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by rakudazou

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あれから25年    

Stanislav Bnin  d0019913_17232222.jpg
 スタニスラフ・ブーニンは1985年第11回・ワルシャワで開かれたショパンコンクールで優勝した19歳のロシアの青年のニュースを思い出とダブらせていた。1958年、15歳の夢見る年頃、第1回チャイコスキー国際コンクールで優勝したニュースをアメリカのヴァンクライバーンの23歳の勇姿を見た時のことを・・・チャイコフスキーとショパンのピアノコンチエルトの旋律が1985年のブーニンと1958年のクライバーンとの姿が重なって見えた。d0019913_17303027.jpg
 私はブーニンを思うと脳裡には「絶望のどん底」の渕にあった。1986年6月、私が乳がんの術後でベッドに釘付けになっていた日々を乗り越えられた気力は若きブーニンの演奏するショパンのピアノコンチェルトを聴いていると悲しい心の傷を癒していた。あのブーニンの奏でる心を揺り動かす力がなければ立ち上がることが出来なかったと思う。ショパンの憂いのある優しい調べは心揺さぶる旋律は、萎えていた私の心に勇気を与えてくれた。
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ポーランドへの旅   
 その時から6年後、車イス障碍者のヨーロッパ会議が真冬のポーランド・クラクフという京都のような古都のホテルで1週間開催された。私はエージエントの齋藤氏と参加した。ウィーンからワルシャワ経由の長い旅であった。主に東ヨーロッパの人々が参加して、ウクライナ、スロバキア、チェコ、ガリー、ベラルーシ、ブルガリア、ポーランド、ルーマニア、ロシア等のいろんな障碍者、及び関係者が集まり新たの世界を見た思いがした。ワルシャワに立ち寄った時も、会議の合間のクラクフの町の観光でも、ショパンの故郷であり、アルトゥール・ルービンシュタインの住んでいた家もあった。ブーニンがショパン国際コンクールで優勝して、当時の日本ではブーニン氏のファンが多かった。
d0019913_1735398.jpgその後のブーニン氏は1988年に母親と共にドイツに亡命、日本人翻訳家の女性と結婚して、18歳になる子息もピアニストになり、自宅は世田谷にあるが、ドイツと半々の生活をしているという。こんなにブーニン氏が日本に馴染んでいるとは知らなかった。日本がとても好きだと云うが、日本ほど自由な国はなく、特に都内ほど興味のある贅沢でたのしい場所は他にはないと思う。
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音楽の都
私の身体のほころびは2005年頃から感じていた。同じ年に旅行のパートナーとして育った女性と音楽の都に旅行をしたが、スケジュールとしては一部オプショナルは一般の旅行者用で、歩行不可能な私には無理な所もあった。特にフランクフルトから2階建てのバスに乗る時に座席は2階だけで、上と下で持ち上げてもらい荷物みたいで大変な思いをした。学生王子で知られているハイデルベルクの散策、ロマンチック街道の終点にあるノイシュヴァンシュタイン城行きは車イスでは無理なので美しい村で有意義な時間を過ごすことが出来た。ローレライの歌で知られているライン下りも楽しんだ。ローテンブルクは、クリスマスミュージアムがあり一年中クリスマス気分が味わえる町として知られている。おとぎの国のような可愛い店がいっぱい有り、あらゆるクリスマス用品が溢れて、本物のクリスマスをローテンブルクで味わってみたいと思った。
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アウトバーンで高速道路の楽しみを体験し、ミュンヘンでようやくと活気のある町並みや主な観光地をハンディキャブで楽しんだ。市内に日本人の難病を患うナオミさんに会いに行った。家族は既に日本に帰っているのに、日本には馴染めない難病に悲しみを感じた。お別れにミュンヘンの写真集を贈られて大切にしている。
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d0019913_17424799.jpgミュンヘンからウィーンまで列車に乗った。景色の流れが国が変わる度に変わり行く風景に旅をしている実感がした。音楽の都、ウィーンでもハンディキャブで走り周ってシュテファン大聖堂の塔に登り市内を一望出来た。大祭壇の中はバロック様式で、正面には大きな祭壇画が置かれ、その背後には高いステンドグラスの美しい窓があり歴史の深さに身が震えた。ウィーン楽友協会ホールの近くのホテルに宿泊して、のんびりとウィーンの町の賑わいもコンサートも車イスで出かけられて、本来の私の旅行の目的は達成されて、これが最後のヨーロッパ旅行になるだろうと感じた。しかし、石畳の道路は本当に車イスでは動きが悪くて乗り心地も身体によくないと感じられた。同行のパートナーはイギリス人の婚約者がいて、夜になると国際電話で長話、いつ、本人が現れるのだろうか?と思って旅の間過ごしたが、現在は結婚して子供も生まれて幸せにバーミンガムで日本食のレストランを経営している。
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これからの時間 
乳がんの思い出から25年の月日が流れて、今、私は3度目の人生を生きている。生きているというか「生かされている」という事実がある。余生の日々を感謝して過ごしている。
その後、私の人生の身体の衰え、ほころびは今の現在に至り、排便排尿も人口的になってしまったが、痛みが有るということは生きている証拠とも医者に言われてきたが、身体の痛みだけはなかなかと人には伝えることが出来ないがそれだけに「痛み」に耐えることは難しいことである。d0019913_17524638.jpg
健康的に生活する事を考えて 私の希望する電動車イスを認定に出しているが果たして使えるようになるのだろうか?私のこれからの生き方が変わるかもしれない。私の第2の愛車の生活は果たして叶うのであろうか。待っていると自動車の運転と重なって、家の中であちこちとぶつかりながら愛猫を引いてしまう夢を見ては怖いような気持ちである。
 
by rakudazou | 2010-09-27 17:53 | 《エッセイ》中村陽子

あれから25年

by rakudazou | 2010-09-21 20:52 | リンク

こんなに大きくなって・・・ 
 d0019913_215434.gif尋ねて来る人々それぞれにハナ太郎の姿を見て「まあ、大きく大人になって」と言われていますが、ハナ太郎は10月の秋に生まれて。冬、春、夏と1年の四季を乗り越えてきましたが、
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まもなく生まれて1歳になります。d0019913_217164.gifこの頃は悪戯も大規模になり、体重も背丈も驚くほどに大きくなって私が何かに没頭していると、ハナ太郎は「ねぇねぇ こっちを見て」と立ち上がり手で私の胸元を叩き見上げている。「なぁーに、どうしたの?」と話しかけるとその時の様々な仕草で、d0019913_2182196.gif何を求めているのか、あうんの行動で理解が出来るようらなった。d0019913_2110984.gifご飯がなくなった時が多いが遊んでほしい時も有ります。行動範囲も広く、既に部屋中が遊び場で、特にお気に入りの場所で冷蔵庫の上とロッカーの上は「邪魔だと!!」と落とすばかりなので何も置く事を諦めた。何時間も身体の伸ばし、上から下の状況を眺めている。飛び上がる時のジャンプ力も凄くアッという間の動作である。男の子と女の子も違いもあるのだろうが、d0019913_21261544.gifとにかく、性格もハナコとは違いよく上の物を落とすし、困った事に車イスに何度も轢かれてその度に「ギャー」と叫び、今のところ、シッポの先が被害にあっているが、ハナコは幼い時に1度だけ轢かれたことがあるが、それがトラウマになり決して轢かれる事はなかった。ハナ太郎はまだ、本当に怖いとか痛い覚えがないのかもしれなく、何度も轢かれていて、暗くなって帰って来た時には、「轢くよ轢くよ」と叫んで入り、日常でも行こうとする場所に長く長くとお腹を見せて寝転んでしまい、「危ない!危ない」と云いながら車イスを進めると仕方が無く退くのである。先の話であるが、私が電動車イスで室内も生活するようになったら、うっかりするとハナ太郎は手もとや足などを引かれて、障碍ネコになったら「どうしようか?」とある時、車イスのメーカーさんに尋ねたら「本当に痛い思いをしたら本能的に近くずきませんよ」と言われているが果たしてどうなるのか?d0019913_2132752.gif
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 8月に薬剤性肝障害の疑いで20日間ほど入院をして、ハナ太郎はお留守番をしなければならなった。いつものようにチワワのチョビ君のお母さんにハナ太郎の世話を頼んだが、今回、しみじみと感じたことは、ハナ太郎は留守番だと思うと人によい子でいたいとお世辞を使っているとも思われるほど「お腹すいた?」というと沢山食べてご飯をねだるように食欲がよかった様子である。私との生活が始まるとハナ太郎はマイペースの食欲になった。
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ハナ太郎の雄叫び・・・  
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d0019913_2135580.gifハナ太郎はいつの時も私の目の届く場所に居る。「ハナ太郎ォお出いで」と呼ぶと必ず何処に居てもシャンシャンと鈴の音がして姿を現す。気が向くと膝の上に飛び乗りゴロゴロ、そして、肩の上で身体の重荷をグーン感じて、その後は肩の上にd0019913_21233475.gif飛び乗り、肩いっぱいに寝そべり体重の重さが更に加わりぬくもりも感じて、しばらくは戯れて飽きると下に飛び降りたりもする。ベッドにいると私の手や腕をペロペロ舐めては寝転んでじゃれている。夢中になると両手両足で突っ張ったり甘噛みが本噛みになったり、爪は決して立てないが歯で夢中になってじゃれている時には噛まれると痛いのである。食事もカリカリご飯が中心で缶詰とかお刺身の味を知らない。お水は良く飲み、水道の水を出すと飛んで来る。私の食べている物は関心を示すが匂いを嗅ぐだけで食べようとはしない。それでいて食べ物の入った袋とか忘れて置いてあると中の物をみんな出してしまう。
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 それは朝方だったり夜だったり、ハナ太郎は突然に部屋中に「ウォーウォー」ト雄叫びを上げて乱暴に駆け回り、数回そのような動作をした時には、必ず、コロコロうんちをした時である。心やさしいハナ太郎は頭の上を撫でたり、顎の下を撫でてもらうために私がもっとも遣り易いような場所に来てニヤォと鳴く。玄関を開けると必ずと云って良いほどにお気に入りのミッキーマウスの毛布やおモチャをくわえて来ている。いつもハナ太郎は私のことを見守っているような気をしている。
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by rakudazou | 2010-09-07 21:24 | 《エッセイ》中村陽子
今年の夏は厳しかった。 
 今年の夏は暑い!!梅雨時は蒸し暑かったが、開けると毎日、毎日、35℃を越える猛暑、私は夏は暑くとも、冷房で家で過ごす限り周囲の人が感じるより身体的に胸椎までマヒをしているために殆ど汗はかかずによく父に「お前は猫と一緒で3日間しか暑いときがない」と言われていた。d0019913_22161926.gifd0019913_21235181.jpg
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d0019913_2220117.gifしかし、今年の夏は異常なほどに暑く、特に夕方になると身体中が汗がかいたようにベタベタと暑くかき出すと身体中が痒くてたまらなかった。d0019913_22213431.gif身体が乾かないと痒みが取れずに、暑さと痒みが続き7月の終わりに近くの皮膚科にかかったが痒み止めの薬を塗っても、直ぐにd0019913_22221036.gif痒みが出て内心「内臓からきている痒みかな?」と内科の受診を受け血液検査をしたのは8月2日である。4日の夕方近くに訪問ドクターの窓口である看護師さんから電話があった。
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「検査の結果、薬剤性肝障害の疑いがあり、明日11時までに入院するように」と突然に言われて、あたふたといつも世話になっているKさんに手伝ってもらって準備をした。d0019913_22245269.gif翌朝も結局手伝ってもらい病院まで付いて来てもらい大変に助かった。
地域密着型の病院として今年の5月に新しくオープンした大田病院に8月5日から入院生活になった。今まで飲んでいた薬をすべて辞めて病院から処方された薬だけを飲むようになった。薬の悪循環で肝臓の数値が高くなったと担当医師と薬剤師の先生の説明であったが、相変わらず全身が痒くて病室も暑かった。そして、お腹の張りと周りのジリジリと痛みが寝ていても現れて、ベッドの上での盲腸ポートからのグリセリン浣腸による排便は苦しく、入院するとすべての自由が奪われてとても辛かった。d0019913_21254033.jpgd0019913_22253286.gif入院中の3日目に胆嚢が炎症を起こし、10日間は絶食して点滴療法になったが、初めての食事も相変わらず食欲もなく、肝臓の数値もよかったり悪かったりの見守りの時期に入り、よくなったという実感もないままに医師から退院の許可が出て8月24日、20日ぶりに退院か出来た。この度も私の友だち、近辺の知り合いにとてもお世話になってしまった。d0019913_22261665.gif
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肝臓も疲れて・・・  d0019913_2229383.gif
 何よりも帰れて嬉しかったのはハナ太郎との生活が始まり私なりの日常生活が始まりホッとした。翌日、午前中にヘルパーの加藤さんの入浴サービスがり3週間ぶりに身体中をきれいにしてもらい痒い場所も薬を塗ってもらって気持がよかった。
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 入院してからこれまでに薬は最小限に減らし肝臓の負担を無くし、肝臓の疲れが治るまでは身体の節々が痛くとも暫くは痛み止めなどは飲めずに我慢しなければならない。痛みの根源は加齢、ストレス、偏食など腸内環境の悪化が関わり、特に私の障碍の後遺症のひとつに身体の緊張から常に起こる痙攣が影響しているのではないか?と思うようになった。 痙攣性便秘で常に何かの刺激で痙攣を起きるとお腹の張りが更に苦しくなり
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d0019913_22304442.gif内臓の動き全体も悪くなり腸の動きもねじれてしまいそうである。今の状態は更に最悪で痙攣に伴う動きなど痛みに対して薬での緩和が出来ないために、痙攣による悪循環となっている。しかし、肝臓の数値が安定するまでは痛み止めの薬も使えない。
d0019913_22312742.gif 再生のための努力はまずは食べる物が美味しくならないが、腸内環境を整えるために善玉菌と悪玉菌のバランスを取るために身体の改善を必要としている。出来るだけ精神をリラックスして、身体の姿勢も楽にしてこの危険な時期を乗り越えなければならない。
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by rakudazou | 2010-09-05 20:48 | 《エッセイ》中村陽子