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by rakudazou

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雨の土曜日 
 2003年5月31日の土曜日の午後、雨が音を立てて降っている風景を眺めながらパソコンに向かっているとき、電話が鳴りました。
電話の中から知らない男の人の声がして「長嶋周子は今朝、急死いたしました。私は長嶋周子の フィアンセです」と1度ならず2度、驚くような内容の電話でした。
しかし、信じられない思いと、Sと名乗る男性は私に淡々とした口調で幾つかの質問の問いに対して、また、彼はその後の経過を話してくれました。
質:「何故、突然に・・・」
答:「心不全です」
質:「あなたはどちらに住んでいるのですか」
答:「今、同棲しています。来週、退院の予定でその後、式を挙げてみんなをおど
   ろかすつもりなんです」       
質:「どのようにして知り合ったのですか」
答:「メル友です。昨年の小学校での生徒の交流会のとき行っていましたので、中
   村さんのことも知っています 」
質:「周子さんのどのようなところが好きになったのですか」
答:「・・・純粋なところです」
 電話を切ってからも、今の会話が幻のように思いました。月が明けて6月3日に通夜があり、私は冥福を祈りました。
フィアンセの人とは会えませんでした。それでよかったと思っています周子さんの一番不安で辛いときに、そういう人の愛や励ましがあったという事実は、突然の別れでしたが、幸せな一瞬があったと思うだけで一人の女性として救われる思いがしました。

出会い
 周子さんは、両親に支えられて、船橋で生活していました。大田区に嫁いでいるお姉さんのところに訪れる時、ホイラー号の車両を使うようになり、初めて出会ったのは、もう、10数年以上も前のことです。 以前、少人数で山梨の石和温泉に出かけた時のことでした。桃がいっぱい実っている頃で、採りたての美味しい桃の甘さが忘れられません。船橋の自宅まで迎えに行き、ホイラー号に乗りこんで来た周子さんの最初の印象は、もう、真夏だというのに、まるでゲレンデでスキーに出かけるようなスタイルで驚きました。
「こんにちわ!!初めまして」彼女はハキハキとした声で「こんにちわ」と挨拶をしました。ざん新なデザインの可愛いピンクの洋服を器用に自分で作り、手も不自由なのにとても よく似合って着ていました。
「暑くないの?」と尋ねると「私の身体は温度調整が出来ないので、汗をいっぱいかいて日に何度も着替えないと、薄着をするとダメなのよ 」と言っていたのを思い出します。
 山梨のホテルで同室になり、温泉に入ろうと思った時、元気な女性軍は障害児のお母さんたちが二人いて、たまたま子供たちは男の子であったので、理由を話しドライバーさんたちに男の子を入れてもらい、快く私たちの介助をお母さんたちにしてもらって感激しながら温泉に入りました。

自立生活の始まり 
何時の時か、いろいろと家の事情で周子さんはお姉さん宅に、ご両親は近く貸家で大田区の住民となりました。
引越して間もない頃はしばらくの間、カゴの中の小鳥のような身動き出来ない生活が続いていましたが、生活も慣れて気晴らしに時々はご両親とイベントに参加したりしていました。
 周子さんは船橋にいる頃から「両親が段々と歳を取るので自立したい」と願っていました。周子さんには今度こそ、自立できるチャンス到来よ。と励ましましたら「がんばってみるね」と言いました。 
 半年後、周子さんが新しいマンションに移り、夢に見た自立生活がスタートしました。室内を改造し、ヘルパーに介助されながら、一人の生活が始まりました。多分、彼女は毎日の生活の予定を自分でしっかりと作り、夜は11:30分に寝かせに来てもらい、朝は8:00に起こしてもらうと言っていました。
 1年もたたない時期に、彼女は新しい最新式の電動車イスを作って間もなく、東京ビックサイドで毎年開催される、国際福祉医療機器展に一緒に出かけたのは1999年秋のことでした。
 いつも明るく元気な周子さんは新しい電動車イスで上機嫌でした。なかなか周子さんだけ戻ってこないので心配して待っていると、広い会場を動き回り待機しているホイラー号に戻って来ました。人数の少なくなった広い会場の中で、新しい電動車イスの能力を自から確めてみたかったらしくて、12㌔のスピードを出すことが出来たと興奮気味に語っていました。
 一時も離なさぬ携帯電話も、不自由な手先で上手に使いこなして「彼氏を見つけたい!!」と、あのときの姿は、ようやく自立が実現した喜びと共に、最近では最も元気な頃の周子さんらしい姿でした。
 その後、私が知ったのはしばらく立ってから、周子さんの障碍は難病とされている膠原病と聞いていましたが、その因果関係は分かりません。、糖尿病が悪化し、極度の食事制限と目の視力も落ちて何度も視力回復の手術を受けていました。視力の低下で電動車イスに乗ることもドクターストップされてしまい、時々、電話での会話で、いつもの口癖のように「早く新しい電動車イスに乗れるようになれるといいね」と心から願っている日々が続きました。

最後の区立新宿小学校への参加
 体調があまり良くないのに毎年、大田区立新宿小学校での生徒との車イスの実施練習に参加 していただきました。2002年9月の頃です。
この数年、近くに住んでいるのにこのような機会を通じてでないと合える機会がなくて、その時も久しぶりで、1年ぶりの再会でした。
 この日も一番気心の知れたヘルパーさんと参加し、毎年、参加していただき、昨年の9月、新宿小学校の父兄を交えた記念集会にも快く参加してくれました。
 この日は、早めに近くの蒲田の中華料理屋に集まり、勝矢さんなどと一緒にランチを食べましたがヘルパーさんと一緒で「私は沢山食べられないからと」と2人で1人前しか頼みませんでした。
 学校に到着して、周子さんを1年ぶりで会った印象は、その前の1年前とは一回りも小さくなって、目元もくぼみ、手の細さが痛々しいほどでした。私は「どうして?」と尋ねるとギリギリまでカロリーを減らさないと糖尿病が悪化し視力にも影響があると言うことでした。
 いつものように元気な2年生の可愛い生徒に囲まれて、周子さんを初め車イスの前に2年生の生徒が車座に座り、元気な質問の交換のエールがありました。周子さんの声は相変わらず大きく元気で、ちょっと余所見をしている子どもがいると大きな声で「話をよく、聞きなさい」と制したり、いつもの周子さんでしたが、私だけでなく、そこに居た人たちにとって最後の元気な周子さんの姿でした。
 区立新宿小学校の2年生の生徒さんが綴った絵入りの手紙集を記念に周子さんに送りますよ。と言いましたらとても喜んでくれました。
周子さんは障碍と戦い、関連する病気とも戦いどんなにか苦しかったとでしょう。自ら自立したといっても周辺や関わる人々との壮絶さは、生きている姿を見て多くの苦しみを感じますが、愛する人も得て、きっと幸せな人生であったと信じたいです。彼女が残した「強さとやさしさ」は、これから大きくなる子供たちの記憶の中にも何かへの影響があったことを、そして、私たちの心の中にも生きている限りの残ることでしょう。
by rakudazou | 2006-08-03 17:20 | 《エッセイ》中村陽子