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by rakudazou

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精神年齢と実年齢
 2005年は酉年、酉年生まれの母は84歳になる苦労人である。父が2001年7月24日に亡くなるまでの20数年間、母は仕事も家庭でもよきパートナーから、理解ある介護者になった。父は60歳を過ぎてから体調を崩し、検査入院を繰り替えしていた。
私に「うちはガンの家系だから自分もガンになる」と半ば信じていたようだ。いつも病院にかかっていたおかげで早期の胃がんが発見され65歳の時、東京女子医大病院で胃を全摘した。この時、担当医からの説明では「さくらが散るような・・・」悪性の胃ガンで50代であれば助からなかっただろうと言われた。
 その頃から父は快気しても精神的に病人になり母は看護人になってしまった。食や酒に対するわがままは果てしなく、すべて喉の通りが良いか悪いかで好き嫌いを勝手に決めていた。
d0019913_16461157.jpg 家庭の事情で父たちは60歳を過ぎてから、母と2人だけで暮らす家を建てた。建てるのにあたり、私はひとつだけ注文をした。それは将来、「もし、両親が病気になった時、私が車イスで行ってもひとりで家の中に入れるような家にしてほしい」と頼んだ。
しかし、完成した時、玄関から段差があり、私は悲しくもあり怒りを感じた。「どうして私は家に入るの」と尋ねると真新しいスロープを出して来て「陽子が来たら私たちが手伝えばいい」と言われた時、親ほど身近であっても何も理解していないことをしみじみと感じた。
その後、勝手口より長々とスロープを作り、私は台所から出入りをすることになった。
 段差のある玄関から家の中に入るために、わざわざ作ったスロープを持って来て、「自分たちが手を貸そう」と本当に思っていたのだろうと思う。「自分たちがいつまでも元気でいる」実年齢と精神年齢は40代。50代の最も体力のある頃の時代といつまでも少しも変わっていないことを感じ、当の父は晩年にこのスロープを利用していたかどうかは分からない。

父の晩年
 父の老後は自分で病人と決めつけて母は従順に従っていた。しかし、その父も84歳を過ぎた頃から、老人性のボケと交差するようになり、昼間と夜がひっくり返った日々を徘徊するようになった。いつでも食べることと飲むことにこだわりを持ち続け、傍から見ると意味のない動作を繰り返す、同じ引き出しを何回も開けたり閉めたりして「何をしているの」と尋ねると探し物がみつからないと嘆いている。
 そんな生活の中で、母は長年の心労がたたったのか、体調を崩して入院をしてしまった。入院中、吐血し緊急の手術となって胃を全摘してしまった。母が78歳の時である。手術の前の晩、私は母の病室に車イスのままで泊まった。いろんな話がしたくて、唯、1晩中、付き添っていた。もう、一時は駄目か?と覚悟した時もあったが奇跡的に回復し、それは「このままではまだ、死ねない」と言う母の強い執念が助かったと思えた。
 自宅から程近くの病院であったが、手術をして間もない頃に、杖をつき父が1人で見舞いにやって来た。心配でたまらなかったのだろう、交通量の多い国道をどのようにして歩いて来たのか、家族は驚いてしまった。
父は到着するなり、まだ、話しも思うように出来ないでいる母に向かって、「まだ、治らないのか」と一言尋ねて、「まだ、まだよ」「そうか」と言い残し、すぐに帰ると言い出し子供のような父の姿が忘れられない。
 父の晩年は母の作る料理が一番美味しいと食べ、いつも「ありがとう」と、気が弱くなり、次第に食も細くなり家の中でも寝ていることが多くなった。唯、母の丹念で生きながらえていたようだ。
 私が最後に父と会ったのは、6月の少し早い「父の日」のつもりで尋ねた時である。寝ていたのを起きて来て、すでに歩き方もおぼつかなく、内心、「もう、余り長くはもたないかも・・・」と感じられた。「陽子、来ていたのか、いつから車イスに乗っているのだ」と尋ねたりして、「ついに本当にボケてしまったか」と思った。「小遣いを上げよう、3万円だぞ」と、差出したのは千円札が3枚、母は「もらっておきなさい」と言ったが、お金の額も忘れてしまった父に私は悲しく思った。

ありがとうの一文字
 その後、仕事で留守にしている間に父が入院したことを知らされた。直ぐに駆けつけたが、すでに人工呼吸器が付けられておりその時は意識がなかった。時計の如く規則どおりに息をしている父を見て、「こんな機械で生かされていてよいものだろうか」と言う疑問を感じた。何度か短い期間に見舞いに行った折に、付き添っていた母が「話せないけど、言っていることはみんな分かるようになったのよ」と言った。そして、「今朝、これを書いてくれたの」と最初はかなりハッキリとした文字で最後になるほど文字は乱れて読めない短い1枚のメモを大切そうに渡された。「長い間ありがとう」私にはそう読めた、母もそう読めると言い、「これ、お母さんにそう言っているのよ」と言うと母は嬉しそうだった。
 半世紀以上の苦楽がこの一言ですべて水に流されたかのように、母の姿には父の気持ちが伝わって安堵し救われたと感じたのであった。それから数日後、7月の夏の朝日の光と共に安らかに永眠し87歳の人生に幕を閉じた。

何がしたい!!
 特に目が離せなくなった父を介護を要する数年間は、母もかなりストレスがたまってしまった様子で一時期は精神的に不安定なこともあった。「私は一生、主婦をやっていなければならない」と訴えたこともある。
 しかし、ひとりになってから父の残した「長い間ありがとう」に支えられ勇気づけられたことは事実であった。人間はどんなに苦労や悲しみがあっても、その一言で立ち直ることが出来ると言うは本当である。
 父が亡くなった後、「何かしたいことある」と尋ねると母は、今まで長いこと年末年始にはお客の接待や料理作りなどで座る暇もなく忙しく過ごして来たので、「一度で良いのでお正月は何にもしないで過ごしたい」との第一声で、その年はホテルで過ごすことに決めた。
 しかし、年末年始に都内近辺のホテルで過ごすということは、ちょっとした海外旅行が出来るほど高額である。私たちの行動力のことも考えて、最初、都内の中心地を考えたが、あまりにもホテル代が高いので、父の思い出も深い横浜にした。
 横浜市内のコスモワールド、ランドマークタワースカイガーデン、日本丸のメモリアル観光スポットも至近の横浜グランドインターコンチネンタルホテルにした。31階建ての8階で観覧車も目の前に見えてお伽の国のようであった。母は一生一大のオシャレをしてソワソワして記念写真を撮った。
 ディナーは和食にして早めに時間をかけて食べた。この夜は大晦日なので一晩中起きていても飽きないほどのいろんなイベントがあったが、私たちは選んで出た。若いカップルだけではなく、子供連れ、高齢の親子連れなどの人でにぎわっていた。年越しそばを食べてから、カウントダウンの行なわれる会場に入った。ショーがありビンゴーゲームがあり、会場は次第に盛り上がったが、カウントダウンが始まるとみんなで一斉に秒読みをした。新年を迎えると外では花火が上がり、周りにいる人たち誰にでも「乾杯!新年おめでとう」と声を掛け合って新しい年を祝った。
 元旦の朝はおせち料理で祝った。日中はお天気もよかったので、ホテルの側から出る 水上バスに乗り中華街を散歩し、2泊3日の豪華な時間は過ぎて、ゆっくりとドライブしながら帰った。
 帰ってから母に「また、行きたい」と尋ねると「一回で充分!」と答え、私も思ったが、また、行くにしても普通の時に宿泊すれば、極端な話、10/1くらいの値段で楽しめるのであるから、そのほうがよいと思ったが、思い出に残る経験になった。

なれそめ 
母は父が亡くなってから一年もするとすっかり一人生活にも慣れて、自由な生活をしている。事実、私も子供の頃も入院や療護施設に居て、19歳の時に家を出てから、今までに数える程しか、母たちの所に行っても泊まるということはなかった。最近ではよく、母は家の心配がないので、泊りがけで来るようになった。
母が来ている時は出来るだけ母のペースに合わせるようにしている。食事をしたりお茶を飲んだりする時、この頃の母はよく昔話をするようになった。自分の親のこと、兄弟のこと、若いとき奉公した時の話、私たち兄弟の子供の頃の話、前後の苦労話など、その中で知らない話がいっぱい出て来て面白く聞いている。
 父と母は昔のことだから「お見合い」であろうと思っていたが、ある日「あの手紙が間違っていなかったらね」と話だした、私が「何が・・・」と聞くと、母の長姉はすでに当時、中村姓の家に嫁いでいた。若かった母は当時の東京で奉公の仕事を辞めて、将来のことを考えたいと姉に相談の手紙を出したところ、今では考えられない話であるが、かなり距離的にも離れているのに同じ中村姓の家にその手紙が届いてしまい、それが父のその頃住んでいた家であったそうである。当時はそのような間違いはよくあったのだと母は話した。
 それが縁で仕事先を探しているなら「来てくれないだろうか」が勤めより「嫁にこないか」と言うことで結婚したと手紙の間違いが縁だったとなれそめを初めて話してくれた。
「赤い糸で結ばれていた」というが、母は50数年の中では、「あの手紙さえいかなかったら」とひとりごとも、幾度となく思ったことがあるに違いない。今は遠い懐かしい思い出となって話してくれたのだろうと思う。
 母は手術をしてさらに痩せてしまったが、年齢のわりには背も真っ直ぐにしているし、「先へ生きる者のへの義務」と言い、とにかくまめに良く動く、働き者であった面影は今でも充分残っている。父を最後まで世話をしたという達成感に支えられて、今日では、何よりも自分の健康を大切にどうせ生きするなら最後まで長生きが出来てよかったと思える人生を送ってほしいと望んでいる。
週、一回のディケアサービスとヘルパーが入り、スープの冷めない距離に2人の子供も住んでいる。4人いる子供の中で、障碍を持つ私は誰よりも心配や苦労をかけていると思うが、苦労をかけた分だけ母には残された人生を楽しく長生きをしてほしいと願っている。
 すでに、高齢の母とは、父の没後、今年の年末年始で4回目になるが、母と共に過ごす予定であるが、毎年、今年で最後になるかもしれないと思いながら生活している。
母の身体も衰えると同時に私の身体も年々と退化していることをよく知っている。何をするにも何処へ出かけるのも、その時を大切に悔いのない思い出が残せるように、母と過ごせる時間を大切にしたいとこの頃、親身に思っている。

by rakudazou | 2006-12-19 16:42 | 《エッセイ》中村陽子
まえがき:
 10数年以上、第三者が主催する旅行あるいは一人で国内も海外も旅行する機会がなかった。
私は今年になって、身体の動くうちに今までの集大成として、ドイツ、フランス、イギリスの特に田舎に行ってみたい、福祉の研究を兼ねて行きたいと思うようになった。そんな機会を作る為には、同行してくれる通訳兼女性介助者を探していた。
 身近に接しているパソコンの先生の紹介で、私の住まいから歩いて10分もかからない近くに住んでいる独身女性と知り合いになった。宮脇弘美さんと言う、私と正反対の性格の持ち主で几帳面な性格の人で、家庭料理も何気なく作り持って来てくれる心やさしい人であった。d0019913_16555476.jpg


おかし屋ぱれっと:
 
 宮脇さんと初対面の時、恵比寿にあるおかし屋ぱれっとの話になってここでは、20年以上も知的障害の人々の職場として、クッキーやパウンドケーキを作りお店でも小売し、インターネットで販売している。成功が困難とされていた頃から地道な努力をみんなでして立ち上げられた事実はこの業界では有名なお店である。
ぱれっとの工場の近くに「香辛酒房ぱれっと」というスリランカ料理のレストランがあり、2人で電車に乗って食べに行った。日本人用にはアレンジされていたが、私は辛い料理が好きなのでとても美味しかった。
スリランカにもおかし屋ぱれっとの工場があり、現地の知的障害者の職場としてクッキー作りをしている工場があることを初めて知った。

スリランカに行こうと思った動機: 
 宮脇さん自身は中古車輸出等の貿易会社で働いていて、いろんな留学生や友人が出来て、その中でもすっかりスリランカの魅力にハマってしまった人。これまでに4回、しかも殆ど長期滞在をしているそうだ。彼女の話を聞いているうちに「紅茶の国」のイメージが変わり未知の世界に関心を持ち、私も行ってみたい気持ちになってしまった。
 考えてみると、私たちがこれまで出かけた海外はバリアフリーの整っている、リフト車両があることに限定した中で選んでいたのが多い事は必然的に先進国であったことになる。
 いわゆる開発途上国と言われている国に出かけるのは、知り合いのツーリストに尋ねたら、「インドは勧めないが、スリランカなら安全ですよ」と言われてちょっと安心、あえてスリランカの勉強は殆どせずに、半分はスリランカ人になりきって同行する宮脇さんを信じて行くことになった。 

いよいよ出発: 
 スリランカとは光り輝く国、インド洋に浮かぶ宝石の島と言われているそうだ。2003年6月21日「土」14:40分成田発、エアスリランカ航空は土曜日のみ直行便のエアバスで満席であった。車イスは私だけと思っていたら、新婚旅行の若いカップルで奥さんが車イスで、彼女等はコロンボ経由でモルジィブに泳ぎに行くとのことであった。
添乗の人々はみんな原色の色とりどりのサリーをまとい、民族服はいつ見ても美しいと思った。       
 東京~コロンボ間は約8時間、日本との時差が3時間あり、19:30分にコロンボに到着、空港の外に出るまでに1時間以上かかった。 羽田空港などによくある上下稼動のリフト付きバスが飛行機の乗り入れ口まで来て、リフトが降り口と平行に並ぶと、機内用の車イスに乗った私はそのままリフトバスに乗り移り、ターミナルの玄関まで来ると地面までリフトと共に降り立った。
 到着も遅く外の空気も余りよく感じられなくて、初めて呼吸をした時はムッとした暑さが伝わってきた、人気も無い暗いカトナヤカ国際空港内に到着したのだ。
 何かローカル空港といった感じで税関を通るとき、税関職員が宮脇さんに「ボールペンをくれ」と言われたと憤慨していた。日本人は物を豊富に持っていると見て、訳が分からない人はきっと上げてしまうだろうと思った。最後に両替をして、ドル紙幣からルピーに交換したらそんな多い額ではないのにとも枚数がいっぱいになりお金持ちになった気分であった。

ガイドさん:
 空港の出迎え口にガイドをしてくれる宮脇さんの知り合いの白い口ひげのスサンタさんが両手を広げて笑顔で歓迎してくれた。日本語の出来る人でときどき、へんな日本語を話すこともあるが、殆ど会話するのには困らない。
20年ガイドをしているらしいが車イスの観光客は初めてだと言われ、私が訪れるのにあたって彼なりにいろいろと車イス観光コースを考えてくれたらしい。

空港からホテルまで: 
 空港を出る頃は、あたりは真っ暗で街のネオンも見えなかった。しばらくすると私たちが乗る車が来てトヨタのカローラであった。「エッ、この車」と思ったが、スリランカではこのようなタイプの車両が一番人気があるようであった。何とか手伝ってもらって乗り込んだが、肩を痛めているので腕にも負担が掛かるので「明日からはワゴン車にしてほしい」と頼んだ。
 一般道路に出ると信号もなく、まあ、みんな運転が乱暴なこと、道路は暗くてよく見えなく舗装されていない感じである。周辺は訳の分からない人だかりが出来ていて、フッと車の脇を人が通り抜けたりして、何の店か判らない屋台が出ていたりしている。突然にイルミネーションの輝く人だかりがする広場のようなところでは、結婚式を挙げていると聞かされてびっくりした。
 空港から街に向かう寂しい道路で、運転は日本と同じ右側通行であるが、最初に驚いたことは、バスやあらゆる車両がクラクションを続けさまに軽やかに鳴らしながら右へ左へと車間距離ギリギリに追い越していくことであった。対面交通で入り混じった車の走り方が最初に一番怖いと感じたが、私たちのドライバーはとても安全運転であった。1時間余り走ると大きな建物が見えて都会らしくなり、港町特有の汐の匂いがした。暗い闇の中に波の押し寄せるインド洋がある波打つ海側に来たという実感があった。その目線上の方向に向けると明るいホテル群が見えて来た。コロンボ市内に来たらしい「私の泊まるホテルはどれ・・・」と訪ねると同時に車が別世界のような明るいセイロンコンチネンタルホテルに到着した。


車両は変更せず:
 車から降りるときがまた大変であった。私の靴は脱げるやら、ボーイさんや大勢いの人が助けようとするのだが、私を車から車イスに降ろすのにあちこち?揉まれて腕や肩が痛くなってしまった。しかし、明日から車両を変えるとドライバーも変わるルールらしく、このカローラであれば同じトライバーとのことで会ったばかりであるが、ドライバーとの相性も安全運転も旅の楽しさの決め手になるために、何よりも私の車イス~車両の乗り降りするのを教えるととても真摯に受け止めてくれたことが、滞在中はカローラでお願いすることにした。先ほどホテルで車から降りる時に一番頼りになったのはドライバーであった。ワゴン車を・・・と頼んだが、果たしてこの国で希望するワゴン車が空港からホテルに来るまでの間で見当たらなかった事実も感じられた。乗り降りには大変だが、少々座席も狭いが、今、決心しなければ、慣れるしかない、このブルパーラさんの運転は安全運転だし、車イスの介助も彼に託そうと思い、同じ車両でOKを出した。
 ホテルの中に入るとボーイさんが持ってきた冷たいおしぼりとマンゴジュースがとても美味しかった。

コロンボのホテル: 
 ロビーはオリエンタル風であったが、部屋に通じる雰囲気は落ち着いた作りで、ブーゲンビリアやプルメリヤの花々や樹木が生い茂り南の国に来たのだと言う実感がようやく伝わってきた。
 室内に入ると静かな落ち着いた部屋で、まず、私が最低限、生活出来るかどうかボーイさんに案内されて見て回った。最初に気になったのはベットの高さであった。私の車イスからの高さから平行するとマットを一枚取り外してもらわないと一人で乗り降りが出来ないと思った。マットを取り外してほしいと依頼、マットを外したらベニヤ板になってしまい、その上にシーツを引いてもらった。これで17cmほど低くなり、ベットの硬さもよく、私はどこかに掴まらないと寝返りがうてないので、身体を移動するにもこのほうがよかった。
 トイレの入り口はフラットだが、手すりもなく便器の高さが普通より低く、私の車イスは決して高くはなく、今までは高くて困ることはあったが低すぎるという経験は初めてだった。これらは千差万別で、ヘルプしてもらって何とかクリアすることになった。入浴は最初から諦めていた。一流と言うホテルでも室内では旧式なところが目立った。 コロンボ市内で出来るだけバリアフリーなホテルをと注文を出したが、コロンボだけではなくスリランカで、特に車イス用にと作られたホテルはどこにもないとガイドに言われた。どこのホテルもドア幅は広かったし、トイレと室内の間のドアもフラットで問題はなかったが、手すりがなかったのでタオル掛けに?摑まって何とか使用出来た。急な勾配であれスロープさえあれば何とかクリア出来た。車イス用トイレはホテル内だけではなく、街中も空港内にもなかった。

象と寺院: 
 下層階級が日本より多く生活の幅があるということ、とても印象的だったのは殆どが熱心な仏教徒が人口の3/2、約70%で、色彩豊かな寺院や尼僧の人々が何より尊敬されていっぱいである。黄色い日本で言う袈裟のような布をサリーのようにまとっている。町並みで時折、ガラスのケースに入ってにこやかな仏像が座っている姿をよく見かけた。周囲はゴチャゴチャしていても仏像の周辺は清潔にして有り、蓮の花びらをレイにして絶え間なく花の山々が出来てとてもきれいになっていた。有名な寺院は坂や階段があり、スサンタさんと幾つかの寺に回っていた。本当に見たいところは車イスでは行けないと言われた。どこの寺にも柔和な顔の仏像が座っている。 そして、周辺の塀には象の彫刻がいっぱいある。この国では象は神の使いとして誰からも大切にされている。ある象のいる寺院に車イスで降りた。その通りの回りには出店が出ていて、子どもや女の人が美しい蓮の花々を売って生活をしていた。つぼみのままの濃いピンク色の蓮の花である。

仏像の黄金の輝き:  058.gif058.gif
 入り口を入ると2段の段差があり、みんなに上げてもらった。私は車イスのままであるが、他の人は入り口に入る前から靴を脱いで裸足になり、歩いている人はみんな裸足である。円筒状になっている祭壇の中央には仏像が座っている。そして、僧侶の側にいくと黄色とオレンジの細い幾重にも重ねた糸を右腕にブレスレットのように付けてくれた。この糸が自然に切れる頃に良いことがあると言われた。レリーフの日本、中国、タイなどから寄進された仏像があり、国柄により顔の表情や姿、形が違うことがよく分かった。次に寺院の中に入る黄金の輝くばかりの巨大な仏像があった。多くの人が蓮の花を持って祈りに来ている。ここでは仏像にお尻を向けて写真を撮ってはいけないと言われた。明るい外に出ると小象が飼われていて、飼育係りが遊んであげたり洗ったり好物をあげていた。 市民が来てどこにでも蓮の花が手向けてあった。みんな静かにロウソクの炎の明かりとお線香の香りがあたりに漂っていた。
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大切にされる人: 
 この国で最も大切にされるのは僧侶である。スリランカの宗教別人口比は、3/2が仏教徒でその他、ヒンズゥー教徒はタミル人、イスラム教徒はムーア人やマレー人、キリスト教徒は西欧の混血であるバーガー人が中心、同じ南伝仏教の系列で東南アジア仏教でタイ、ミャンマーに続く高い比率だそうだ。
 僧侶はどこでもフリーパスのようだ。その典型的な例として、空港の中のこと、車イスで待機しているところが分からず、柱に車イスマークがあったので、その近くの座席に荷物を置いて待っていたら係員が来て、「ここは僧侶専用の座席です」と言われた。白いカバーのついた座席はいっぱいあっても、僧侶は一人しか座っていなかった。飛行機の乗り降りも僧侶が最優先である。国全体で大切にされている存在であった。

さまざまな乗り物:
 驚いたことはスリランカでは走っている自動車が日本の中古車の多いこと、それも小型車に至っては殆どカローラクラスで、2~3年経った車検切れで輸入された日本車に乗る事はスリランカではステータスのようである。車のパーツ屋さんが軒並み街の界隈で目立っていた。面白と思ったのは、日本で使っていた何々旅館とか会社の名称、商品名がそのままあったほうが、確かに日本から来たという証拠になり人気があるというガイドさんの話であった。
 日本からのバスも何々県福祉協会とか堂々と書いてあるのはドアがあったが、ドアがちゃんと付いている車両は良いほうで、日常の公共バスはボロボロな車両が多かった。日本だけではなくいろんな国の中古車のように思われた。バスに書いてある文字が韓国語、アラビア語、中国語などさまざまであった。
 ドアのないバス、電車、ステップのところまで今にも落ちそうにぶらさがって乗っている人をどこにでも見られた。また、庶民のタクシーとしてオートリクシヤー(スリーウィーラー)とも言うそうだが、オート三輪に後部座席と、屋根があり運転席の後ろ窓には何もない。いろんなカラーの車両や電話番号が書いてあり、お客は気軽に荷物ごと乗っている。大人の人で2人、無理すれば3人乗っている。大人の人で2人、無理すれば3人乗っている。客待ちしている車両もあり、このオートリクシヤーはインドで生産されているということで、スリランカだけではなく、東南アジアではいろんな国で走っているらしい。
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スリランカのおかし屋ぱれっと:

 コロンボ郊外へ自動車で2時間ほど行ったところにスリランカでのおかし屋パレットの工場があった。私は疲れて車の中で眠っていたので気がついたら、椰子の木がいっぱいある山の中に到着していた。ぱれっとの工場を探し回った。
ブルーの屋根の思ったより大きな広々とした平屋の工場はちょうど昼休み中であった。
 関千恵さんという元JICAで現在、ぱれっとのスタッフとして現地の女性スタッフの2名と働いていた。
現地の知的障害を持つ男女合わせて11人程働いていた。暖かいミルクティーとクッキーをご馳走になり、お菓子を作ったり詰めたりする作業を見学し、スリランカに訪れてこの場所ほどバリアフリーになっているところはなく、広々とした車イストイレもあり安心して利用できた。
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 スタッフの関さんから詳しい話を伺ったが、スリランカには創設者の谷口奈保子さんがおかし屋ぱれっとを設立し、スリランカに出来たのは今から5年前、いずれは現地の人々だけで運営が出来るように頑張っているとのことである。職場で働く障害者の1ケ月の給与は能力別であるが、平均すると日本円で2千円位、スリランカの平均月収が6~7千円位と聞いているので、この額は日本の同様な障害を持つ人からしても悪くない額だと思った。
 みんな真面目で熱心で、今でも知的障害の家族が「働かせて!」と訪れるという。バスに乗ったり歩いたりして2時間以上かけて熱心に通勤している。みんな働く喜びで顔が輝いて見えた。
 関さんは来年の2月までこのぱれっとでの勤務を終わり、一時、日本に帰り福祉専門大学に入る予定とのこと。最後にみんなで記念写真を撮った。
 スリランカの福祉向上のため種を捲いて芽が出たのだから、ぱれっとがこの地に根づくように現地での有能なスタッフが育ってほしいと願った。060.gif

by rakudazou | 2006-12-09 17:15 | 《エッセイ》中村陽子