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by rakudazou

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 ◆真岡の地に根を下ろして 
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 ネコが横浜の出身、ポンタは鎌倉の出身、そんな二人が周囲のめぐり合わせで新宿市ケ谷の地で結婚して30年数年の年月が流れた。誰でもが本当にこれでよかったのかと思う気持ちが頭の中をよぎるらしい。誰でも今の生活を選ばなかったら「どんな人生があったのだろう」と垣間見ることもあると思うが、現在の生活のその時々の繰り返しの中に2人の歴史が深く刻まれている訳で、人は2つの人生をなかなかと持てないのが普通で、今を懸命に生きる証と意義と幸せがあるはずである。
益子焼に近い栃木県真岡市内の「泉園」と言う重度障碍者施設が1960年の後半に、当時にしては画期的な家庭的な施設として創設された。ポンタは1968年に新宿にあった国立身障者センターに入所し修了と共に、1971年そのまま「泉園」入所した。
 ネコは国立身障センターを1964年に入所し、松葉杖で熱心に歩行練習する姿が良く見かけられた。終了後、市ヶ谷の障碍者福祉作業所施設に入り、1975年に結婚のために真岡市の「泉園」いるポンタの元に来た。ネコにとっては初めての経験ばかりでこの施設での生活は決して快適とは言えなかった。
 泉園での2人の生活は2年余りで終わり、その後、一般の市営住宅に5年住んでいるうちに、東郷地域に新しいスタイルの市営住宅が建てられることになった。立ち並ぶ真新しい住宅の中で、たった1件だけ、ネコとポンタのために身障者用の住宅が建てられた。1984年に引越し、ようやくと安心したバリフリーな生活を獲得することが出来た。
 その頃の真岡市は田園風景が広がり緑豊かな地であったが、再開発がされ首都圏の都市開発区域に位置し、現在では工業団地企業と地元の中小企業がともに活発な生産を行う都市として変わってきている。

 時が流れて 
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 2005年7月28日、新しく始まった介護ステーション「かれん」責任者の古荘恵美子を伴い、同じ障碍者として、大先輩のネコとポンタに会いに行った。出かける前に「何か食べたいものある?」と尋ねたら「生寿司が食べたい」との答えで、真夏なのでこちらから持参する訳にもいかず、地元のお寿司屋を聞いて、予め注文をして持って行ったが、2人はそれを美味しそうに食べてくれた。
 この住宅で2人に合うまでにはすでに長い年月が経っていた。ネコは入院している頃と変わらず、寝たままでベッドのリグライニングで上半身だけ起き上がり、足の上にリシカをあててその上に軽く夏掛けをかけていた。ポンタは膝が固定手術をしてあるので両足を伸ばしたまま車イスの背もたれにもたれ掛る姿勢で、元気な顔色で車イスにいた。
 彼は今年の1月に軽い脳梗塞で倒れてずっと入院していて、退院してきてから1ケ月とは経っていなかった。心配していたが大きな後遺症にもならずに見かけは以前と同じようであった。唯、大きく違っていたのは2人の日常生活の様子である。ネコが70歳、ポンタが68歳と時の流れだけは確かな刻みを残し経っていた。

 病院生活より精神的には楽だという 
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 ネコは長いこと、寒い時も暑い時も車イスから立ち上がった姿勢で台所に立ち2人の食事の支度をしてきた。最後の2年近くは足元の痛みをこらえ続けて、今、考えても仕方がないが我慢強さが更に悪化をひどくし、もう少し早い時期に医者に見てもらうとか、一緒にいたポンタも何とかならなかったのだろうかという悔いも残るが、現実のネコの足元は潰瘍性皮膚炎が治った訳ではなく、最初の頃の足のムクミはなくなったものの少しでも足を衝いたりすると皮膚に亀裂が生じてしまうということである。ようやく皮膚が覆われているが、車イスに乗ることも出来ず、ベッドから離れる時は1週間に1度の入浴サービスの時か、通院する時くらいである。内臓は丈夫なのに足元の潰瘍のために自由に動けなくなったことは誰より本人が辛いことである。
 入院当時から今でもトイレはオムツに変わり、それも朝ヘルパーが、8時半過ぎに1度と午後の4時過ぎに1度と2回の交換だけではきついと思う。長い習慣なので身体がそのように慣れてしまっているとは言え、せめて就寝する前にもう1回の交換は必要であると思うがヘルパーがいる時に出来るだけ便器を当てて用便を足すようである。ベッドで寝たままの状態で自然に水や食事を制限してしまうとそこでまた、余病を起こしかねない状況である。
 現在、要介護度はネコが「4」でポンタが「2」だそうだ。ネコが冗談まじりに「早くコロッと死にたいよッ」と何度か耳にしているが、本当に重度な障碍になると「死ぬ」ことの自由さえも奪われてしまうのだ。そんな時、自らの身にも言い聞かせるように「生まれたと言うことは誰でも平等に死は訪れる」のだから、残された生命を大切に生きるうに励ますよりなかった。

 ヘルパーとの関わり方 
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 ヘルパーが生活の中に入ると気も使うが、ヘルパーを派遣するようになったのはネコが入院してしまって必要に迫られて利用するようになった。本来であれば、身体がボロボロになる前にヘルパー派遣を考えるべきであった。
現在は毎日、午前ヘルパーが、8時半から11時までの2時間半、ネコの身体介助が2時間でその中にはポンタのベッドから車イスへの移動も入っている。後に朝食を作ってもらい食べること、洗濯等で終わるが、午後の2時半から5時までの2時間半は、ポンタの入浴等の身体介護や家事支援が中心でネコの身体介護は30分しか入っていない。
 2人が公に掛かる金額はネコの入浴サービスやいろんなリース代等も含み、月に5万以上の経費が掛かると言うことで、2人で生活しているから何とか食べていけるが1人になってなってしまったらもっと大変なことである。自己負担額だけでも、より一層の負担が増すことは現実の問題である。
 7月まで2社の事業所が入っていたが、8月から1社の事業所に2人の考えで変更した。現在、関わるヘルパーは6名のローテーションで入っている。
この2人の介護時間は1日5時間でよいのかどうか別として、2人の日常生活はヘルパーが訪問する時間帯にどうしても合わせなければならないことである。朝食は9時、夕食に至っては
4時半になるそうで、その後の16時間以上は食事はなく、間食等で補っていると言うことだ。まだ、ポンタが動けるから間食も食べられるが、オムツの交換にしても同じようなことが言え、人間にとって最も大切なことは「食べることと排泄」の問題に尽きると思う。

 ヘルパーの質の問題 
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 ベッドに寝たままであるが、ネコが生活プランを立てて、生活の主導権を発しているが、2人にとって個人的には異なることもあると思うが、2人でもっと自己責任が持てるように、「今日は何を食べたいか」「買い物を頼もうか」とか、共通のあるものはよく話し合うことにより、ヘルパーさんの関与もより充実できるのではないかと思われる。
例えば、冷蔵庫の中に必要な食材は生協から届いているらしいが、冷蔵庫に何が入っているか、もう、このおかずの残りは捨てようとか、冷蔵庫の中の様子をポンタがネコに説明し、献立や処分するものを2人で話し合って決めていかないと食材を生かすことも、無駄が多くなると思う。ポンタは「僕、男だから・・」と言ったので「あなたしかいないのだから主夫の目で、冷蔵庫の中を何度も開けてみて」その様子をネコに知らせてヘルパーに依存しないで「今日は何を作ってもらおうか」と食べることにも「楽しみ」を見出し、もっと自己主張をするようにポンタは「僕が主夫の目になればいいんだね」と言った。
 ヘルパーも何人も派遣されていると今までの中でもいろんなことがあったようであるが、すでに3回、すっぽかされたことがあり、会社に電話しても「まだ、つかないです?」とか、最後にはケアマネージャーが飛んで来たり、電気釜なのに芯のあるご飯を作ったり、子供がいるから早く帰りたいとか、理由をあげれば切がないが、極端に言うとヘルパーに命を預けているようなもので、しかし、そんな失敗に恐れないで、ひとつひとつを諦めないで理解してもらえる努力を重ねているうちには、ヘルパーの中でも「考え方、やり方、方法」を理解してくれる人が現れるので些細なことでも諦めないで「言い続けていくうちには・・・」2人の生活のリズムを分かってくれる人も出てくるだろうし、ヘルパーの質が自然と上がるようになると思う。

 これからの老後の生活 
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 ネコとポンタが一生をここで過ごしたいと決めている以上、今後、変動の多い介護保険制度の中で、いかにこれからの老後を生きがいを持ち生活出来るかは、2人の心の通った協力関係にあると思う。
以前よりは変化の少ない生活ではあるが、すでに家庭生活というよりは入院生活の延長線上とも言える。規則に縛られた生活よりはるかに精神的に現在の生活の方が楽だと言うが「理解出来る」気がする。少なくても規則に縛られない選択肢の自由な人間性を取り戻すホッとした時間が持てることは何よりも得がたいひとときである。
これからの高齢化社会ではそれだけの能力や可能性のある人は、自分で生活プランを立てヘルパーの関与に反映することでボケ防止にもなる。ネコとポンタも今までに充分に苦労を乗り越えてきた訳であるが、最終的な老後をどのように生きるか?が問題である。現在の状況は2人とって家族と言っても子供もなく兄弟もそれなりに高齢になって遠くに住んでいるので、家族からの支援は難しく2人で協力し合い助け合わなければならない。
 誰でも長生きするということは、最終的に家庭の介護を選ぶか施設を選ぶかになるが状況によっては一概に決めることは出来ない。よく人によっては「最後には施設に入るから・・・」と言うがそんな簡単ものではなくなっている。今は有料施設は別であるが、公の施設は「入りたい」と思っても年数を待たなければならないし、現在はその中でも待機中の人でも、いろいろな条件を合わせて「困っている順」に入れるそうで、家族関係とかいろんなことが影響して来ると思われる。
 ネコとポンタのいずれも、ポンタが寝たきりにでもなってしまったら、最重度化になり、本人たちの選択肢が優先されるのかどうかは分からないが、現在、ハッキリと言えることは、病気にならないように注意すること、もし、病気になったらその間だけ病院して治す、また、在宅介護に戻り少しでも長く、2人で生活が出来るように心がけることである。いかに2人の日常の何気ない会話が大切か、ポンタは寝ることは1人で出来るらしいが、全くベッドから動けないネコの身にもなり、休む前の「1言」がほしい。気持ちが通じ合わないと継続性は難しくなる。1日も長く2人で平穏な生活が続けられるように祈るばかりである。
 最後に今の2人の楽しみはネコはラジオを聴くこと。ポンタはプラモデルと読書だそうだ。ポンタが「本当はまた、小鳥を飼いたいけどねぇ」と笑っていた。これからも精一杯生きてほしいと思っている。056.gif
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by rakudazou | 2005-08-23 14:36 | 《エッセイ》中村陽子

★愛しき人よ★

 いつかそんな日がと・・・ 
 
 いつもどこにいても同じ呼吸をしているという安堵感でこれまで生き続けて来られたが,5月の終わりに私が生涯に渡り心から愛した人、あの人の亡くなった事実を知った。いつかはそんな日が訪れると覚悟はしていた。あなたはもうこの世にはいない、遠い遠い天国に逝ってしまった。
私はで大声を上げてひとりで泣いた。たまらなく悲しい気持ちだったが「本当にご苦労さま、本当にありがとう」と、唯、言い残したい。そして、私も天国に行ったら最初にきっとあなたに会えると思っている、あなたも待ってくれていると信じている。
 不思議なことに亡くなった夜、何故かあなたのことを思い出しては一晩中眠れなかった。当時のあなたの一途な態度は、私の人生の中で最も「無垢な愛」のときでありとても幸せで、いつものことながら涙を流し、遠い昔を懐かしみながら思い起こしていた。天国に旅立つ前にあなたの魂が別れを告げに訪れていたのかもしれない。
 亡くなったその瞬間から肉体から魂は分離され、人生の折々に世話になった人々に無言の「別れ」であったのかもしれない。d0019913_16351421.gif 愛されること 
 
 若い頃から年上の人にあこがれ、それが私にf普通の気持ちであり、知り合った頃のあなたと私の年齢差だけではなく精神年齢も子供と大人ほどの差があった。
とある、障碍者の施設の規律のある生活の中、一日か終わり自室で、8月のある夏の日、アイスクリームを食べていた、あなたが覗き込んで「そのアイスクリームが食べたいなぁ」と言った。私は変な人と思いながら食べたかったら買ってくればいいのにと思った。その様子を側で見ていた人生経験豊かな同室の女性が言った。
「あなたの食べているアイスクリームだから食べたいのよ」その一言から彼の存在を意識するようになった。d0019913_16465733.gif 交通事故で左半身の手足をもぎ取られて頭にも目の近くにもその時の傷が残っている。障碍になり、初めの頃は絶望し何度も自殺を考えていたと知り合ってから話してくれた。ここで生きる勇気と希望を見出そうとしているとも語ってくれた。希望を見出した中に「私」の存在もあったと思う。彼からの誠意や活動力を精一杯もらい、私はそのことに接しながら心も身体も成長していったように思われた。彼と出会わなかったら今日の私は無いと思う。社会の中心に私を導いてくれた人なのだ。
常識的なことも含めて、私の知らない些細なことでも指摘してくれることが常に的を得て常に包み込まれている愛情を感じるようになっていた。d0019913_16475715.gif 妙薬 
 
 その時は大人の男性はこのようなものなのだ?と思っていたが、今までの年月を経て反芻することは、20歳のときから何年間余りの凝縮した時間は、あなたの懐の中ですべてが初めての驚きと喜びと素直さがそのまま出せてとても充実した幸せな日々であった。何かに迷うこともなくあなたの判断力に満ちあふれた行動力と言葉には、心から男気のある頼れる優しい人であった。
 本来のあなたは常識人でどちらかというと保守的とも感じられたが、とても清潔好きだったのかもしれないと思っている。しかし、それらはあなたにとって、自らの理想を語っていたことが後になって分かった。
 今でも何故か覚えていることは、醤油入れの蓋の上が汚れてはいけないとか、ズボンの折り目はしつかりつけなければならない、玄関はいつもきれいにしておかなければならない、外から突然と電話を掛けて来て、そんな応対では駄目だとか、当時の私は吸収力が良かったのか、あなたからいろんなことを諭されたものである。
「顔ばっかり磨かないで車イスもきれいにしなければ・・・」と、よく、芝生の上に座り込み私の車イスを片手で無心に掃除をしてくれた。そんな片腕を愛しみ汚れた手を洗ってあげたり爪を切ってあげたものだ。今だったらそんな小さなことを一々言われたら「うるさい!!」と思えることもそのときは素直に受け止められた。「愛の妙薬」というオペラがあるが、まさに私は妙薬にかかってしまった訳である。

  しあわせなとき 
 
 外に出て働くようになってから、中野に住んでいたあなたは毎月、フローベールのボゥバリー夫人を毎月1冊ずつ贈ってくれた。私には何故、ボゥバリー夫人だったのか理由は分からないが、何度も引越しをしたが、いつも大切に持ち歩き、あなたの意思とする思いは何を私に教えたかったのか、私なりに今になり思い返す事は、ボゥバリー婦人は若い頃、年上の抱擁力の男性と幸せな生活が続くはずであったが、ふと周りに目をやると、外の世界を見ることにより、いろんな男性も知るが同じくらいの奔放さゆえの非難や心を傷つけられた波乱の生涯を送ることで、何世紀も本当の話としてボゥ゛バリーリズムとして、当時のフランスには大きな影響を受けた女性である事がわかった。あなたはきっと何の苦労も無い幸せな結婚をしょう!!とこの本を贈っていたのではないのか?と感じると、今頃、気付いても悲しいだけだけだが、あなたの深い思いを再び感じている。
 その頃、私は障碍の関連から、右の腎臓を摘出するために入院をすることになった。動けるときには、毎朝、朝食前に公衆電話から、職場の2階に住んでいたあなたに「お早う!!」の電話をすることが習慣となっていた。たわいのないことを何でこんなに沢山と話すことがあるのかと思えるほど時の過ぎるのも忘れて楽しい会話することが幸せであった。
 手術後には日1回は顔を見せてくれたが、辺りへの配慮と照れくささかいつも「やぁ」と言っては病室に入って来て「早く元気になれ!」と多くの言葉はなく5分も居ると帰って行った。
 ある朝、早くに病室を訪れたとき、手を上に掲げながら「おふくろがパァだよ」と母親が逝ってしまったことを告げた。あなたは末っ子でお母さんにはきっと可愛がられて育ったのだと思う。
 ちょうどビートルズが来日して世の中を賑わしていた1966年6月のときで39年前のことである。
 手術の前は少し無理すると高熱ばかり出し、熱を下げる薬を飲むと唇までしびれてきた。手術への不安は今、思い出してもあなたの存在があり全く怖くはなかった。単純に正常に動いていない腎臓さえ取れば元気になれると思っていたが、その後も油断をすると熱発を繰り返していた。

  
 
 まもなく私は元のセンターに戻っていった。あなたはその頃。360ccの小さな自動車を買った。毎日のように訪ねてきたが、時折、名もない花を摘んできたり、食事を作ってきた。それはカレーであったり簡単な料理ではあったが、彼は港の見える丘公園で食べようと言った。行ってみるとすぐ近くの高台の敷地で港などは見えなかったが2人で食べることだけで美味しかった。
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片腕の彼がどのように努力して料理をするのか不思議であったが、その現場を見ていたある看護婦さんが、「男の人が料理を作って来るなんて余程のことよ」と言われた。
 よくドライヴにも出かけたが、彼は器用な人ではなくいつも安心して走れる大きな道路しか行かず
、最も遠出したのは彼の心の中にはいつもあった故郷の筑波山であった。
 ある日、自然な態度であなたは自分の職場の2階の住まいに連れて行ってくれた。職場の上を見上げると直角に近い急な階段があった。彼はこのような状況であるということは知っていて連れて来たのである。
私を抱きかかえると私はあなたの首にかじりつきそのままのぶら下がった姿勢で右半身の腕と足の力で2階に上げてくれた。屋根裏部屋のようなところで男の人にしてはきれいにしてあった。
毎日、自活しているという生活ぶりは「無趣無風流」言うだけありシンプルであるがいろんな創意工夫がされていた。
まな板を出してきて「こうすると簡単にできるんだ」とまな板の上の中央に大きな釘が挿してあり、その釘にリンゴやジャガイモなど刺して動かないようにして配置を代えて皮をむいたり切って見せた。
遠い日のことなのでやさしかったことと、「立派にお嫁に行けるよ」納得するように言われたことくらいしか思い出せない。今、考えるとこのとき、私が社会へ女性として生きて行けるかあなたから確かめられたように思われた。

 医療闘争の狭間で 
  
  変形してしまい、車イスや松葉杖の人は外すことが出来る、また、松葉杖の人は杖をなくすことが出来る画期的な機能改善手術がセンター内の病室で長いこと実施されて多くの障碍を持つ人たちが社会復帰が出来る時代であった。
 ところが突然に運営方針の変更で担当医は近くの国立病院に更迭され手術がストップになってしまった。多くの手術の順番を待つ人や当時の入所者で作られている自治会が、一弾となり「手術の再開と担当医の返還を求めて」7月の炎天下の中で「ストライキ」に入った。
センターに入って間もない私は戸惑いと新鮮な社会の動きを体験した。正面玄関のロータリ中だけではなく、当時の厚生省前にも大勢の障碍者が外部の団体の支援を受けて「座り込み」に入った。私も同寮たちと厚生省に座り込んでいた。
 数日経つとあなたが歯ブラシを持ち「帰るんだ」と私の前に怒って立っていた。気まずい雰囲気になったが帰らなかった。この医療闘争は夏になると数年続いた。
この問題に反対しているのではなく、私自身が参加していることが嫌なだけなのだ。私は若かったしまだ、何でも目の前に起こることや関心のあることは経験してみたかった。だから芽を摘むようなことはしてほしくなかった。この「医療問題」で彼との対立は初めてであった。

 1通の手紙 
 
 何気なく片付けをしているとき、今までにも何度も1通の手紙を目にした。手にすると、私もあなたもセンターに居る頃、夏休みで実家に帰っていたときに届いた手紙である。もう、こんな古い手紙を処分しようと何度も思いながら捨てられないでいた手紙があなたの死後、また偶然出てきた。d0019913_1793019.gif 宛先は実家の古い住所で後ろには、センターの住所と差出人が書いてある。2枚の便箋にぎっしりと書かれた内容はその日に起こった出来事、出会った人ことであったが今も懐かしい人の名前が書かれてあった。誰かさんがいないから寂しいという内容だが、8月15日の日付は、20年目の終戦記念日で昼の食堂で時報と共にみんなで黙祷をしたと書かれてある。歴史の流れが遠くにも近くにも感じられる、この手紙は39年前の手紙で今年の8月が来ると40年前になる。もう1度読み返してきっと私は永遠に持っているだろうと思った。
 あなたは心の中では歳の差を気にしていたが、私は全く気にならなかった。愛するということはその人のために何かをしたい、考えてあげたいということであるが、尽くされるままでよかったのに、結婚をいつまでも待たすことに気になってきたし、車イスでこんな重度な私でよいものだろうかと言う不安もあり、自らの気持ちも顧みないで、あるとき「いい人がいたら結婚してもいいのよ」と言ってしまった。暗黙の了承で結婚を信じていた気持ちが裏切られたような無言で怒りの目をし、小娘にバカにされたように思ったのかもしれない。言ってしまってからすぐに後悔したがそのときはすでに遅かった。

 その時から涙が止まらなくなった 
 
 チャンスは前髪を掴み、後ろ髪を掴んでも何も得られないと後に知ったが全くその通りで、自らの痛い経験からも自分のことを一番大切に考えないと「後悔先に立たず」である。
そんな日から1ケ月も経たないうちに、私も知っている身近な女性と結婚した噂を聞かされた。あなたが遠いところに行ってしまった悲しみで、日中は何かしているので気がまぎれたが、1人になると長い年月、涙が溢れて止まらなかった。
本当かどうかは分からないがその頃から、私には「泣き黒子」が目に出来てしまったが、今は消えてない。
 世間では「やはり軽い障碍の人を選んだのね」と言われたが、あなたの性分として選んだ人がそうだったと言うだけで私は余り気にはしていなかった。d0019913_17151912.gif 半年も経過した頃、偶然にあなたに会う機会があった。「何故、結婚したと自分から言ってくれないの」と訪ねると「おこがましくて言えない」と言う返事が返ってきた。
涙が止まらないまま私はセンターを修了したが、あなたから受けたいろんな教えの多くの経験は影響が大きくその後の人生を変えるまでに現在まで引きずり続けてしまった。

 ひまわりは日陰では生きられない 
 
 家に落ち着くとやはり出歩く足に不自由をするので、代々木に住んでいた友人のところに居候をして自動車の免許を取ることにした。d0019913_1718568.gif 当時、新宿の小滝橋に民間の自動車教習所があり、そこではあなたと友人の中沢利二さんが同じ障碍を持つ人々のために専用の改造自動車を用意し免許を取るための教習指導を仕事にしていた。余り大きくないコースであったがビルに囲まれたコースで現在はない。
主に中沢さんの自動車で教習をしてもらった。私は友人の運転する車で毎日のように甲州街道から青梅街道を通って教習所に通った。
あなたはいつも微笑んで冗談などを言って語りかけてきたが、私はそんな様子を見ているだけで幸せであった。
 免許を取得後、また、家に戻ってしまったら元も子もないので、まず、車を購入することと同時に就職先を探し、都立心身障害者福祉センターの窓口を訪ねた。その頃は車イスでの就職は探すのには困難な時代だった。窓口の先生は親切にしてくれて、その頃、美濃部都政の福祉の向上の追い風となり、何軒か「車イスでもよい」という就職先を探し回った。世田谷の上野毛駅の近くの洋裁店に勤めることに決まった。住むアパートまで探してくれて落ち着いた先が環状8号線と玉川通りが交差する近くの瀬田の交差点の八百屋さんが家主のアパートだった。車で通勤しょうと張り切ったが、店の駐車は注意がうるさくて住む所から仕事先までは直線で500mほどだったので車イスで通うことになった。休みの日は極力、実家に帰えったり車で出かけることにしていた。
 そのうち、あなたが訪ねて来るようになった。あなたが結婚している現実を除けばほかには何ら変わりはなかった。理解し合えるぬくもりの中で幸せだったが、その頃の私にはまだ、誰よりもあなたのことを知っているという信念があり「帰るよ」と背中を向けて去る姿を見るのが辛かった。半年ほどそんな行き来があったが、初めのうちは日陰のひまわりでも会っていたいという気持ちが強かったが、私の性分としては愛している人のことを秘密にして合うことが苦しくなり出し、そのうち子供が出来たと聞いたとき、私の気持ちに大きな変化が起きた。あなたは健常な頃、結婚していて子供もいたことも知っていたので、生まれてくる子供には罪はなくやさしい両親であってほしいと願い、そのためには私から「けじめ」をつけなければいけないと思い、会えないより生涯の友になろうと決心をした。

 時が止まる 
 
 その後も機会のある度に出会うこともあったが、内心はどうあれ表向きは友人関係を貫いた。その頃、1人だけの生活にも疲れて、自動車が大好きな、この人なら私らしさが出せるだろうという、唯、それだけの安易な気持ちで結婚をした。夫にも過去があったが関心はなかったし、夫も私とあなたとの付き合いは知っているはずであった。
 あなたに結婚すると伝えたとき「あいつは大嫌いだ!!」とハッキリ言われて「私が結婚するのだから構わない」と答えたが、あの剣幕には驚いた。
曲りなりにでも平凡な家庭生活をしているように見えたが、結婚して1年も経たないうちに結婚したことを後悔した。その後悔を乗り越えられたのは自己責任と家族への期待を裏切りたくない思いからだ。自然と近場の家庭より遠くの世界を見るようになり、夫婦というよりは親しい同居人と暮らしているという感じで長いこと過ごしてしまった。
ある日、駐車場で夫とあなたが両サイドから私の車を洗車している風景を目にしたとき複雑な思いに駆られたこともあった。
 私は何故か360ccのときを含めて通算して4回ほどの排気量アップをしている。最後のオープンのアップのとき、今から24年ほど前、彼のブルバードUで練習をしたが乗り易い自動車であった。私はずっとウィンカーは自分の手で操作していたが、その数秒の遅れで細かな操作のときにはハンドルにブレが起きることが分かり、本来取り付けてある左側のウィンカーをこの機会に使い慣れるように助言をしてくれた。このために時間が少し掛かり府中の試験場に行く甲州街道の並木道のイチョウの葉が黄色から赤に変わり落ち葉が散りだす頃になってしまったが、何年経っても彼との垣間見る時間はいつも昔の時間にその瞬間だけ戻ってしまうことだった。

 最後に会ったとき 
 
 住んでいた新宿区の地域の仲間たちが集まり、丁度、国際障害者年を記念して区立障害福祉センターが設立されることになり、出来る前の運営委員会から私たちは参加した。
完成して、20数年前になるだろうか。公の場を提供してもらい、私たちの希望は地域の在宅している女性障碍者を中心にその頃、流行っていたカルチャー活動を力を入れたが、他の団体が「健康な人も障碍を持つ人も平等に憩える場」として提案していた「喫茶店」のやり手がなく、女性軍の多い私たちの会にこの話が舞い込んできて、「面白いかも・・・」と最初のうちはあくまでも家庭の延長線上で車イスの人たちと健康な女性たちと同じ目線で「ふれんど」という喫茶店をオープンさせた。館内で働く障碍者だけではなく、外部からもいろんな障碍を持つ人も健康な人々も訪れて、そこはみんなの交流の場となった。
 オープンして間もない頃に、午後のある日、あなたがいつものように幾分斜めに肩をいからせて「おぉ」と言いながら訪ねてきた。顔色もよく元気そうだった。何を話したのかは忘れたがこのときの彼の姿は今でもハッキリと心に焼き付いている。また、このとき、誰が写したのか2人の写真が残っている。私にとってはたった1枚の写真である。後になって思うことはこれが私があなたに会った最後となった。

 2人でいてもひとり 
  
 ふと夏の暑い日、自分の胸元に小さなしこりがあるのを気づき、それは「乳ガン」だった。このときは震えるほど怖かった。手術をして退院してからも気持ちが塞ぎ込み、また、嫌でも身近を見るようになり、なおさら心が痛んだ。どんなに努力しても夫は変わらないことが分かり夫に比がある訳ではなかったが、いつも1人でいるようであった。病気の影響もあるかもしれないが、本当に落ち込んで立ち直ることが出来なかった。
このまま我慢をしていたら長い間封じ込めていた精神が爆発しそうになり、夫にしては突然変異だったかもしれないが、否応もなく一方的に私は別れて新しく生きる道を選んだ。
 私は結婚することも1人で決めて、17年間の生活の中で1人芝居をしていたようにも思う。この間も気持ちの中ではあなたがいつも存在していた。いつも心の中であなたの存在を意識する生活をしているうちに、出会う人と少しでもあなたに性格が残留している錯覚してしまうと惹かれて行く自分が分かったが、すぐに違うと気づくと愚かに思えた。何年経ってもいつでもどこでも心の中にあなたの存在が大きく残った。

 彼が倒れて・・・ 
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 私が新しい生活を我武者羅にして1年も経つか経たないとき、血圧か高いのが原因であなたが脳溢血を起こし倒れたことを知った。左半身切断のところに運の悪いことに今度は丈夫だった右半身がマヒする二重の重荷を背負うことになってしまい、どれほどの重度な障碍者になってしまったかは想像できた。d0019913_1720482.gif何もする術もない私は植物や花々がとても好きだった彼に何度となく入院先に花を送ったが、それがかえって重症の身には負担になるのでは思い送ることもやめてしまった。
 2年ほど経ち退院して在宅生活を出来るようになった。何度となく電話で会話をしたが、身体はともかくもあなたの精神は健在で、私がやっている仕事に対して「何故、私ではなく、誰が他にやる人が居るだろう」と私を責めた。私こそ、あなたが望めば1日中、家の中に居ないで明るい外に出ることで気持ちがまぎれるとおもったが、あなたのプライドが許さず自らの不自由さも語ろうとはしなかったが、「トイレで倒れてベッドまで30分かかった」などとふと聞くと彼の生活の不自由さが伝わってきた。私が知る限りでは「人に施しを与えても自らは施しを受けたくない」と言う気持ちが強かった。
 暫くしてから労災施設に入所13年間を過ごした。何度か電話で会話したが、「いい所だよ。遊びにおいで・・・」とか、今で言うガーデニングを楽しみ「元気になったら、また、施設内だけでも自動車の運転がしたい!」と語っていた。
 仕事の関係でその施設にも何度か利用者を運んだこともあるが、訪ねていこうと思えば出来たのだが、私は最後に「ふれんど」会ったその時のままの印象でいたいという気持ちが次第に強くなり訪ねることはしなかったし、そのうち電話を掛けることもなくなっていた。しかし、何度となく仕事で車は行っていたのだから、思うと行っておけばよかったと後悔している。
 晩年のあなたが幸せであったか不運であったかは私が確かめる術はないが、あなたの死を知ったときより日が経つに連れて悲しみの深さが大きく伝わってきて、涙でいっぱいになり胸が痛くなる。
もう、人生の大半を「胸に仕舞う」ことで生きがいを求めて来てしまった。私が生きている限り「心の中で語り」あなたの存在も生きている。あなたの死がすでに私の生活に何の変化も起きないほどに時間が遠く過ぎ去った現実がある。
 これからも心の隙間を過去のあなたの存在が埋めてくれるであろうし、心の中には私が生きている限りあなたの面影をこれからも引きずっていくのである。それは私の生活の中の習慣性になり私の青春の残留が息づいているのだ。

 あとがき 
  
 それは偶然にしては余りにも距離というか日を置かないで、無二の親友がの中沢さんが亡くなったので二重のショックであった。
 国立障碍者センターを修了してから、新宿の小滝橋から始まり、その都度コースは変わってもずっと一緒にあなたが倒れるまで長い間、障碍者の自動車教習の仕事をしていた友人がが追いかけるように3日後に亡くなった。勿論、病気も異なるが同時期に亡くなったことには生前の縁の深さを感じずにはいられなかった。彼らの自動車免許取得でどれだけ多くの障碍者の人々の社会参加の機会を与え、社会への貢献度は高い。2人は仲もよかったし性格も全く違っていた。近年の中沢さんに会うといつも「会いにいかなければ・・・」と必ず語っていた。近頃は病の性もあったが痩せてしまったが、友人の人なつっこい笑顔がどうしても重なってしまう。
 悩みも苦しみもない天国で2人はまた、同じ仕事をしているのではないかと思うし、きっと仲良く自動車を走らせながら暮らしているだろうと思う。

                                           2005年6月11日記
by rakudazou | 2005-08-09 18:15 | 《ひとりごと》中村陽子