柏美千代さんと結婚。
20代後半の時に電車事故で片方は大腿部からもう一方は膝下から切断の障がいになった。とても生真面目で整理整頓が有能な人であった。下着の上下も上着の上下も番号が記されていて、同じ番号で使えば同じように古くなるとか、同じように自動車もとても大切にしてよく車を洗車し磨く姿が見られた。練習の忙しい折には夫人も指導員をするおしどり夫妻であった。
佐藤氏と同じく小滝橋の自動車訓練場を皮切りに、新宿小滝場のコースがビルに建て変えられるのを期に、世田谷d0019913_14391252.gifの烏山自動車訓練場、練馬区の豊島自動車訓練場、杉並区の日通自動車練習場等とコースは変わった。途中、昭和60年〔1985年〕心筋梗塞で倒れたが幸いに一命は取り留めた。また、一時期、東園自動車教習所で指導員のアルバイト、中野区で宮園タンシードライバーをしていた事もあった。d0019913_144454.jpg
仕事は継続していたが、最後の2年~3年は2種免許専門の指導員を行っていた。練習生には「佐藤先生は優しく、中沢先生は厳しい・・」と対象されたが、車両と当事者の性格、障がいの種別までにも熱心に研究し、幾何学的な適切な指導と共に、



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 当時の車両をそのまま生かして、 ウィンカーが短いと思うとその場で鉛筆などで延長し使い易くするというとても器用な人だった。当事者の気持ちや身体の変化や高さを工夫し身近なもので常にカバーし、相手の運転し易い環境を作ってくれた。困難で不安を抱いていた障がい者に自動車が走らせる喜びを常に考えていた人である。名案が浮かぶと徹夜をして研究、手作りの補助装置や中沢式の手動装置も自分で発案した。両人で指導している時代には中沢氏は初めて免許を取得する初心者を中心に指導を行っていた。指導には厳しくもそれは本人をやる気にさせる、合格すると心優しく、道路を走る時の適切なアドバイスと運転マナーは大変に参考になった。d0019913_1450862.jpg
晩年、肝臓ガンと宣告されたて大きな動脈流もあり電流波で手術をしたが、その結果、床ずれが出来て傷の痛みで命を縮めてしまったようだったという。
とても甘党でコーヒーに入れたカップに砂糖でスプーンが立つほどであったが人の面倒見も細やかで、子供たちや可愛い孫たちに囲まれてとても優しい家庭人でもあった。
あれから40数年の年月を経て今でも懐かしくもあり、多くの障がい者に自立の機会となる足の確保を提供した貴重な存在であった。
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◎都下の2人のサムライ 
d0019913_14525983.gif 坂喜弥太氏、大正13年〔1938年〕5月15日生、山形県出身、東村山市在住、坂氏が運転免許証を取得したのは昭和23年〔1948年〕であった。同氏の運転する自動車とダンプカーが農道ですれ違い様で接触事故になり、その結果右腕を負傷し切断になってしまった。
 坂氏は当時、昭和39年〔1964年〕小布施時代の東園自動車教習所と藤森善一氏のことがNHKで放映したことを見て知り合った後、「東園」に就職した。「東園」は昭和37年〔1962年〕に開設し、長野県小布施の果樹園で普通自動車の運転練習をしたことが由来とされている。昭和39年〔1964年〕財団法人東更生会として整備されて、昭和58年〔1983年〕東園自動車教習所として開設し障がい者専門の教習を行っていたが、多摩小平市・東久留米市各を移転しながら現在の埼玉県新座市に移転開所している。d0019913_22193616.jpg
坂氏は昭和40年〔1965年〕には第一回目の出張教習を福井県武生市で、12名の卒業生を出している。当時は県試験場では障がい者の取り扱いも判らずに試験管立会いの下、藤森氏と坂氏などが適性試験と実技試験を行ったそうだ。主な出張先は、群馬県、栃木県、長野県、奈良県、福井県、福島県などであり、長野県では小布施の果樹園であると思われる、数人の免許を取りたい人々が集まると、何処へでも快く出かけて、練習するコースから手づくりで作り苦労も多かったというが、生徒との熱心さには報われる事も多く、当事者としては大変にありがたい教習であったと思う。
後に個人指導として独立、最も思い出に残る出張としては大阪府の岡庭圭吾さんの教習であるという。岡庭さんは硬直の強い脳性マヒであったが、まず、車イスから自動車の乗り降り、自分の車イスを自動車に乗降する練習と、ひとつひとつをクリアしながら、同氏の日々の温かい教習で硬直も和らぎ、同氏は手動式の改造車を持ち込み岡庭家に泊まり込み、昭和56年7月から50日という短期間で免許を取得が出来た。岡庭さんは免許取得後、得意の数字を活かして自動車を運転して就職が出来て生きる世界が違ったそうだ。
都内の貸しコースで個人指導をし、同じく「東園」で教習をしていた森繁實氏と共に府中試験場で多くの他では諦めていた多くの重度障がい者の免許取得に貢献し社会へ送り出したのであった。苦心と努力し総じて4千人を超える人々に免許を取得させたという。
d0019913_14563316.gif森繁實氏は昭和17年生〔1942年〕東京都出身、昭和59年〔1984年〕八王子在住、左手首を事故のため失った。昭和45年〔1970年〕から11年間、東園自動車教習所で教習員を勤めていた頃に先輩の沢氏と知り合ったという。両人とも園内だけではなく地方出張教習による車の持ち込みで出向いた。とにかくこの時代はこのような事をしないと地方に住む障がい者は免許を取る機会がなかったのだと思う。関東近県だけではなく遠くの地域にも及び、数人の免許取りたい障がい者が集まると、何しろ昔の事で学校の宿舎などに泊り掛けしながらも自足自給、空き地に自らの手作りで練習のコース作りから始まり、教える方も教えられる方もとても一生懸命であった。長い時には半年以上の期間にも渡り、その間、府中の試験場まで何度となく通い、日々の練習と共に受験を受けるための教習を行い、免許を取る人も指導する人にも大変な苦労の時代であった。免許取得した障がい自身にとっては喜び感謝さで、いち早く社会復帰するために自分の車を持ち走るようになっていたことだろう。
 「東園」以後、昭和56年~昭和60年〔1981年~1985年〕個人指導を行い、必要とあれば遠方まで出張指導行って重度障がい者の社会参加、自立生活の担い手となった。
 また、森氏は昭和56年〔1981年〕多くの障がい者の運動で建設した町田市郊外にある整形外科専門・南多摩整形外科病院の入院患者、障がいを持ちながら院内で仕事を従事している障がい者の多くの人々の中で免許取得したい人は、入院しながら仕事の合間に免許取得が出来てとても喜ばれたとの話であった。
by rakudazou | 2010-11-09 19:15 | 日本の障がい者・運転の歴史50年
◎ 教習員が出張指導した事例
【氏 名】 岡庭 圭吾
【障がい名】 脳性小児マヒ
【運転免許の条件】ノークラッチ式よるアクセルブレーキ等の手動装置付き
【使用装具等】 車イス
【免許取得年度】昭和56年〔1981年〕

◎プロフィール 
 岡庭圭吾氏、昭和35年〔1960年〕東京都品川区生、幼い時代、板橋区の整枝療護園に母子入園し機能回復訓練を受ける。昭和56年〔1981年〕大阪府立茨木養護学校を卒業、在学中に取得した簿記資格を活かし一般企業に就職。20歳の時に東京都身障運転者協会の会長、畑中伸三氏と出会い、自立を目指し、自動車の運転免許取得にチャレンジすることが出来た。大阪の自宅に同会の坂喜弥太氏が泊り掛けで、マンツーマンの運転教習を取得後、見事に免許取得した。以後、10年間の間、自動車が手足の代わりをして社会参加生活をする。
 現在は無理がたたり二次的障がいが重なり運転する事は諦めて電動車イス生活になった。自立生活の施設で一人暮らしをしながら在宅勤務でパソコンで会社の経理の仕事をしている。母校同窓会の会長、電動車イスサッカー、NPO法人アクティブネツトワーク理事など、前向きな生活を送っている。同年11月には福祉情報技術コージネーター資格検定試験に新たにチャレンジを行う。 

◎ 運転免許を取りたい。 
 重度の脳性小児マヒの障碍を持った大阪府茨木市在住の青年が頑張って努力して、自動車運転免許の試験に合格した。
「いつか、会社通勤を自分の力でやらなければならない」と3年がかりで勉強して、やっと実現し取得した運転免許証「もう、人の手を借りずに会社にも通勤出来る、友達などにも自由に尋ねて行けるようになった」と自立心の強い青年は免許証の重みをしっかりと抱いて行動力と広い世界を約束された。「動かないと思っていた左手がこんなにも動かせるようになるとは思ってもみなかった。感激と嬉しさを沢山の人に伝えたい」と到達出来た喜びを明るく語った。
 最初に、身体で覚えているうちにマイカーをほしいと思いった。そして、手動装置の助成や改造をするための必要手続を行った。そして「いよいよ左手でアクセル、ブレーキで発車オーライ!!」と自分の自動車で運転が出来て、障がいを持つ青年は自由な足を持つ事で生活圏が大きく拡大し、自信の持つある生活が出来るようになった。

◎ 免許が取れるまでの過程 
 この青年は大阪府茨木市内に住む、岡庭圭吾氏は当時21歳であった。脳性小児マヒによる1種1級の車イス重度障がい者である。大阪府立茨木養護学校を卒業後、同市内の車イス製造会社に就職、ハヤシ車椅子研究所に経理の担当として通勤をした。この頃はいつも母の芳子さんの運転で送迎をしてもらっていた。養護学校に在学中から「いつまでも親に頼ってはいられない、母は介助や送迎のために自分の身体を壊してしまったらどうしよう。「早く自分の足がほしい」と車の免許証の取れる事を望んでいた。18歳になった時に自動車免許をようやく取れるようになったと思った。
 岡庭さんは機能障がいのため手足も不自由、車イスで歩くことが出来ない、強いアテトーゼとは〔障がいにより、緊張時や感情が高ぶる時に付随運動として起こる症状で睡眠時には消失する〕である。母は心配症で岡庭さんの免許を取る事には不安が大きく諦めさせようと思っていた。
昭和53年〔1978年〕の春、岡庭氏は大阪府警自動車運転試験場に出かけて、運動能力を判定してもらった。「ハンドル、アクセル、ブレヘキ操作共に不良、操作に必要な力、速さ、調節力を訓練することが必要」との結果であった。しかし、岡庭さんは諦める気持ちは決してしなかった。障がいの持つ人々の乗れる車が開発されている事を知るとメーカーに手紙を出し問い合わせをして車両の内容も詳しく調べた。
d0019913_1564669.jpgその年の7月に奈良県橿原市の自動車練習所で日本身障運転者教会主催の大会が開催される事を知り、両親と3人で夢を託して思い切って会場へ出かけた。当時の同協会の畑中伸三〔両下肢切断〕会長と直接に合うことが出来た。そして、免許を取りたい事の目的を話すと、自らも障がいを持つ畑中会長は自分の手動装置付きの〔ホンダアコード1600cc〕を岡庭氏を今すぐに「ここのコースで試乗してみなさい」と薦めてくれた。
大変な驚きと共に生まれて初めての自動車の運転席の感触に胸がドキドキした。自ら何でも熟知している岡庭氏は1回だけの説明で理解し、ハンドルを持ちエンジンをかけてゆっくりと車を動かしコースの1周を無事に走り終わる事が出来た瞬間、同席していた母は嬉しさの余り顔が涙でクシヤクシヤになった。

◎ 坂指導員との熱心な応援で・・・ 
 畑中会長は東京に戻ると東京都身障運転者協会〔以下、都障運〕の教習部の責任者であった坂喜弥太氏に奈良での岡庭氏の話をした。坂氏自身、昭和39年に交通事故で右手を切断して以来、様々な障がい者のために運転教習を行っていてこれまでに約4000人の教え子を世に出したベテランの障がい者専門の自動車教習員であった。
 話を聞いた坂氏は早速に岡庭氏に会いに8月に大阪まで出かけて、岡庭氏とその家族に会い、何とか免許を取りたいと願う熱意と真剣さに心を動かされて岡庭氏の車の指導を約束した。
練習する場所を母親の芳子さんは八方手を尽くして見つけて、茨木自動車練習所を始乗前の早朝7時から9時までの2時間の間のコースを借りる事が出来た。坂指導員は岡庭宅に泊り込み特訓で岡庭氏の指導に当d0019913_1585053.gifたった。都身運所有の昭和55年発売のホンダバラード1500cc ノークラッチ式、右手でハンドル、左手でアクセル、ブレーキ、方向指示を操作する手動装置付きの車両を東京から持参しコースでワン・ツウ・マンの教習を始めた。最初に誰にも助けを求めず独りで車両に乗り込む訓練することから始まり、教習後には仕事に出勤をして両立させながらの奮闘の日々であった。身体に運転の感覚を覚えさせて緊張とバランスを取りながら9月からの35日間の教習が続けられた。費やした時間は92時間であった。

◎ 夢に向かって 
 家族や会社、友達の声援を受けながら、特訓の教習で仮免許の試験が3回目の10月26日に合格が出来た。次は路上での教習であった。日に4時間近く毎日、国道や中央環状線など試乗車として一般の道路を走った。しっかりとハンドルを握る右手の皮手袋は破れて手のひらにマメが出来ても気にせず懸命に坂指導員の経験豊かな指示通りに頑張って走った。そして、最終の府警運転試験場の試験管を乗せて路上試験で、遂に昭和53年11月14日、1度目のテストで見事合格を出来た。岡庭氏が21歳の頃である。坂指導員との二人三脚でお互いに遣り甲斐のある成果であった。d0019913_15101274.jpg
念願の運転免許取得が出来て、本人は勿論の事、指導をした坂さん、両親も心から喜んでくれた。希望通りにホンダアコードを運転して元気に通勤し自信ものある明るい未来が大きく広がる気持ちであった。

◎ その後の岡庭氏 
 26年後の平成20年〔2008年〕、48歳になった岡庭圭吾氏を訪ねて見ると岡庭さんは大阪府内の社会福祉法人・北摂福祉会身体障害者療護施設「ともがき.」の自室に迎えられた。岡庭氏は電動車イス乗り、その後の生活の説明を思い返すように語った。
家族ぐるみ、地域ぐるみで「北摂に養護施設をつくる会」が作られた。親亡き後、残された障がい者の誰しもが人間らしく、豊かな生きる可能性を見出せる施設を作る願いを、10年間に及ぶ長年の夢をひたすら確信してあゆみ続けた結果、北摂地域の肢体不自由児父母の会を構成団体として、平成12年〔2000年〕に悲願が達成されて「ともがき」が誕生した。岡庭氏と両親も揃って運動した経過でもあり「ともがき」のスタートと共に新しい生活が始まり10年の年月が流れてた。
 岡庭氏の15年間に渡り元気で自動車を運転して通勤だけではなく、家族や友人たちと共に買い物やドライブを楽しんだりいろんな運転する貴重な体験を学んだと感じられた。しかし、次第に身体に変化が起こり硬直がひどくなり腕力も落ちるようになってしまい、最初に困難になった事は車の乗り降りが大変になってしまった。勤めている会社の理解もあって自宅での在宅雇用に変わり過ごしていたが「ともがき」が完成と同時に入居した。自室でパソコンに向かい仕事場としても今では会社になくてはならない経理責任者として施設の中でも稀な自らで収入を得られる重度障がい者への手本であり、親から自立が出来し周囲の人々とのふれあいも中で「ともがき」の中でも貴重な存在である。d0019913_15113793.jpg
 岡庭氏が語るには、自動車の免許を持てた自らの力で移動出来たことの現実は今でも大きな生きていく過程での自信となり心の支えになっている。同じ障がいを持つ仲間で可能性のある人に出会うと「僕でも取れたのだから免許取る為に挑戦したら・・・」と話かけると言う。このような障がいを持つ人には電動車イスのままで運転出来る車両があったらよいだろうと思った。

◎ 足動装置付き〔ドイツ・フランツ式〕自動車・白井典子氏
d0019913_15461489.jpg白井典子氏〔旧姓・辻〕昭和37年〔1962年〕生、熊本県出身、昭和55年〔1980年〕苦難を乗り越えて、熊本区役所健康福祉課勤務していたが日本のサリドマイド被害者として初めて公務員になり話題となった。d0019913_15505962.gif昭和25年後半にサリドマイド薬を服用した妊婦から出産した子供たちに、それらの副作用により身体障がいが発生し社会問題になった。
白井氏も母親がサリドマイド薬を服用していたことから両腕がない状態で出生した。また、右目の視力も殆どない。昭和56年〔1981年〕に松山善三によって製作された本人主演の「典子は、今」というドキメント映画は、その身体障がい者の社会参加を力強く訴えた作品として注目された。
d0019913_15525815.gif障がい者の行動範囲を広げるために昭和57年〔1982年〕に自動車の運転免許を取得するのでの過程に至るまで、欧州ではある事を知っていたが、足だけで運転出来る車で免許を取りたい夢があった。当時の本田技研がドイツの技術協力を得て開発した。ドイツに住む両腕のないフランツ氏が自ら考案したシステムが、熊本に届きフランツ氏も来日し現実のものとなった。ホンダシビックで試作車として教習が行われた。足動装置付きとは、シートベルトは座るとドアを閉める装着状態、ウィンカーやワイパーの操作は走りながら膝を使う、ホーンやヘッドライトの上下は足元の操作ボタンを押しながら減速や加速を行う。ハンドルは普通に付いているが左足のペダルに靴が固定してあり、それを操作する事で動くようになっている。操作は自転車のペダルを漕ぐ要領で、前進方向に回すと右折、後ろに回すと左折、ハンドルも一緒に回転する。
昭和57年7月〔1982年〕道路交通法施行令の改正で、いよいよと仮免許を受け、路上試験、学科試験後、晴れて運転免許証を取得する事が出来た。昭和58年〔1983問〕結婚、出産、現在、25歳り長女と14歳の長男に恵まれる。とドライバー歴は現在に至る。
 平成18年〔2006年〕に子育て後に退職。平成17年〔2005年〕に初めて講演を引き受けてから、その後の講演活動は断り続けていたが、営利を目的としない、これまでの自らの生活を基本としたさまざまな体験談を述べることにより、聴講者が健康であることの尊さを再認識して、少しでも「今を大切に生きる」ということを意欲の力になればと現在は講演活動に専念している。
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by rakudazou | 2010-11-09 19:10 | 日本の障がい者・運転の歴史50年
◎ 他県の障がい者も府中の試験場で免許取る時代 
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 昭和37年〔1962年〕 山口雅敏氏は〔国立障害者更生指導所・修了生〕指導所で昭和37年〔1972年〕15番目の免許取得後、その年の夏休みに郷里の長崎県佐世保市に帰り、障がい者の自動車運転をアピールし同地方の世人を驚かせた。さらに佐世保自動車学校の社長、故内海幸輝氏〔医師〕に対し、障がい者の生活には自動車の運転が必要である事を訴え理解を求めている。その結果、民間としは最初の障がい者の教習が同校において開始される事になったのである。
 山口青年の持ち込み自動車と警視庁府中運転免許試験場〔後の警視庁府中運転免許試験場〕である。この当時は、他県では実質的に受験はできない実情るため、この試験場で他県の障がい者も含め、多くの障がい者が「第2の足」となる免許を取得している。

◎ さまざまな事例
 自営のためにクラッチ車で免許取得した・吉田一彦氏〔東京都〕吉田一彦氏は昭和4年〔1929年〕生まれ、81歳、現在、息子さん家族と習志野市に生活している近況が判ったが、最愛の奥様に先立たれ、自分も肝臓ガンになり療養中の事である。同氏は法律が施行される以前に昭和34年~35年〔1959年~1960年〕頃、国立身体障害更生指導所の戸山修了生、22期生、同期の女性と結婚をした。〔ポリオによる両下肢マヒ〕は、d0019913_1630229.jpg板橋区内で時計店を営み、妻は隣りで履物屋を営んでいた。家族だけではなて、使用人である障がい者の雇用を果たすためにどうしても仕入れ等の移動手段が必要となった。同氏は指導所で歩けるための数回の手術を受けたが両松葉杖を使わないと歩けない。中古のクラッチ車を購入、腹の筋肉の力を利用してクラッチを切り、バーハンドルという〔オートバイと同じ握り加減で操作を行う〕手製の手動装置を取り付けて、運転の練習を得て、担当の所轄に持ち込んだ。免許取得に至るまで問題はあったようだが、最終的にクラッチ車両で免許取得したと事例の1人である。とても穏やかな人格者で大勢の人に尊敬と友情の絆が深い人である。

◎越智弘士氏 〔肩前腕切断〕 17番目の免許取得者。 
 当時の昭和37年6月〔1962年〕国立身体障害者更生指導所の修了生、条件、360cc以下の四輪車両に限る。義手使用となっている。同士は0型グリップをハンドルに取り付け、作業義手で該当グリップを回してハンドル操作を行った。片前腕切断の障碍で、オートマチック車の免許の条件は我が国で同氏が最初である。

◎北浦節哉氏 右前腕切断 52番目  
 昭和38年6月〔1963年〕取得。免許の条件は「排気量360cc四輪オートマチック車ハンドルに旋回装置を取り付けた車両に限る」となっている。越智氏と同じ右前腕切断の障碍でありながら免許の条件が異なっているのは、免許を付す際の統一性の問題による差別なのか、運動機能の個人差とみるか、警視庁運転免許試験場の「身体障害者適格審査基準」の成文制度は昭和38年7月である。
 また、同氏はS県に帰り住所の移動手続きをする際に「同県では障がい者の運転は認めていない」として、法的に何の根拠もなく免許証を預かるとされ、当局を説得、哀願することになった。その後、同県では同様の障がい者の免許の取得が許されるようになった。

◎庵原まき子氏 骨弱症による両下肢機能障害 2級 164番目  
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在所中に何度となく、運転免許取得のための適性審査をしたが身長が条件に合わないと試験を受ける事が出来なかった。同氏は京都に帰った後も免許取得の許可が下るまでに実に3年の経過を経ていた。昭和40年1月〔1965年〕見事、免許を取得した。条件は「排気量360cc以下の四輪のノークラッチ式でハンドルに旋回装置を付けアクセル・ブレーキは手動操作の車両に限る」受験が出来るようになり再入所し受験をした。身長85cm、これ以来、身長の極めて低い者についても免許の道が開かれるようになった始まりであった。
 多くの障がいを持つ人々が京都を訪れる度にだれかれとなく自ら愛車を運転して観光案内をしてくれて勇気をもらった。社交家で人一倍声が大きく、走る車は無人車に見える程であったが、ちゃんとハンドルの真ん中から見ていて巧みな運転であった。

◎工藤政七氏 小児マヒ両下肢機能障害 2級 181番目 
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昭和40年3月〔1965年〕取得。免許の条件は「排気量360cc以下の四輪ノークラツチ式ハンドル・アクセルは手動操作の車両に限る」となっている。
 同氏は車イス常用のため適性審査にパスするために至難の努力を続けている間、いつ試乗〔いわゆる技能試験ではない、実車による適性検査のことである〕されても対応が出来るようにと車両のバックも含め徹底的に練習をした。いよいよと試験となり、学科も満点、技能も満点、ミスなくコースを走り、立ち会った試験官も驚いたようだ。また、コースを全部バックで走り「さすが国立の障がい者」だと関心したそうだ。
 これが一般社会にいる車イス常用者で360cc以下の軽四輪免許の取得が出来るようになったのである。なお、同氏は昭和43年6月〔1968年〕に「800cc以下のノークラッチ車で手動装置付きに限る」と条件変更をしている。 昭和40年以前の全く歩行不可能な車イス障がい者は、歩行する事も起立する事も出来ない人は、適性検査の段階で不合格になり、みな、手術をしたりして機能改善をして、歩けるようになり運転免許を取得した事実がある。

◎熊本県身体障害者福祉団体連合会の活動 
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田畑隆敏氏は昭和32年〔1957年〕10月に交通事故で左上を切断し1種2級の障がいの者になり、運転は出来なくなり、免許証は駐在巡査に取り上げられてしまった。それからは生きる事が嫌になり死んでしまいたいと思ったこともあった。1年後に退院して、カブ号を買い、軽トラを買い、妻に免許を取らせて対応した。対外的な組織運動や政治活動を無免許で片手運転で縦横に走った。そのうち何回となく注意をされついに今度運転したらブタ箱だと厳重に注意され、止むなくタクシーを利用することになった。3ヶ月くらい利用してみたが月に1万5千円~2万円を越すときもあった。これではどうにもならぬと公安委員会に何度も足を運んだが、片手では駄目との一点張り、何度も試験場に行ったが受験はできなかった。諦めずに毎日に通った。そして、軽自動車なら資格が取れる事になり、この機会を逃がしたらと思い頑張り、学科と実技はマツダクーペを持ち込み合格することが出来た。何度が車を変えて更新時にマツダフアミリア1200ccで普通免許に切り替えたのは昭和37年〔1962年〕11月であった。
 1963年〔昭和38年〕秋の交通安全週間に私が世話をした障がい者仲間13名と県警交通課のもと、熊本市から八代市往復〔国道3号線〕をパトカーや白バイの誘導で安全パレードをして障がい者の車の必要性をアピールした。この年の道交法改正により障がい者からの免許に対する問い合わせが増え、教習所の紹介、改造車の紹介等で大変に忙しくなった。特に障害者団体の組織活動を通して道交法の問題や免許制度、改造費等を、県、九州ブロック、日身蓮を通して制度的な改正等を要望・陳情して、今日の恵まれた制度が施行されたのである。これ等については現在の若者には当たり前のことだとしか考えていないようだが、重度障がい者でも免許が取れるのは我々先輩がいかに努力したかを先ず学んでほしいものである。

◎可能性を体感出来る夢のサーキッド  
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会長・星山樹氏、彫金家〔小児マヒ〕享年64歳、昭和14年~平成16年〔1939年~2004年〕車イス障碍者の自動車の集い昭和59年〔1984年〕港区身障運転者協会・城南支部が発足した。当初は城南地域の会員同士で安全運転講習会や親睦のドライヴ等を楽しんでいだ。その後、都内各地から自動車愛好家、集まり、昭和60年〔1985年〕ハンディドライバーズクラブ〔HDC〕が誕生した。
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代表・稲葉衛氏、昭和31年〔1956年〕目黒区生、頚椎損傷、地方公務員。モータースポーツは危険が伴うスポーツであることは現実であるが、同氏もモータースポーツの事故に遭遇してしまった。親戚に関係者が、当然に免許を取ってからロートーレースやジムカーナー等に積極的に参加していた。
 しかし、22歳時にラリーの練習中に箱根山中で30mほど転落し、首の骨折をする事故で頚椎神経を損傷し、リハビリ訓練を3年間終了後、両手の握力が殆なくなってしまい、下肢障がいが残り車イス生活になってしまった。
 普通ならこんな目にあえば2度と車なんかには乗りたくない、ましてやモータースポーツはもっての他と考える。稲葉氏は少し違った反応で医師に「もう、2度と歩けなくなるよ」と言われても「冗談じゃないと、何が何でも車に乗って、また、モータースポーツを続けてやる!!」と心に決めていたという。入院中に次回に乗る自動車を不屈の精神で自動車雑誌から選んでいた。
退院後、手動装置を取り付けて早速運転を始めた。3年ぶりの上に「自分の運転が下手だったから崖下に落ちたんだ。もっと練習して上手になってやろう!」という強い意志があった。そして、障がい者自動車愛好団体に入ったりしたが、殆どの人が自分の足代わりに運転しているレベルであった。そこでみんなが運転を楽しみながらジムカーナーをしたいとハンディドライバーズクラブの設立の由来は、港区身障運転者協会・城南支部・故星山樹氏と港区内で当時の㈱ユニマットの飲料水を販売する、松田文夫氏とその部下等、星野保泰氏、多くの人々の協力、支援者の努力を得て、稲葉氏を初めとする共に自動車運転の技能を高めるために〔HDC〕が品川大井競馬場の駐車場を借りて「第1回・ジムカーナー」が開催されたが毎年の定例競技があった。いろんな角度のコースと、パイロンを立てて、ショートコースを作り、障害物を倒さないように安全にいかに早く走れるのかを競う競技である。
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平成20年〔2008年〕御殿場インターを下車、目的地は静岡県須走にある富士スピードウェイである。昔はニッサンの所有であったが今はトヨタの所有、中に入ると、とにかく広く、いろんなサーキッドでは起伏が有り、仲間のいるコースを探すだけでも大変だ。静かな大空にあのエンジンを吹かす爆音が響き渡り、富士スピードウエィには多くの自動車は生活の足と共に主催者は佐藤正樹氏である。昭和38年、東京都生〔1963年〕46歳、同氏は若い頃からレーサーに憧れてそれに近い仕事をしていたが、その後、現在の創立した仲間の頭文字から設立した(有) VBCである。主にモータースポーツ向けの宣伝代理業の代表である。
障がい者運転の安全と共にいろんな障がいをと環境で自動車運転により自立している多くの人々に体験をさせたいと富士スピードウエィのフルコースを使って、佐藤氏の念願と指導の下に平成17年〔2007年〕最初の本格的なレースが始まった。
 ハンディキャップドライバーフェスチバル2008」は2回目、毎年12月の「障害者の日」を記念して、このスピードウェイのパドリック本コースを借り、ハンディキャップドライバー日本一決定戦のコンペティィブなモータースポーツとした本格的なイベントである。モーターファンの障がいドライバーたちは関東、東海地方中心に遠くは福山ナンバーや西の地方から参加した車もあった。

◎ 主催者の趣旨 
 今回は初の試みとなる、地球温暖化防止のたC02削減へのアブローチとした。障がい者として、車という移動手段は日常生活においては無くてはならない存在である。健常者のように、C02削減のために車の利用を止める訳にはいかない。そこで、将来的に電気自動車が私たちの日常の足として実現化するまでの間、積極的に002削減に取り組もう!という趣旨でこのイベントを行うことになった。これからも身障者自動車活用の促進と障がい者モータースポーツの推進、そして、同じような境遇で現に苦しんでいる皆さんに夢と希望を与えられるように開催しますという主催者代表のあいさつであった。
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◎車の性能より乗る人の心d0019913_16441085.jpg 
車の性能より乗る人の心この競技はみんなハンディを持っているが普段は仕事を持つ普通の人々だが、この時だけはみんなプロドライバーみたいに大ハリキリで自らの愛車で参加、8時前から30台のゼッケンを取り付けられた車両が集まり公式な場である。参加受付、公式車検、ミーティング、そして、ヘルメットと四点安全ベルトをして、初めはフリー走行で排気量別でクラス分けされ、障がいの重い軽いのには関係なく、あくまでも排気量別で分けられて、フリー走行と競技用に作られたチャレンジクラスとエキスパートコースで技能と安全で速さを競う内容のイベントである。最終は2つのクラスに分けての決勝戦競技を行い優勝者を選出する。d0019913_1645188.gif
日頃、普段の道路でのストレスを吹き飛ばすかのように、スピードを出しすぎてコース上でクラッシュする車もあり、コースからはみ出す車などが続出し、観戦していると性能の高い車が早い訳でもなく、自分の運転に自信を持ち過ぎている人のほうがミスも多い、車の性能より練習と段階で話をよく聞き、いろんな難所の操作の仕方などを専門の人や経験者に意見を尋ねて理解した上で、冷静に競技に及んだ人のほうが結果は高かった。乗る車の性能と自分の性格と障がいをよく知る技能が優先される。
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 昨年もスズキワゴンR車の選手が優勝し、今年は三菱ランサーで、スポーツカーやポルシェなどに乗っている選手より優勝した。今回参加した選手にはA級ライセンスがもらえるそうだ。7割近くの人が車イスで障がい者は重度な人々である。来年は春から4回、このような開催がされるようである。自動車の運転が好きで自らの可能性を知りたい人々は日常の安全運転のためにも、今後も多くの人が参加してほしいと思う。
平成21年〔2009年〕10月に3回目のハンディキャツプドライバーフェスティバル、平成22年〔2010年〕障がい者自動車運転50周年記念とし、フェスティバルを予定、また、障がい者の運転の先人、藤森善一氏が「安全祈願」のために日本一周に習って、障がい者自らの運転で駅伝方式で日本一周イベントを予定しているが、このような機会にひとりでも多くの全国の障がい者の参加を希望し全国に在宅する障がい者の現実と交流が深められる良い機会になると思う。
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◎運転免許の条件付付与件数の推移 
 現在は所沢市並木にある国立身体障害者センター以外はすべて民間の自動車教習場が全国の都道府県にあり、勿論、手動装置付きの車両も整備してあり、四肢障がい者、視聴覚障がい者、その他の障がい者、手話可能職員、自動車専門指導の講習を受けた職員がいつでも対応出来ることになっている。バリアフリーな対応、車イス用トイレも完備している。
 平成元年~平成20年度迄、全国の指定教習場で免許取得者は〔警視庁統計〕、聴覚障がい者補聴器使用・623,207人、障がい者車両限定・3,720,013人、義手、義足条件・79,825人、合計で4,423,045人である。比較的に平成10年〔1998年〕度から、全体に取得している人数が30%ほど増加傾向である。

◎これからの時代 
 今年で障がい者がオートマチックの小さな車輌で運転免許が取得された制度が出来て、実際に免許取得されて50年目の記念すべき年に当たるが、今の障がいドライバーは何不便なく自動車を運転している。
 現在〔2010年〕は、エコカー全盛で5年後、10年後にはすべて電気力などの供給で自動車は走る時代が訪れると思う。車の操作も飛行機のコックピットのように、例え障がい者であっても、それぞれのボタンひとつで操作が出来るようになり、更に50年前の改造車は過去系になってしまう・・・平等に未来が訪れる事は確かで、電動車いすの人であっても、その人の能力によって、手動の車イスだけではなく、電動車イスの超重度障がい者でも、電動車イスのままで未来の自動車を運転出来ることも夢ではないと考えている。
 その時代になっても、多くの障がい者の勇気ある先人たちの「ひとりで外に出たい、自分の力で生活をしたいという」強い意志で、自己流の手動装置で違反運転から始まり、制度化するに当たっても、当時の障がい者の実践と経緯の中から作られた事の史実を記録とするものである。この諸本は多くの故人となった尊敬する友人に捧げるものある。
by rakudazou | 2010-11-09 18:23 | 日本の障がい者・運転の歴史50年