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障碍を持つひとの楽しさを支援しています!


by rakudazou

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障害のある人を歩き易くする、そして足元の安全のために現在、持っている靴の修理、新しい靴を求め歩き易いようにするための診断と工夫修理、いろんな形のその人の障害に合わせて、街の靴屋さんがこれまでのゆたかな経験と実績でやさしくリメイクいたします。
 歩行困難な人、車イスの人、足の変形でなかなか靴が思うように履くことが出来なかった人々に朗報です。
城南地域(大田区、品川区、目黒区)また、横浜市内の範囲で出張修理いたします。
                      JF認定シューフィッター 大森梅屋敷店長: 麦倉 忠雄

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「お問合せ先J
F認定シューフィッター 
大森梅屋敷店長: 麦倉 忠雄

〒143-0015 大田区大森西6-15-19
TEL:03-3761-2439 FAX:03-3761-2419
メールアドレス :t-mugikura@nifty.com
by rakudazou | 2003-11-23 14:48 | 地域情報
出発前: 
冬の寒さを避けるにはどうしたら良いか?毎日、脱出方法を考えていた。フィリピンに、今年20周年を迎えた「日本人障害者の家」があると話には聞いていた。その設備や介助の様子は、HPで見る事ができ、これなら良いと感じたので、メールで「宿泊希望」を打診した。すぐに承諾され、出発した。d0019913_15274856.jpg

暖かさへのあこがれ: 
運動不能の頚椎損傷と進行性筋萎縮症者にとって、冬は冷蔵庫の中にいるようなもので、皮膚は冷たくなり、毎日ゲリが続く。生きた心地がしない。
家族を思うと、自分だけ熱帯に逃げるわけにはいかないと、じっと我慢していたが、なにしろ夏は完全暖房、冬は完全冷房の我家の暮らしは厳しすぎた。
「ひなたぼっこができるなら、なにもいらない」と思っていた。フィリピンなら温かいし、果物も豊富である。豊かな国であった。金で幸福は買えない。フィリピンの太陽・豊富な食料・緑の山々・3期作の水田・サンゴの海は、私にはうらやましかった。
これでも人は「貧しい」と言うのだろうか?西洋文明からの一方的な偏見としか思えなかった。「太陽の下で昼寝をしている私を起こさないで下さい。幸福な夢を見ているのですから…」と言いたくなる。「自力更生しない国」として、たびたび非難されるが、木々を伐採し、豊富な資源を掘り尽くしていった西洋や日本の責任も大きいと感じた。

ルセナでの日本人の障害者: 
「日本人障害者の家」周辺には、多くの障害者・老人が住んでいた。「国外で生活するなんて、勇気ありますね」と言うと「何をおっしゃいますか?五万円の年金で生活するには、これしかなかったんですよ」97年からは、海外日本人も国民保険が該当するので病気をしても安心です」と。介助者のフィリピン女性と結婚して、りっぱな家に住んでいる。そして、もう人生を達観しているように、明るい顔をしていた。
悟ったような、余生を楽しんでいるような雰囲気であった。それぞれに、障害を超え、激しい葛藤を乗り越えてきた人生であった。すごい人生を、各自が生きていた。いろいろな人生を知り、勉強になった。地球上、どこでも生きていけると感じた。積極的な人生の方が面白い。老人ホームを逃げ出し、自由を求めて来た人もいた。
住込みの若いホームキーパー3人と一緒に、気ままな暮らしをしていた。自由は空気のように只で手に入るものではなく、必死で獲得するものと感じた。寝たきりの障害者でも、日本の年金だけでフィリピンで最高級の生活をしていた。「老後の自由は、国に任せて得られるものではない。自分で選択し創造していくものですよ。様々な土地を見て、一番自分に相応しい場所を選んで、介助者を教え込んで、自己流の老後を設計するべきである」と。

本当の穏やかな生活とは…:
35℃で、真っ黒に日焼けし、手・足・顔だけフィリピン人のように色黒な肌になってしまった。神様は、地球上にこんなにも差をつけてしまうのだから、平等とは言えない。
進行性筋萎縮症者は冬の間だけでもここに住むと良い。体調が整い、血圧も安定する。おまけにパパイヤなど抗がん作用があるので、ガンにならない。物価は安くて、生活は楽である。スペインやアメリカの血が混じっているので、女性は美人ばかりであった。
テレビも見ないし、ラジオも聞かなかったし、新聞も読まなかった。それでも生活に不便はなかった。
単純な生活をおくると、快い幸福感に満たされる。まず、イライラが消えて、血圧が安定した。日本では、どうしてあんなに焦燥感や心配にさいなまれているのだろうか?心配したところで、収入が増加する訳ではないのに、毎日心配事に悩み、ビクビクして生きている。シンプルライフを送るためにも、都心から離れた方が良い。心の安定は、長生きにつながると感じた。
汚い、貧しい、危ないといった既成概念がことごとくまちがっていた。急速に発展するフィリピンは、就学率も上がり、工場も増え、衛生教育も行き届いていきた。危険性も全く無かった。
既成概念を捨ててルセナに行こうと決心したのも正しかった。宗教家のように、「助けなくては」「救わなくては」などと初めから思い込んでいる人ほど問題者は他にない。宣教師は征服の先頭に立っていたのだから。「人はどこに生れても差異は無い」と考えたほうが良い。そして、「できれば一人ほど友人を作ることができたら良いな」くらいの気楽さで出かけた。

電動車イスでの移動: 
マニラから135km(東京―水戸の距離)ルセナは、のんびりとした安全な町であった。港町なので魚と果物は新鮮で、美味しかった。夜の外出も全く安全で、全ての人が親切であった。道に迷えば、一緒になって探してくれて家まで案内してくれた。
ゴミにはフタがかぶされ、ゴミ収集車が定期的に回収していた。学校では小学校3年から英語を学び、発音はハッキリしていた。人々は信仰深く、日曜の教会は人であふれていた。病院も歯医者もたくさんあり、技術水準も高かった。(歯医者に行った人の感想)交通機関はトライシクルとジプニーであるが、乗車の介助も親切にやってくれた。トライシクルの場合、手動車イスを折りたたんで乗車可能であった。ジプニーは電動車イスで可能。平行な座席の間の幅は90cm、天井130cmで頭が天井につくほど。電動車イスが重くても昇降時には通行人など皆が手伝ってくれた。長距離バスの最前席に車イスマークのシートがあった。昇降の時には、職員が介助してくれた。鉄道は、線路があっても電車自体が走ってなかった。地方はバスだけである。
ルセナからレガスピまでのバスは料金も様々で、故障は常識であった。行き:160p、休憩所でエンジン溶接。クーラー無し。8時間帰り:350p、途中で異常ベル鳴り続けた。前車の客も収容。10時間たびたび故障で停止した。その度に男客は道の脇に並んで小便。女は客裏山に隠れて小便。だれも到着時間が遅れる事に文句を言わなかった。時計・果物・食料・新聞を売りに途中で行商が乗り込んでは降りていった。
総経費12万円(飛行機7万、食費・宿泊費・介護費1600円*14日=22,400円)
服上下4セット、充電器、ビニール袋、ガイドブック、タガログ辞典。変圧器を現地で貸してもらえたので荷物が軽かった。
目的は、寒さからの逃避行であったので、何もやらなかった。二週間が、格安チケットの最大期間。ぎりぎりまで利用した。
行動した所:マニラールセナーレガスピ 1100kmの一本道。交通機関は、極めて不便。鉄道路線があっても一般人さえ利用不可。


ルセナ滞在日誌
2月11日(月)
  6:40出発7:30成田9:45、JAL741便マニラ14:15、B747 5時間半(帰りは3時間半、帰りの空港税550p)空港にはアジアの旧正月なのでおみやげを持った中国・韓国人が多数いた。
フィリピン時間=日本―1時間。
注文の多い日本男性と若いフィリピン女性が多かった。明らかに暴力団と思われる人もいた。帰りには、フィリピン人の母と赤ちゃんも数組。
飛行場でピックアップしてもらい、4時間135km走って「ルセナ市エギュゼキュティブビレッジ障害者村」の「GLIPグリーンライフ研究所inフィリピン」(20周年)到着。遠くてでこぼこ、渋滞、排気ガス。体力が必要であった。ヘルパーのウェン・シェリル・マリリン、3人とも家庭のしつけができていて住込みで良く働く。料理・洗濯・買い物・介助・リハビリ・入浴など、障害者の言った事はさからわないで良くやってくれた。ペルパーの当り年とのこと。
まず、介助者と相談しながら1日の計画表を作成し、ドアに貼った。夜、寝ようとしたらパシッパシッと音がするので、見上げると壁に2匹のヤモリがはりついてしっぽで壁をたたいていた。蚊や害虫を食べるので、どこの家庭もヤモリを殺さない。しかし、目の前の姿を見ながら眠らなくてはならないなんて!これから二週間、耐えられるだろうか?


2月12日(火)雨 26℃  
鶏、犬、すずめの鳴き声。物売りの声。どこの家も音楽をがなりたてる。この騒音と排気ガスに耐えられれば、安全な場所なので、ここで生きていけるとのこと。果物の豊富さには驚く。神は不平等。朝食:スイカ、ヤクルト、ソーセージ、卵焼き、やきそば、パン、チーズ バナナ、ココナツジュース(離尿剤になる)近所の障害者に挨拶回りをした。

2月13日(水)晴 
ジプニー(天井高さ140cm)で、マーケット(パレンケ)に。マーケットは果物と生活物であふれ、道はトライシクルとジプニーの渋滞だった。港に近いので、魚貝物が安くて新鮮。道に迷い、高校生に聞いて、マーケットから仕切り直して、集合場所に行く事ができた。活気のある町であった。

2月14日(木)36℃ 
海で泳ぎ、バーベキュー。家から15km美しいサンゴの海には誰もいなかった。
バーベキュー:ザルにビニール袋をかけその上に米、串刺し豚肉ヤキトン、みずみずしいパイン。ブーゲンビリアが咲いている。


2月15日(金) 
ここでは鶏闘が盛ん。死ぬまでオス鶏を戦わせる。犬のようにひもで縛った鶏は、大切な財産。10分ほどで試合が終わり負けた一羽は食肉となった。
小学校に椅子を寄付、M氏の後から近所の小学校に椅子を寄付しに行った。子供たちは、恥ずかしがりであった。千円で3つほど寄贈できる。見た限りでは、どこの村にも小・中学校があって、教育は行き届いている様子であった。親が逃げ出しても死んでも、大家族主義なので祖母・叔母などが世話している様子であった。夜、満天の星を観察した。

2月16日(土)
 イメルダと菊地とダラヒガン市場見学。モンガラカワハギ、イトヒキアジ、カツオ。活気ある。年々、漁獲高は減少。竹でバランスを取る漁船の構造がおもしろかった。
野グソ、急にゲリを感じた。菊地氏にお願いして鉄塔の下で、砂を掘って便をさせてもらった。隣の家の鶏が首を長くして不安そうに鳴いていた。自分でもうまくいくかどうか心配であった。遠くの方では、魚を運ぶ人達が忙しそうに動き回っていた。この際、おしり丸出しでも恥ずかしがっている場合ではない。四つんばいになって、砂のへこみにフンを出す。自分では、しりがフンに接しているか否かを確認できない。どうやらうまくいった様子。菊地氏がしりを拭いてくれ砂をかけてくれた。そして、全力で私の体を車イスに乗せてくれた。内心ホッとした。初めての野グソ。成功したので自信を得られた。
それから、菊地氏と別れ1人で4時間かけて、迷いながら帰宅。陽射しの強い道を歩きつづけたので、手・足・顔は火傷のように日焼けして、シャワーが痛かった。わずか4時間の間に色白の日本人から、日に焼けたフィリピン人に変身!!日本にも色黒でフィリピン人のような日本人がいたのを思い出した。あだ名が「フィリピン」だった。周囲を見回すと彼に似て色黒ばかり。人種的には、さほど差がないのかもしれない。日本人は、黒潮や親潮に乗って流れ着いた人々が、さまざまに混血したのだと思わざるを得なかった。私も、ここで暮らしたらすぐにフィリピン人になれる気がした。迷って歩いた20km程の道。途中の田園風景美しかった。段々田畑・水牛・小さな工場・ヤシ葉の家・子供たち・病院など。

2月17日(日)
 8:30マリンドケ島(佐渡と同じ大きさ)に車イスを届けに出発。10:00出航。
12:00到着。車イスのメリサが迎えにきてくれた。ヤシの並木の素朴な島であった。貨幣経済が無い。貧しさ、病気、飲酒が連結していた。蚊帳に入って宿泊させてもらった。200wでもヒューズがとんだ。

2月18日(月)
 車イス贈呈。リアカーで来たジャスティナ・リカロスに車イス贈呈。40歳の女性で、両手にサンダルをつけていざっていた。日本から車イスを贈る時は、整備して弱い部分は再溶接し、簡単な空気入れをつけて贈るべきであると感じた。まだ、5台ほど希望者がいるとのこと。都市では溶接や修理が可能であるが、村では不可能なので、一旦壊れたら使えなくなってしまう。パンクのまま使用している障害者もいる。飛行機の荷物は20kgまで可能なので、10kgの車イスや古着など意識して持っていく努力をしたいと思った。それも、もらう側の事情や使い方を十分に考慮して贈呈するべきであると感じた。感謝の意を表し、王様のようなもてなしをしてくれた。花吹雪をかけられ冠をかぶされ、歌と踊りで歓迎してくれた。冠は小学校の学芸会のようなボール紙であった。にぎやかな楽器は、おなべの蓋であった。
16:00出航の大型カーフェリー「マリンテレサ号」。日本製で乗りやすい。マリンドケ港には大きなマリア像。海岸の景色も美しかった。生きた鶏と生きたカニをM氏にお土産に、メリサら4人と一緒に帰宅。ビニール袋を鶏がつつくので、袋にはあちこちに穴があいていた。生きた鶏は、バスの中でも見たが、ここでは最高のお土産と考えられている。

2月19日(火)雨
  Sと将棋をし、2敗した。

2月20日(水)雨
 M氏の手伝いをして、過ごした。

2月21日(木)
 Leapingレガスピへ。手動車イスを借り、H君と11:30バスでLegazpiレガスピへ(420km)ルセナからレガスピまでのバスは料金も様々で、故障は常識であった。行き:160p、休憩所でエンジン溶接(驚き!)。クーラー無し8時間。
帰り:350p、途中で異常ベル鳴り続けた。前車の客も収容。10時間、たびたび故障で停止した。その度に男客は道の脇に並んで小便。女は客裏山に隠れて小便。 誰も到着時間が遅れる事に文句を言わなかった。時計・果物・食料・新聞を売りに、途中で行商が乗り込んでは降りていく。
19時、ターミナルでない所で降ろされた。真っ暗。通行人に電話をしてもらった。バスターミナルまでトライシクルで行き、P夫妻にピックアプしてもらった。豪華なP宅に宿泊。

2月22日(金)雨
 マヨン火山2421m 2000年2月、2001年4月爆発。豊かな湧き水。昔の日本兵のように「このへんに温泉はありませんか?」とどこに行っても聞いた。フィリピン人は温泉に興味が無いらしかった。
マヨン火山の爆発方向は決まっている。裏は安全。毎回作物に被害。ビコール地区(南ルソン)は雨多い。海岸は黒い溶岩で、伊豆7島のように真っ黒。軽井沢のような、すてきな場所であった。朝、P夫妻とマヨン山のゲストハウスまで2時間ドライブ。雨で山頂は見えなかった。
「10時間のバス旅は、旅行ではなく苦行に近かったですよ」と、元自衛隊のH君。道中、美しい海岸線を見る事ができた。全員が親切で親日的であった。こちらの警戒心の方がおかしかった。

2月23日(土)
 電動車イス、清掃。近所の人に挨拶回り。マーケットに、お土産を買いに6km。

2月24日(日)
 9:00出発14:45 JAL742便 19:25 3.5時間で成田。22時帰宅。

おわりに
 
フィリピンで生活するには:
 1.騒音と排気ガスに耐えられること
   1.停電にも耐えられること
     1.英語の片言が話せること
       1.何でも好き嫌い無く食べられること
         1.住み込み介助者と人間関係を保てること
       1.怒れることノウと言えること
     1.ヤモリが好きになれること
   1.月5万円ほどの収入があること
by rakudazou | 2003-11-19 20:07