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by rakudazou

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想定不能な大地震!!   
 2月18日、ニュージーランド・クライストチャーチで大地震がありあの教会が崩れその側のビルが無残に倒壊して、日本人留学生の多くが亡くなって記憶にしてはつい最近のことである。「大きな地震が来る、来る!!」と何度となく噂されて、内心「いつかは来るかも・・・」とか30数年前から宮城沖地震の予告、阪神淡路大震災は記憶に深く残っている。日頃から東京に大地震が起きたら大変なことになるだろうと思っていた。
 
 2011年3月11日、この日は金曜日で朝から天候はよく社会の動きが激しかった。辞任した前原元外相のあと、菅首相も資金管理団体が在日韓国人系金融機関の元理事から献金を受けていた報道を国会で認めているニュースが流れていた。午後から、お腹が痛く珍しくベッドに横になっているとハナ太郎も並んでお腹を見せて寝転がりハナ太郎のぬくもりを感じながらテレビを見ていた。石原慎太郎が都議会終了後の挨拶で「今の日本は憂いている・・・」と都知事とて4選出馬表明を中継で眺めていた。それから10分も経たないうちに、地震だと思い、午後2時46分頃に地震が発生した。d0019913_14434999.jpg
強いなぁと感じて、そのうち、建物がぐらっと左右に揺れだし、ああ・・大地震だ、このまま下敷きで死ぬ!!と感じた。暴れるハナ太朗の首輪をしつかりと握り寝たままの姿勢でじっとしていた。テレビも消えて停電した。周囲の物が落ちて大きく揺れている間はとても恐怖であった。少し落着いてから起きると直ぐに母に携帯をしたが断絶マーク、固定電話に変えると通じて母はそのとき座り込んで仏壇の中の物が飛び出してしまつたと驚いていた。弟とも連絡とれたが、その後、固定電話も話中になり通じなくなってしまった。停電は一時的であったが、翌朝までは近くも固定電話は通じるようになった。ずっと揺れているように感じて余震が続き、揺れる度に車イスのブレーキを掛けて辺りに掴まって身構えていた。
 東北地方太平洋沖地震の最初であった。刻々と写し出される地震の迫るは3Dを見るより凄い地獄絵だ。遥かに沿岸から高い堤防を越えた大津波が押し寄せるスローモーションを見ているように家々も船も自動車も田畑も次から次とみんな一瞬で飲み込んでいる。経験したこともない自然災害のエネルギーがすべての物を破滅していくありさまに震えがとまらない。M8.8の発表から12日に変わり、M9.0であると変更になった。直後から、すべてが地震の番組に切り変わった。こんな大きな規模の地震と津波は誰でも初めてのことである。
その夜、9時過ぎに「大丈夫でしたか?」とヘルパー派遣会社の責任者が訪問して来た。傘下の独り暮らしの人々の安全を確認しているそうだ。その後、妹から電話があり、みな元気との話である。時間が経っても夜昼となく余震があり、それ以来、身体がいつも揺れて本当に地震で揺れていることもある。不安材料は次々と起こり、福島第一原発の相次いでの爆発による深刻さと放射能の怖さ、そして、毎日繰り返す計画停電という不安と自らのお腹の痛みも続いている。何かしてあげたくても何も出来ないこと被害に遭われた方々の事を思うと涙が出てくる。未だに亡くなった人々が毎日大きな数字で変化している。想定外の大きな地震と津波の足跡は今だ悲しみ日々が続いている。
 1週間が過ぎたが、まだ、全貌の解明にはならず暫くはかかるのであろう。助かった人が何もかも無くなってしまったが「生きているだけでよい」と云っていたが、ニュージーランド地震でも建物の下敷きに合い、片足を切断しなければならないと云われて「生きているだけでよい」とインタビューに答えていた19歳の青年の言葉と同じで「生きること」の素晴らしさを心から感じた。みんな元気をだそう!! 合掌。
by rakudazou | 2011-03-18 20:20 | 《エッセイ》中村陽子

身近な物への大切さ

経済総合 - エキサイトニュース

 すこしばかりか、誰でも当たり前と思っていたこと、忘れかけていたことが、東北関東大地震を体験して、人の温かさ、身近な物の大切さを実感することになった。暖かいお布団で寝られること、お水や温かいお茶を飲めること、陽射しの明るさ、室内の明るさと暖かさの素晴らしいことです。食べたい時に食べ物が美味しく食べられて、寝たい時に寝られる、行きたいときにときにトイレやお風呂に入れる、当たり前の普通のことが出来るなんてとても幸せなことなのです。
 今回、大地震にあいました、岩手、宮城、福島、茨城、その他関連地域の皆さん、多くの亡くなられた方々、避難されて寒い思いをして不便な生活を続けておられる方々、心からお見舞い申し上げます。
 被害にあいました皆さんのことを思って、少しでも節電に心がけて、何かの形で1人でも多くの人が応援をいたしましよう。
by rakudazou | 2011-03-17 20:38 | 《エッセイ》中村陽子
3月11日に発生した東北地方を中心に発生した地震において、犠牲者の方々のご冥福をお祈りすると共に、被災者の方々に、心からお見舞い申し上げます。  
 
 偶然にベッドに寝ていたときに地震が起きた。身体に突き出るような地震に天井も建物も大きく左右に揺れだした。このまますべてが倒れて下敷きになると感じた。5分という時間がとても長かった。凄く怖かった。
 助かった!!と起きて車イスに何とか乗った。身体がまだ、揺れている。あの大揺れの地震のときに車イスに乗っていたならもしかしたら、車イスのまま下に落ちていたかもしれないと思った。しかし、以前から、もし、地震が来ても車イスで逃げても周囲の避難の妨げになるから、そのまま死んだとしても家の中に居ようと思っていたので、逃げ出そうとは思わなかった。何故か涙が出て来た。
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by rakudazou | 2011-03-15 21:19 | 《エッセイ》中村陽子
d0019913_22463185.jpg何かを残せる生き方   
 年明けて初めての2月の寒い日に待ち合わせをしました。約束の時間になり辺りを見渡すと2人で仲良く並んで待っていました。このように東京厚生年金病院、泌尿器科外来で待ち合わせするのもこの日が最後となりました。長年に渡りお世話になっていた溝口研一先生が2月いっぱいで退職されて、4月から目黒で開院することになりました。
 時の流れというのは常に変化するものですが、2月10日木曜日、外来で最後まで待っていると、溝口先生との話が終って、感動の思いで西尾夫妻と先生がドアから出て来ました。「そうだ、写真を撮ろう!!」とカメラを向けると、奥さんの久子さんは「私はいいのよ」と下がって前に西尾さんの乗る車イスの高さに先生が並んでくれました。「撮りますよ」と3回カメラのシャッターを切りました。今度いつ会えるか判らないと思い、待っている間にも西尾夫妻の写真も数枚撮りました。西尾さんは元気な頃はとてもカメラ好きでしたが、身体を壊して最後的に半身マヒになってからは無反応になってしまいました。昨年の頃からは奥さんの懸命な努力と丹精な介護により表情も豊かになり驚いています。しかし、本来の西尾さんらしさは失われていますがもっとよくなるかもしれないという明るい希望が持てるようになりました。
 帰宅してから、パソコンに収めて写真を拡大して見ると溝口先生の傍らで「一緒に写真を撮るのだ」という西尾さんの意志や表情がハッキリと伝わってきてとてもうれしくなりました。夫妻で撮ったときと先生と撮ったときの西尾さんの顔を見比べると先生と共に撮った西尾さんの表情には確かな目力が感じられて自己主張していることがよく現われています。
 私も入院中も外来でカテーテル交換のときも忙しくしている先生の姿しか残ってなくて、溝口先生の顔を今までしつかり見たことがなかったことに気づきました。写真を見て静止した先生を眺めるとこんなに心やさしい顔をしていることに初めて気ずきました。

いずれの縁も  
 もう、遠い日々のことですが、20代初めのころ、全国から障碍を持つ人々が集まる施設で生活し、それぞれ地域性の豊かさを感じてはいろんな人間性を学びました。昭和40年代の頃はみんな生き生きと目的を持って生きていました。そんな頃に颯爽と自動車を運転している西尾陽二さんの明るい自信に溢れる姿でした。新宿区馬場下に住み印刷業を営んでいる大先輩であることも知りました。この頃、何度となく訪れてはい合わせると車の窓から西尾さんに熱々の「やきいも」をもらったことをよく覚えています。
 それから数年後、当時、西早稲田に住んでいた私は車イスで文化的な生活をしたいと戸山に移りました。1階のフロアーの多くの障碍を持つ人たちであることに驚きました。偶然であっても人の縁を感じたことは隣人が西尾さん家族であったことです。一人娘の雅子さんが誕生したときには夫妻にとっては最高の時期であったと思います。馬場下の仕事場にお祝いに出かけて会って以来、引越して来た頃の雅子さんは幼稚園に通うとても利発で可愛い女の子に成長していました。
 誰にでも常に変わらぬ態度で接する夫妻で、西尾さんは外見では誰にでも人助けをしてしまうサービス満点の人で奥さんにだけはいつもワンマンを発揮していました。「夫の代弁」として常に尊敬の念で接している今時には見られない「良妻賢母」の手本のような人です。よき妻、母、そして、仕事の片腕として、何役もこなして頑張り続けましが娘の雅子さんに「お母さんが倒れたらどうするの?」と言われているそうです。d0019913_22483329.jpg
馬場下の仕事場があった頃に、まだ、お互いに障碍はあっても元気な気分で運転をしていた頃です。夜の時間帯は自由に使えて夜更かしが自由に出来る西尾さんと私は、ときには長電話をしてたわいの無いことを話したものでした。「いつまでこうして独りで過せるのかなぁ」とふとつぶやいていました。「どうして、奥さんに車の運転をさせないの?」と尋ねると「ひとつぐらいは威張れるものがないと・・・」と威張ることを主帳していました。身体の不調和音は感じられていたはずですがいずれも身体の心配事は話題にはせずに、その頃は、時々、東京厚生年金病院・泌尿器科の外来で偶然に出会っては元気であることを喜んでいろんなおしゃべりをしたものです。今、思えばもっといろんなことを聞いておけばよかったと思っています。
隣人で住んでいた頃は、障碍者の親睦ドライヴとして家族旅行を数年は箱根強羅によく出かけたものです。そんな時期から、みんな自信がついて余暇として家族旅行やふるさとを目指して出かけるようになりました。

リスクの高い生き方.  
 最初の結果を残すことは大変な努力と忍耐が必要ですが、後に続く立場の人は容易く実現し今では風化されている事実が沢山あります。何もかも頑張りすぎた結果が今日ある?と思うと身体というものは鋭く反応するものだと自らのことを含めて考えても身体が悲鳴をあげていたのです。結果としてリスクの高い生き方をしてしまったということです。また、西尾さんのこれまでの生き方は、そのまま重度障碍者の社会参加への見本となるべき存在であると思っています。機能改善の手術後、本人が記していますが、身体障碍者に運転免許取得が法令化されて、昭和35年以後、早い時期に8番目の運転免許を取得、自動車を運転することにより、生活のすべての基盤を築きました。奥さんの久子さんとは文通による出会いであるということは2人から聞いています。音楽の調べのように美しい文章が目に見えるようです。すべての意味で西尾さんほどによき伴侶に恵まれた人はありません。
 西尾さん夫妻は共に共通する人々の陰日なたとなり、上京する障碍者の先輩や後輩の多くの人々を機会ある毎に一夜の宿として快く提供したり、思い出のある人も多いと思います。
長年の仕事の内容や運転中などの簡単にトイレに行けない不自由な環境の中で結果的に悲鳴が現実となり腎臓摘出、そして、直腸も悪化させてしまい人工肛門になってしまいました。此処までは障碍からの影響とは思われますが、それだけではなく60代の後半を迎えてから脳梗塞で倒れてしまいました。医師からの説明で「話すことも運転もできません」と宣告されたそうです。「こんなに一生懸命に生きていたのに・・・」と手足をもぎ取られるようなどんなにかつらくて落胆したことでしよう。
 西尾さんが倒れて落着いた頃、入院中の西尾さんに再び会う機会がありました。受診の折に尋ねてソッと声を掛けても答えはありませんでした。奥さんが面会に来ているときに声を掛けてみましたが、無表情で目も虚ろでした。奥さんがいろいろと話しかけたり、食事を口に運びお茶を飲む、洗面をしても感情は示さなくて、人に合う事もTVも見ようともしなくて、奥さんの問いかけには判っているのでしょうけど、喜怒哀楽は自ら閉じてしてしまっている気持ちもよく理解出来るように感じました。奥さんはいつのときも諦めないで明るく熱心にその献身的な介護は周囲の医師や看護師さんたちにも驚いて関心をしていました。入院中はまだ、軽減されています。在宅での24時間介護の生活は間にヘルパーや訪問ドクター、看護を入れても奥さんの身体的精神的な負担は大きく、長期の介護には生き抜きもしないと続きません。西尾さん自身にとっては歓迎することではないと思いますが、週に2回のディサービスと事情で必要なときにはショートスティに入るときもあります。
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こんな折に娘の雅子さんが結婚をして藤沢に住むようになって初孫の空ちゃんも誕生しました。
2人にとり何よりの明るい喜びだと希望だと思います。ディサービスで凄いなぁと思うことがあります。毎日、水分を多く取ってくれないで困っていますが、ディでのとき、若い女性の職員さんに「お水をのみましょうね」と云わると、普段より倍もお水を飲んでくれると奥さんが苦笑していました。ディの6時間の間に「娘と孫に会いたい」一心で滞在に2時間、藤沢まで往復4時間で会って戻ってくる、出迎えなければならず遅刻は出来ないと話しています。こんな行動も今の奥さんには精神的ストレス解消法かもしれません。
 最近の西尾さんはピンク色で顔色もとてもよくて、たまにしか会わない人にでさえも西尾さんの表情の変化には驚いています。奥さんにこの話をすると「言語の回路が少なくなったのかも・・・」と云いました。血管が切れる場合、右脳であると言語、左脳であると感情の起伏が激しいと云われるそうです。
 見たいTVも選んで見るようになり、嫌だとか、危ないとか、話しているように思えますが、西尾さんは奥さんのことも「おとうさん」孫のことも「おとうさん」娘のことも「おとうさん」云うときと「雅子」と呼ぶそうです。あれだけ雅子、雅子と溺愛していた雅子さんの名前は言葉になるようです。医師に相談すると西尾さん自身はみんなそれぞれの名を呼んでいるつもりで「だから返事をしてあげてください」と云われたそうです。そう云えば、奥さんは今でも昔でも常にお父さんと呼んでいますので、きっとその「おとうさん」という単語が強く心に残っているようてす。自らが本当の「お父さん」であることが判るようになると思います。確かに少しずつ良くなっているように感じています。生命力を感じるというか、奥さんの思い遣る気持ちと並々ならぬ努力であると思います。これまでの30数年間の西尾さんの日記帳が西尾さんの意志で世に出るように祈ります。明るい見通しが見えることは本当にありがたく、日々過せることに感謝したいと思います。
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by rakudazou | 2011-03-07 23:00 | 《エッセイ》中村陽子