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by rakudazou

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幼馴染の友が逝き、虚ろな想いが募るばかり・・・ 
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 生涯の伴侶を絵に描いたようないつも仲むつましい大河原隆、清子夫妻は充実した日々を送っているものと思っていた。近年、「どうしているのか・・・」と夏の訪れと共に7月29日になると清子ちゃんの誕生日であることは昔から忘れることはなかった。「元気にしているのだろうか?」と、この3年ぐらいは電話をしてもご主人とは話し清子ちゃんとは話す機会がなかった。d0019913_215228.jpg
しかし、私の身体も自分で想像する以上に、身体を無理したせいか、いろんな身体の衰えを感じるようになりいろいろと治療方法試みてみたが、体幹から訪れる腸管障害の痛みは取れず更に両肩の腱板炸裂、頼りの腕まで力が無くなり医師の警告もあり、今後の生活を準備し覚悟はしていたが、この2~3年でアッという間に身体の悪化と共に電動車いす生活の日常の介護生活になってしまった。d0019913_2165046.jpg
そんな現実のさ中で、ふと想うことは子供の頃から同じ障碍を持つ深いつながりのある、清子ちゃんは大丈夫なのだろうか?と誰かに肩を押されるような気持ちで、9月に入り思い切って留守電だったのでメッセージを入れた。翌日の夜に大河原さんからの電話が有り、思ってもない「清子ちゃんが危ない状態がつづいている」と聞いて一瞬絶句して涙がとまらなかった。d0019913_2362778.jpg
彼女の最近の変化と云えば、身体も話し方なども緩慢になってきたように思って医師に診てもらった時に、軽い脳梗塞を起こした跡があると云われたそうだ。5月の頃も2人でドライヴを楽しんだり、普段より「外出をしたい」とよく出かけて、特にほしい物がある訳でもなく、2人で仲良く見たり外食をしたり過ごしていたようである。倒れる前夜も外食をした後の食べたものが喉に閊えたらしく、少し落ち着いてから帰宅し睡眠導入剤を飲み休んだ。翌朝、1人で起きることが出来なく助けながらトイレに入ったがそのまま意識を無くしてしまったと云う。どんなにか大河原さんは驚かれたことでしょう。知ったその日から私は毎夜「清子ちゃんが1日でも早くよくなりますように」と私の心の中の神さまに祈り続けた。
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105日間の絆と葛藤の時間
 
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 誕生日を目前の7月24日の朝、急に呼吸困難になり助けを求めるように緊急搬送されて入院をした。d0019913_232469.jpg喉に切開してカテーテルを導入して呼吸が楽になるように、ICUで経過を見ることになったが、油断の許さない日々が続き、鼻からもカテーテルで栄養補給をした。しばらくすると呼吸が楽に出来ると切開してあるために大きな声や長い会話は呼吸の間が取れず短い受け応えだったが、状態の良好な時にはアイスリームを食べて「美味しい・・・」と云い「おじゃ」も食べたいと云ったり喜ばせたこともあったそうだ。しかし、入っているカテーテルが上手く息が出来なくなるととても苦しがり、空気が薄くなり意識ももうろうとして周囲を心配させた。こんな時に全神経を注ぎ「行きたいと」と、どれだけ頑張ったであろうか?d0019913_2295546.jpg毎日、1日も欠かさず付き添い励まし続ける最愛の夫の存在は清子ちゃんにとってはどけだけ大きな信頼と救いになったことであろうか?きっと清子ちゃんは「生きたい!」思ったのは唯、夫にすがる思いであったであろう。d0019913_234844.jpg
大河原さんにとっても長年連れ添った妻が苦しむ姿を毎日、見守り続ける現実を受け止めることとても辛かったと思う。手をさすり、身体の向きを換えたり、介助を毎日続けることにより少しでも楽に呼吸が出来るように些細なことも見逃さず見守り続けて1日も早く少しでも経過かよくなるように祈る気持ちであった。自動車で病院の面会時間の初めから終わりまで付き添い、夜、帰る時の「帰らないで・・・」と眼差しで訴える時が辛かったと云う。しかし、帰宅しても食事や清子ちゃんの洗濯物や忙しい日々が続き、心の余裕もなかったと思うが、しかし、大河原さんの声はいつも慎重にしつかりしていたことに関心をしてしまった。
呼吸がスムーズに良好な時には普段の清子ちゃんのように「服の組み合わせが変?
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」とか「髪が伸びている?」とか、やさしく夫の身の回りのことを気にしていたようである。常に傍にいる2人には「あ・うん」の境地で言葉を交わしていた。心臓が強く腕や手の力も強くて渾身の力を注いでベッドから起き上がり、きっと苦しかったと思う。d0019913_2424984.jpgそんな勢いのある時にはカテーテルを自分で抜いてしまったことも何度もあったそうだ。余りにも苦しい時には「逝きたい・・・」と叫ぶような仕草をしたり、苦しさの余り夫の顔を痛いほど叩いたり「俺をおいて逝く気か?」大河原さんが云うと「連れていく・・・」意識も混濁している時もあったようだ。
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先に逝けて幸せよ。
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 よき伴侶を選んでと云うよりは、生涯にわたり清子ちゃんにとっては大河原さんが唯一の頼れる男性だったと思う。いつもの良く動く豊かな表情で夫の話をする時にはいつも幸せそうだった。清子ちゃんの選択は「正しかった!!」と昔を思い出し、あなたは最高に幸せな人だと思っていますよ。d0019913_249396.jpg
ベッドの傍で清子ちゃんの些細な容態も見過ごさず、手をさすり、いろいろと2人に関することを語り続けては清子ちゃんの反応をずっと見守り、電話を通し、大河原さんは声音を落として「死んだら紅を付けて…と云うんだ!」と言葉を詰まらせて泣てしまった。
どのように励ましの言葉も刻々と変化する清子ちゃんの容態は油断が許されず、病院の面会時間いっぱい毎日と通い続けるのが日課となり、日々励まし苦しいところ痛いところさすり続けていました。私に出来ることは毎日「どうか、清子ちゃんが少しでも呼吸が楽になりよくなるに」と毎日祈るしか術がなかった。何とかよい治療方法、特に清子ちゃんの器官は細くて細いカテーテルしか入らず当然そのような医療器具も少なくて、懸命に手当をしてくれているが、入院から危篤な容態が続いて夜間でも呼び出されることが何度もあったそうだ。大河原さんの経過を聞きながら、最愛の夫の懸命な看病とせつない程の気持ちと不安の交差する中で「助かってほしい・・・」という心情が強く伝わって来て、本当に生まれた時から死ぬことは現実で「2人一緒に」にはこればかりは叶わないことよね。と私か話すと「あいつが先に逝ったほうがいいんだ」と1度だけ大河原さんが云った内には「清子ちゃんを寂しがらせないように」と云う愛情と先に逝く者より残された者ほうがどんなにか寂しくなるか?誰でも経験することである。
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その後も何回かの電話での様子を聞きながら、大河原さんは清子ちゃんの苦しみをそのまま自分の痛みとして受け止めて、車いすで献身的に看病し、その懸命な優しさがどんなにか清子ちゃんは救われたかと心から信じる。清子ちゃんのカテーテルを入れることが一番上手な医師が「これから、遅い夏休みを取るんだよ」と云ったことが気になった。それから何日もしない大河原さんからの知らせで「11月4日に亡くなった!」と聞いて、きっと愛しする夫に抱かれて、なにもかも楽になり微笑みながら天国に旅立ったに違いないと思った。予感よりずっと早い悲報を受けて・・・ 親友とか云う以前に私の生涯の中で、清子ちゃんの存在は常に私の生活にも心にも、私より若いのに、何故にこんなにも早くに亡くなってしまったのか?死因は呼吸不全だそうだ。一生分の[病い]を懸命に闘って・・・最愛の夫の隆さんに見守られながら逝ってしまったのか?悲しくて声を上げて泣いてしまった。今でも思い出すと涙が出てきて、年老いて友人に去られることは寂しいし、大河原さんのほうが何を見ても考えても悲しいはずなのに「化粧された顔は本当に綺麗いだった!!」と云われて清子ちゃんの鼻筋と通った面影が伝わって安らかな旅だった姿を見たような思いがし本当に楽になってよかったね。d0019913_2574036.jpg
いつでも「便りが無いのはよいこと」と元気でお互いに生きていればよい、そして、話したり会いたいと思った時には連絡を取れは良い、清子ちゃんと私はそれぞれと生き方も異なっていたので、誰に接する時も同じであるがあまり交渉した付き合いはしていなかった。でも、いつでも会えるという希望が事実これで経たれてしまって残念でならない。清子ちゃんはこれまで生きよう!と頑張っているのだから、愛情あふれる夫の看護で必ず一時的にでも家に帰れるものと信じていたが本当に残念で仕方がない。
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お別れの会
 生前の清子ちゃんの意志もあり、12月2日の冬晴れの日曜日、中野サンプラザホテルで昔からの友人同士の主催により「お別れの会」がひそやかに行われ、懐かしい人々との再会のひとときとなった。最初に感じられたことは、清子ちゃんの遺影を抱き挨拶をしている大河原さんは「とてもよい歳の取り方をしている」と思った。
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参加された一人一人が白いランの花をささげて清子ちゃんの冥福を心から祈った。こんな多くの友人たちに惜しまれて清子ちゃんの存在感は大きかったことを今さらながら感じられた。大河原夫妻をいつも優しく見守り続ける姉の島田夫妻、そして、印象にとても残ったのは子供の頃から仲良くしたりお世話になった生まれ育った地域の人々のとても悲しむ姿が印象的であった。みんなで昔は話をしながら、参加者の挨拶で余りにも久しぶりの再会の人々が多く、誰が誰だが思い出して会話も弾み、改めて元気で再開出来たことを感謝し、大河原さんがひとつひとつ思い出しながら清子ちゃんの病状の経緯を説明した。最後に姉の島田夫妻が参加された人々へのお礼の言葉と「清べぃを忘れないで、残された隆べぃを見守って下さい」と云う心のこもった挨拶をされて、清子ちゃんはこれらの人々の中で愛されて生きて、本当に幸せな人だったと感じられた。
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 私の知る限りでは清子ちゃんは大病もせずに、お互いに青春時代に私の入所していた当時の戸山の国立身体障害センターに現れた時の清子ちゃんの側には、私の見る目には若く美しかったお母さんが天国へ旅立ったお母さんの変りだと思うほどに、白馬に乗った王子さまと共にいる清子ちゃんは元気でとても幸せそうな姿が今でも心に残っている。その王子さまは言うまでもなく大河原隆さんとの最初の出会いであった。私の入所していた場所から遠くない市ヶ谷の障碍者の働きながら生活の場がある施設は都内でも最古のほうだと思う。此の頃はセンターの修了した人々も多く入所するようになり、何度となく出かけた。この2人の結婚はきっと大河原さんが大事な面はリードし清子ちゃんは頼れる善き人に出会い、交際の時も入れると45年間に月日は流れたそうだ。結婚して41年目、私から思うといろんな人生を2人で感じて生きて来られて、実質は41×41と倍にもなるとても幸せな清子ちゃんの67歳の生涯であったと思うのである。d0019913_310632.jpg
おわりに
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 昭和30年の初め頃、私は板橋区にある整肢療護園に入所し、最初の半年間は結核そのものが安静にしないと治らないと、殺風景な個室に叔母の付き添いでいたがとても退屈であった。その後、同じような子供たちが生活する病室に移動し、私のベッドの隣には、(旧姓)正岡清子ちゃんとの最初の出会いであった。ベッドが隣同士で24時間いつでも一緒であった。1人遊びに慣れていた私には初めての友達であった。ベッドとベッドの間が1mは離れている距離で2人にはそれ以上は近づけない遠い距離でもあった。
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3年近くもベッドを並んで生活したなんて今でも分からない。私より1歳年下の9歳で障碍も同じようで、不思議なことに他にもいろんな仲間がいたはずなのに清子ちゃんの存在だけしか思い出さないのである。私はおつとりした気質で少し抜けたお人よしだったが、彼女は慎重派でいつも眉間に8の字の皺を寄せてとても神経質でとても怖がりであった。いつも出来ない事が出来るような夢を話したり、清子ちゃんは美空ひばりが好きで、この時代に流行っていた「港町13番地」をよく歌っていた。
お互いに頭から上半身全体は、ギブスベッドの中に1日中寝かされて天井だけ見て、いつも胸の上に置いてある手鏡が無ければお互いの顔さえもよく見ることは出来なかった。食事の時には胸の上にお盆を乗せて、鏡では反対に見えても直ぐに角度を知り鏡に写るその時のメニューを今日に口元に運んでは食べた。食事以外はおやつの時間が楽しみであったが、家族からの食べ物の差し入れはみんなに上げられないといけませんと云う規則であったが、家族はそっと食べ物を置いていくと、夜になるとフトンをかぶってチョコレートやおせんべいを音がしないように口の中に入れて時間をかけて内緒で食べたものだ。不自由な生活が続き我慢強さを覚えたのかもしれない。この手鏡で窓の外の景色や病室のドアに出入る人々の姿、ドアの外の廊下の気配などを鏡に写して見ている毎日で退屈ながらも、知っている看護婦さんや医師が来ると会話をたのしみ、特に待っている家族が訪れるのを期待していたように思った。
清子ちゃんは母子家庭で家族には恵まれていなかったが、当時の靖国神社の裏手の九段の白いマンションに住んでいて清子ちゃんは近くに住んでいる元気な友達と共にお祭りや太鼓が大好きだった。お母さんはいつも着物姿であった。清子ちゃんとはよくケンカをしたがそれはいつも他愛もない口ケンカで、お互いに何か物を渡したりするのも内緒のことは紐と紐を通して渡したりよくしたものである。清子ちゃんのお母さんはいつも着物姿でとても美しい人で、清子ちゃんの目元、鼻筋、口元などはお母さんに良く似ていると思っていた。
清子ちゃんとはよくケンカをしたがそれはいつも他愛もない口ケンカで、お互いに何か物を渡したりするのも内緒のことは紐と紐を通してよく交換したものだ。
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 起きられるようになり清子ちゃんとは別の病室になったと思うが、私は車いすに乗れるようになり、その時点で別の病室になったのだと思うが、私はまるでロボットのような姿で歩行訓練をしたが、元々の結核がまだ、安定していないと云う理由で、親はもっとてリハビリを望んだが退院なってしまった。
その後も手紙を交換したり、時には、父の運転で遊びに行ったり、私の家に泊まりにきたり清子ちゃんのお母さんが迎えに来たりしたが、その間、10年近くの空白があった。
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新宿戸山の再会の時でお互いに大人になって青春時代であった。そして、時間がたちまちのうちに経過し、気になった時には清子ちゃんは大切な人を残して天国に旅立ってしまった。ナーバスな気持ちを何とか切り替えて、清子ちゃん、私もこれから遠くない時期に「送られ人」になるので、その時までさようなら。合掌。
by rakudazou | 2012-12-21 03:21 | 《エッセイ》中村陽子
日本の選挙の有り方
 この国では百十数年間の政治の中で総理大臣が95人も変わっていると云う現実の中で戦後、脈々と自由民主党の時代が続くことが、生活が良くなり維持出来るように御上の言うことでは無いが、政党に変化が無いことが平和な生活が出来るという観念が浸透し戦前戦後の年代の人々の持つ社会観念があったと思う。d0019913_3131064.jpg
 前回、民主党が大勝したのも民主党がよいと云うよりは、我慢強い非凡なる人情の熱い日本人は、何でもよいから自由民主党以外の政党に変えたいと多くの民意の考えから変えてみたが、寄合集めの万年野党は慣れていたが、党の意見の相違や官僚に使われるままの現実をよりさらけだし、3・11の震災と福島の原発に更に地盤の無さと官僚指導となってしまっている、多くの国民は不安だけが残った。
師走のせわしいさ中に突然の解散で、12月16日、10団体以上の急きょ出来た政党の中から、東京都では石原慎太郎の長男が総裁選挙で安倍信三に敗れたのが面白くなかったらしく、大阪の橋本徹市長と新党を立ち上げ、都知事選挙も重なってしまった。
 政党の変化を深く望まない、知り合いが右だと云えば右に習え、親兄弟の出身地が同郷からと、現実に生活の貧困の差別や今の社会を本当を変えたいと思う人は多く居ないのであろうか?と考えさせられる程に自らの考えより世間の付き合い、相互に個人の私利私力が優先?、夢戻し一時的な現象、結果は自由民主党が大勝をした。戦後2番目の最低投票率、若者の投票は40%だそうだ。瞑想した選挙では若者にはメリットはないと思って当然である。d0019913_3152847.jpg
 来年は参議院選挙がある。よく私は社会に文句があるなら選挙してから言いなさいと周囲の人々に伝えている。自らの地域の候補者の考えをよく知り、最も自らの考えに近い人に関心を持つ余裕を作りたいと考えている。若者と高齢者の格差をどのようにするかは?もう、日々の人と人との会話や外出をして、1人でも多くの人々との触れ合いの中から接点、協力関係が作れるように、若者との接する機会を作りたいと考えている。
 祖父が岸信介、大叔父が佐藤栄作、父が安倍信太郎、政治家一族のひ弱な安倍信三が新薬の効果などで強い安倍信三に生まれ変わったと云っている。祖父の岸信介に溺愛されたそうだ。また、投げ出すかもしれないと思っている。
by rakudazou | 2012-12-18 03:17 | 《エッセイ》中村陽子

2012年12月の風景

騒がしい12月の風景
  1年が早いというのか、世の中は騒がしさに満ちている。d0019913_043531.jpg年末、国会解散をして国民の立場より、己の勢力の拡大ばかり考えているのか?師走の騒がしさの中でお互いの攻撃合いばかりして、何処に居ても「お願いします」とそんな時だけ手渡そうとするし駅の前に出ると「○○さんをお願いします」と寒い中で合唱し誰にでも手を振っている。この人たちはバイト料でもらっているのだろうか?当事者の誠意で活動しているのか?みなん我が家のひとときを犠牲しているのだから天使の使いかもしれない。Twitterで「民主がダメなら自由民主党に入れようなんて人は狂った大人だ!!」だと云われているそうだが、この件には賛成である。
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最近は何かの名目で被災地の名産物を売っていたり、被災地の捗らない現実の大変さを見る度に、d0019913_071978.jpgあの昨年の3・11のために送った義援金は本当に意味をなしているのかと疑いたくなる。先日も銀座の宝くじを買うチャカスセンターの側で街頭で被災地で飼い主が居なくなったり見つけられない沢山のぺットたちのエサを買うためのカンパをNP0法人の若い人々が呼びかけをしている風景を見て、素通りしようとしたが捨てられた我が家の猫のハナ太郎のことを想うと心ばかりのカンパをしたら大声で全員でお礼を云われて、昔、仲間たちとカンパ活動を何度となくしたが大小の金額には限らずに入れたくれた人は「とても良い人に思えた」頑張って下さいの一言に暖かい胸の内を思い出してしまった。d0019913_081812.jpg
そんな冬晴れの日、何となくまとまって「おばさん3人組み」が20数年ぶりに新宿の伊勢丹に繰り出した。3人とも電動車いすでかっぽすると相当に目立つはずで食事をすることが目的でプレゼントを交換して、これは長い間の感謝の気持ちが入っている。2人のおばさんは地元だからという訳ではないが、私は夕方5時過ぎに伊勢丹に近いエレベーターから新宿駅の地下道でJR線を探したが、余りにも広くて人混みが多く路線の表示も方向が分からなくなっていた。
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12月7日、再び、東北地方で大きな地震で都内も相当揺れたらしいがそんな地震があったことも知らないで、ようやく駅員さんに案内されて、品川駅までは順調であったが京急に乗った途端に電車が走り出したり止まったりして、何を聞き違いしたのか?「羽田で地震があった」と聞いて30分ほど遅れて帰宅し「東北でМ7・3の地震であった」ことを知って驚いた。大事に至らなくて本当によかったと思ったが、私自身は何処で何か起こっても動かないでじっとしてようと思っている。自宅で一人でいる時の危険が一番が最も怖いといつも感じて生活をしている。
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12月9日、近くに用事があり、ついでに直ぐ近くにある区役所で期日前選挙に行った。d0019913_0124281.jpg日曜日のこともあり、子供連れや家族での投票する人が多かった。都内では一部の区では最初から地域の出張所で出来るのだが人員不足とかで、出かける人々の利便性より本来の縦割り行政の仕組みを崩したくないと感じている。高齢者社会の中で高齢者が少しでも多く選挙をすることにより民意の意志が反映されると思うが、独り暮らしの人々の通院とか買い物などの外出の機会を利用してはヘルパーに付き添ってもらって自分で投票所に自らの一票を投じることが大事なことではないか?といつも感じている。私も電動で出かけたので職員の迷惑らしい視線は感じたが今後も主張は訴えて行くつもりである。
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 d0019913_0144319.jpg街に溢れるクリスマスイルミネーションの夜景を遠くに見ながら、きれいで美しいとは思うが年末商戦の狙いは何処でも同じである。本当の幸せは我が家にあると思う。私が身体の限界を感じ出した頃、1度で良いから誰にも気がねしない旅行をしたい!!それも音楽の国のウィーンを中心に宿を取り、一人で街中を散歩したり夜には同行の女性アテンダントと共に車いすのままで近くの芸術協会でモーツアルトの生オケストラを聴いたり、d0019913_0163054.jpgオーストラリアとドイツの旅を楽しんだ。今頃になるとドイツの小さい古い街を訪れたことを思い出すのである。季節に関係なくローテンブルクと云う街、クリスマスの世界でクリスマスに必要な物は何でもとても小さい物、大きい物、クリスマス用品ばかりのいろんな店がいっぱいあったのには感激した。ローテンブルクを訪れる人々は殆どクリスマス用品を目当てに訪れるとの話であった。店先にはみんな風見鶏があり、それをみるとなんのお店なのか昔から変わらずなっている。静かでロマンチックな心に残る街であった。d0019913_0173768.jpgこれは私の心の財産であり、思い出をいっぱい作ることは行動が困難になった時、在宅になった時でも心の中では誰でもあると思いうが、無い人よりはとても幸せななことだと今、実感しています。我が家の今年のクリスマスはサンタと雪だるまd0019913_0211718.jpgに音楽が流れると雪がサラサラと降るようになっている。毎夜、猫のハナ太郎のぬくもりと吐息を感じながら、年末に例年の行事の年老いた母との過ごす1週間をどのようにたのしく過ごせるか?考えてながら、私の多くの知り合いの健康と幸せを祈っています。




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by rakudazou | 2012-12-12 00:25 | 《エッセイ》中村陽子