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by rakudazou

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つながりと接点
 結婚しようと決めるとき、私がそうだからと言う訳ではありませんが、タイミングが大切だと思います。若さで走ってきたことに疲れた24歳のとき(とまり木)に泊まってみようと思ったのが結婚でした。生まれも育ちも異なる者同士が、あるときから新しい環境を築こうとすることはたやすく出来る人も居るかもしれません。私の場合、隔たりがあったようです。その"つながりと接点"を見出すために長い年月を費やし努力をしました。そして、今となって鮮明にその答えが出るような出来事がありました。

ショパンと乳がん
 7月の暑い日、せわしい日々の間にその日は偶然に籐イスに座り、疲れをとるように腕を伸ばし落ちてきた指先が自分の胸に触れました。そのとき、何かの変化を予感しました。確かめるためにもう1度、指先で触ってみると米粒ほどの"しこり"を感じ、こんなときには迷わず病院に行こうと次の日1人で行きました。最終的に結果は乳ガンとキッキリと言われました。
 病気に慣れている私でも(何故?)と疑いましたが、現実は容赦なく手術は実施されました。術後、普通の人は直ぐ動けて歩いているのに対して、歩けないというだけ身体の自由も腕も使えず、点滴を受けるために元気な右手ばっかり束縛されて、身動き出来ない状態が1ヶ月以上も続きとても悲しく沈み切っていました。耐えがたい情けなさや悲しみに襲われて、そんな心を支えたのが、ショパンのピアノの美しい調べは、その気持ちの高鳴りや悲しみをバラードやさまざまな練習曲の調べが来る日も来る日も私の心の悲しみを吸収し私を立ち直す力を与えてくて、その当時、ワルシャワでのショパン国際コンクール・ピアノ部門で19歳のロシアの青年のスタニスフ・ブーニンが優勝し脚光を浴びていました。私はブーニンの奏でるショパンに何よりも大きな心の救いになりました。

つながっていた糸が切れるとき・・
 同じような体験をした人たちはみんな先に元気になって退院して行きましたが、私はようやくと1ケ月以上も寝かされたまま過ごし、看護婦に手伝ってらい身体を起こしてもらい車イスに乗り、病院の屋上の明るい空の下に連れて行かれた時は、空の明るさの向こうに人間には確かな「死」が訪れることを実感しました。
 まもなく、手術の傷口が半分開いていましたが退院をしました。置かれている身体の状態も私の心も以前とは違っていました。私の夫は一般的にはやさしい良い人でした。今までも埋まらない隔たりがあったように今回の転機が新たなつながりを持てるチャンスだと思っていましたが、世間的には良い夫であっても、私の内面的な心の支えをどんなに努力しても見出すことが出来なかったのです。このような時期に誰でも襲われる精神的な動揺が重なって私の心を身近な現実に引き戻す結果と以前の私とは違っていました。私の病気がそうさせた?とか私自身のわがままから・・といろんな意味合いがありますが、落ち込んだ心の底を取り戻すことが出来ずに結婚して17年目に破局が訪れました。

死を感じたときに新たな生き甲斐を見出す。
 もしかして、あのとき死んでいたかもしれないと考えるようになり、じっとしてぬるま湯のような生活はしていられなくなりました。残された人生をどう生きるか?真剣に考え、私のライフワークでもあった、寝たきりから車イスへ、在宅から自立へ、そして、長い年月、自らの移動(自動車を運転する)ことだけで満足していました。
 しかし、私たちより重度な障碍を持つ電動車イスが公に社会から認知されるようになったとき、電動車イスのまま移動することが、どんなに素晴らしいことか!!最終目的がはっきりとしたとき、現在のケア付き移動サービスという、当時、そのような職種のない中で、通院などではなく誰にでも希望や勇気の持てる苦労に身を投じていました。

by rakudazou | 2006-05-16 06:07 | 《エッセイ》中村陽子
最近のことだがある晩、突然電話鳴り響いた。「私の良いほうの足が立たなくなってしまったのよ!!」とお風呂は入るのもとても大変だし、階段を上がるのも大変だし「どうしてよいのか、頭の中が真っ白になってしまったの」という話でした。無理してももっとひどくなっても困る障碍を持っていてもその人の障碍程度で物の考え方がまるで変わってしまうものだ。身近なところに古くからの知人で障碍者のご夫婦が住んでいる。ご主人は最初の頃は駆け足が出来るほどに元気だったし、奥さんは両ステッキをついて長いことお勤めをしていた。ちよつと背伸びをすれば一般人と変わらない生活が出来ていた。自宅も購入し高台の上に家が建ち2階から「お天気の良い日には富士山も見られるのよ」と自慢をしていた。しかし、彼女が言うのには高台に建っているために当事者でも大変なのに「陽子さんだけではなく障碍を持っている友達がみんな坂がきつくて遊びに来られないのよ」と2人で元気な頃はそのようなことを言っていた。
もう、大分前から元々あるが障碍から伴う頚椎の痛みでご主人の身体が合うたびに重度になっていき、今では本当に重度障碍者になってしまって一人では外出も出来ず、ヘルパーに頼る日々になってしまった。最初の頃はご主人のことでいろいろと電話がありましたが最近はそれもなくなり、不自由ながらうまく生活をしているのだと思っていた。
「お風呂はヘルパーに入れてもらって、あなたも車イス生活になったら・・・」と言うと彼女はまだ、この状態を維持しながら生活がしたいと思っている訳で、しばらくしたら足の状態もよくなると思いたいほうだが、現実にはそうなった原因も把握されていず、まず病院に行き原因を掴まなければどうすることも出来ず、同時進行で行政センター今後の大切なことを相談に「明日にでもいっていらっしゃい」と言えるだけだった。
 夕方、気になって電話をしたら、昨日より落ち着いた声で「病院でも親切に見てもらえたし、行政センターの人も明日、来てくれると言うの」と答えた。人間は生きていくうえで「何が起こっても仕方がない」心境になったようである。元気な時との落差が激しいので大変だろうと思うが、彼女の今までの根性を活かせば何とかなると思っている。
by rakudazou | 2006-05-03 16:05 | 《エッセイ》中村陽子