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障碍を持つひとの楽しさを支援しています!


by rakudazou

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本当の善意 
 善意とは無報酬の好意である。幸せな時や楽しい時だけの善意は誰でも出来るが、人の苦境の時や弱い立場の時の善意はなかなかと出来ないものだと思う。
 最近、私には出来ることの限界を感じた出来事がある。
d0019913_22503581.jpgいつか訪れると感じていたが、親友の死を身近で感じて、昨年の冬頃から特に、合うときにその度に「これが最後かもしれない」と思っていた。
 縁あって栃木県真岡市に結婚して住むようになり34年余り、お互いに障碍を持つネコとポンタである。ネコにとっては馴染みのない土地で心細かったと思うが、芯の強い女性で懸命に努力して生活をしていた。周囲の人々には何かと興味の目で見られ地域に馴染む友人を作るもの大変だったと思うが歳月だけが去来した。
 主人のポンタと共に郊外の和泉園という施設で生活から始まり最初は施設の中での個室生活、まもなく、家族の支援で施設の敷地内に小さな部屋を増築し住み始めたが、檻の中にいる動物園みたいで周囲の羨望の眼差しが気になり、ネコには馴染めなかったと思う。
 そのうちに市の用意してくれた住宅に引越をしてようやくとマイペースな生活が出来るようになった。当時の近代的な市営住宅の中に、二人のために車イス用のバリアフリーの部屋を作ってくれた。真岡市内で今でも唯一の車イス住宅である。 しかし、彼等が生活出来ない環境になった場合には、それらの住宅も無くなるのではかと感じている。
 もう、本当に昔のことになってしまったが、生活を維持することは誰にでもいろんな我慢や諦めがあるものだが、適わぬ夢とは思いながらネコとポンタには機会があれば東京に「戻りたい」という気持ちがあったと思う。
2人とも歩行は出来なかったが、最初の頃のネコは立つ事が出来てキッチンで料理を作ったり、お茶を入れたり家庭の一切の切り盛りをしていた。近所の人々とも、施設の職員だった人々とも、彼らなりの友情を作っていった。
時には市内のデパートに買い物を出かけたりしてはいたが、きっと当時は仲間だった障碍者たちから孤立しているように感じていたと思う。特に身内と云っても、お互いに両親は既に無く2人とも末っ子同士であったので、遠方のためもあって、兄弟姉妹との交流も電話や手紙のやり取り程度であった。
私は年に1回程度は訪ねたり、状態のよい頃は泊まったりもしたが。2回程は、私と近くにいる共有の友人との連携協力で、車で向かいに行き、2人は東京に出て過ごした事がある。お互いに1人ずつ泊まるようにして2泊ほど滞在をしたが、みんな障碍を抱えた人たちなのでどちらも大変なことある。今、考えると2人取っても私たちに取っても一番よかった時のように思う。
しかし、私に出来ることはこの程度のことで、日々の生活の変化や困難は近隣に住む人々の善意や手助けにより長い年月を不自由ながらも過ごし、きっと苦しいことや孤独に耐えてながら歳を重ねていったと思う。
私もその頃、病を癒す結論として家庭から離れて新しい生活を選んでいた。当時の私は、自らの生活をすることで精一杯でしばらく、ネコとポンタの事は気になりながらも、唯、元気で過ごしている確認で安堵しながら、尋ねて行ける時間も余裕はなくなっていた。そんな日々が10年近く続く結果となった。

ある日、突然に・・・ 
 しかし、いつものネコのキッチンに立つ姿も車イスでいる姿も2度見られなくなってしまった。
ある時、何度か電話してもネコとの連絡が出来なくなってしまった。ポンタに尋ねても「本人は口を利いてくれない」と云うばかり、そして、ある日のこと、ネコが入院したことを知らされた。両足が瘍性皮膚炎で後少し手当てが遅かったら切断もする重症であった。
長い間の底冷えする冬の寒さや心労が重なりネコの立つ姿勢が無理過ぎたようだ。両足の皮膚に細菌が入り、象の足のように腫れ上がりってしまった。長年に渡り生活を共にしていたポンタは何も気付いてくれず、誰にも助けも求められずに痛みに耐えて口を利くのも辛かったのだろうと心が痛んだ。d0019913_22523229.jpg
緑が眩しい2003年6月6日、私は入院している真岡病院へ、本当に久しぶりの再会をした。顔には笑みを浮かべてベッドの上で元気そうであったが、足元はリシカで守られていた。あれから、その後、手紙のやり取りと再び尋ねた折に「何かすることない?」と尋ねるとハッキリした言葉で「恥ずかしいけど、もう、1度、家庭に戻りたい」と云った。直接の手伝いは出来ないが、福祉や介護関係の人々に手紙を書き、関係者に直接訪問してもらうように助言をするとネコなりにベットの上で努力を重ねて「同じ寝ているなら家庭に戻りたい」と云う願いが適えられて半年ほどすると、自宅での闘病と介護の日々が始まったのだ。
在宅で寝ていてもネコは知り尽くした我が家をアンテナのように巡らして、ヘルパーには毎日手紙を渡し細かに1日の事が書かれており手助けしてくれる人々に、ポンタの健康管理から食事の依頼まで生活をすべてを発信していた。
足を悪くしてから「お茶断ち」していて寝たきりで水分の補給や排便のこと、入浴のこと、自らを犠牲にして生きているように感じられていた。
 あれから5年余り過ぎた頃、私はネコに対して悔いが残らないように頻繁に訪ねたり、ほしいと云う物やネコに喜ばれそうな品物を宅急便で送ったりしていた。
そして、今年の2月に訪れて、春が来て夏の暑さが過ぎた頃に訪れようと思っていた矢先のこと、再び何度か電話しても誰も出なくなった。ふたりに何か起こったのかと心配していると、返信するように8月24日の夜にポンタからの電話があった。ネコが入院して腸閉塞で危篤だ!!と云う。

恐れていたことが・・・ 
 最近は会っても、電話でも「早くポックリと死にたいよ」とか「目をつぶってしまえば楽なのに」とか訴えていた。いずれ尿や排便のことで身体を壊すのではないか?と恐れていたことが現実になってしまった。
 入院をする前の晩に寝ているポンタを起して、「ラジオが聞こえない」と云ったそうだが、朝になったら電池を取り替えてあげるからと応えると「辛い・・・」とネコは呟いた、何故にこの時、ポンタは「どうしてとか、何か辛いことがあるの」とか聞くことが出来なかったかと悔いが残ってしまう。
普段から弱音をはく人ではなかったので、余程辛くなり云いたい事があったに違いないが、ネコが出しているシグナルをボンタは気づく事がなかった。
d0019913_2255143.jpgこの2人の日常は、介護ヘルパーが朝から夕方まで、昨年の冬かららポンタの寝る時の介護もあり、2人だけの話し合いは遅い時間でなければ出来なかった。
「明日行くから・・」伝えると、施設にいた頃の職員の付き添っている友人に詳しい様子を聞いてほしいと云う。付き添っているMさんに思い切って電話をしてみると、既に入院して1ケ月を過ぎていると云われた。「しつかりして!」とか「元気をだして!」が声をかけると周囲の云っている言葉は分かっているらしいが、頭を横に振りイヤイヤをすると聞かされた。そして、ネコが洗礼を受けてクリスチャンである事も聞いたが私は理解出来るような気持ちであった。
 1人で息を引き取るには余りにも可哀想なので、24時間、交代でも見守っているという話である。そのような友人のいる存在に心から感謝をした。

生きることに疲れたの・・・ 
 翌朝、私は緊急に友人に車を出してもらい、8月25日に出かけた。昨日から個室に移したというネコの顔色も白く口を半ば開けて苦しげに声を漏らしていた。 初めて見る友人たちの姿、ポンタのしおれた姿、看護士さんたちがベッドの周りを忙しそうに出たり入ったりしていた。
 ネコのベッドに近寄り、フトンの中にある手を握り締めるとよく使う指先にはカサカサした感触があり、熱があるのかとても暖かったがその手は動く気配はなかった。「ネコちゃん分かる」と声をかけると微かに目を開き「長い間苦労をしたよね。時期に楽になるからね。私も後から行くから待っていて・・・」私が言ったことは伝わったように思うが、直ぐに目を閉じて、何か苦しそうにじっと耐えて疲れている様子である。ネコのベッドの周りには、いろんな医寮器具が動いていて、幾つかのカテーテルとつながれていた。ふと過ぎったことは「これって延命措置?」とも感じられた。d0019913_22583942.jpg
 ずっと交代で付き添っている友人のMさん夫妻と女性の方、いずれも施設にいる時からの付き合いだそうだ。Mさんの話に寄ると一般の病室では付き添いが出来ないので、Mさんが保障人になり個室代は負担していると云う。
今まで付き合いから最後まで見守りたいと話し、Mさんの奥さんが云うには「亡くした子供の命日をずっと覚えていて志をしてくれる」とネコの人柄が伝わって来ると同時に、Mさんたちの真からの温かい好意を感じられた、ベッドの側にクマの縫いぐるみがあり、ネコのお姉さんが置いていったそうだ。
 そして、「もう、2度と合えない」と後ろ髪を引かれる思いで病室を後にした。
急なのに車を出してくれた友人に感謝しながら、いつ、連絡が来るかと思いながら、Mさんとのメールの交換が始まった。

連絡を取りながら・・ 
 もらった名刺にメールのアドレスが書かれていたので、メールで私達との関係とかネコの状態についてメールとで詳細を尋ねることが出来た。

8月27日、とりあえず、見守っていくつもりです。

8月29日、泰子さんの様子ですが、昨日はあまりかんばしくなく感じましたが、今日は、顔色も良く「痛い」「ありがとう」とかろうじて云いながら、聞き取ることが出来ました。
こちらの話すことはしっかり、理解できています。
血圧のほうもしっかりあって、オシッコの出る薬を看護婦さんが入れてくださり、
たくさん出ていましたよ。

9月3日、泰子さんの容態ですが、お医者様からの説明があったわけではありませんので、素人判断にしかありませんが、一般状態も安定し鼻からのチユーブも昨日に取られました。にもかかわらず声になってはお話が未だ出来ない状態です。
でも、目に力を感じます。顔色も悪いとは思えません。これから、どのような方向に向かうか心配なところです。

9月5日、先日、お話なさっていた「泰子さんのことだから、こういうときにはこうしてほしい。」とのものがあるのか、見てみたいと思います。今の危機は乗り切ったと思われますが、今後のことについて考えることが大切なときなのかも知れませんね。

9月12日、病状的には特別の変化はないように見えますが、お医者さんからのお話を伺っているわけではありませんので、よく分かりません。
変わったことといえば、個室から大部屋に移りました。
一昨日は、ちょっと、面白いお話をしたら笑顔を見せてくれました。夏に頂いたハイビスカスの花が今再びつぼみを持ち花開いてくれましたので、写真にとって持って行き見せてあげました。今日は、稲刈りの様子を写してもって行ったのですが、よく寝ていました。
相変わらず、言葉を発することも手を動かすことも出来ておりません。とにかく、
良く眠っています?
ケアマネさんとか近くに住んで中沢さん夫婦の日常を支えて来た方などと、
今後のことが気がかりでいろいろ相談したのですが、今はとにかく経過を見ていこうということになりました。
泰子さんに無断で私物を見るということに抵抗を感じつつも何か泰子さんにとってお手伝いできればと思い中沢さんの了解を得て見せていただきましたが、
日常の買い物とか訪問客のことが書かれているだけでした。
もっと、ていねいに見たらとも思うのですが、4人であちこち見た結果です。
改めて現代医学の残酷さを感じています。
中沢さんも家でじっとしていても落ち着かないと言ってタクシーとかヘルパーさんにお願いして、病院に通っています。かといっても話せるわけもないところで昨日などは廊下に一人でいました。これもまた、哀れに見えた次第です。

9月17日、だいぶ秋らしくなってきました。
おみなえし、萩、すすき、コスモスと秋の花々たちが競って咲いています。
そんななかで、稲刈りの風景があちこちで見かけられる今日この頃です。
泰子さんの様子はあいかわらずのままです。今朝行った時も寝ていましたが
声をかけたら目を開けてくれました。ちょっと話をしたり写真を見せたりしたのですが、疲れたようでした。
私の母も今アルツハイマーで施設に入っていますが、言葉のやり取りが出来ないということは何とも切ないです。
私も泰子さんが一日でも早く言葉を発することを望んでいますが、一方で
すべてから開放してあげられたらと思ったりもします。


天国に召されて 
 9月27日、夜にポンタから「午後、1時30分に亡くなった」との電話が入った。病院から連絡があり臨終には立ち会えた様子である。最終的な原因は多臓器不全であった。
d0019913_22565066.jpg

「ヨッチン、やっと楽になれたよぉ」と云うネコの声が聞こえそうである。74年間の人生「よく頑張ったね」とても悲しいことだが本当に心身共に楽になれてよかったと思う。「お疲れさま」云いたい。 秋雨の降る冷たい日に静かに神の仔として天国に召されて行った。
幾度となく「おくりびと」となり、誰もいずれは「おくられびと」になるのだから「待っていてね」と云いたい。
 あのベッドの上のテーブルに身の回りの品、書類や手紙の入っている物陰からネコの笑っている顔が見えて来る。もう、自由の身になったよ。
 ずっと見守ったくれたMさんをはじめとする友人の方々に感謝。
by rakudazou | 2008-09-29 22:59 | 《エッセイ》中村陽子