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by rakudazou

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春風に乗って
 冬空が晴れている2012年2月末日、暖かい部屋でウトウトとまどろんでいた時に急に電話のベルが鳴りぼんやりした頭で受話器を手に取ると年配の女性の声が流れて来た。「私は高橋健の従妹の1人ですが、高橋健が亡くなりました。最後まで生きるつもりで頑張っていましたが、多くの皆様にお世話になりまして感謝しています」と、心に感じない声で知らせであった。

健さんとの40年以来の交流 
 d0019913_15245729.jpgそれは半世紀にも渡る、高橋健さん自身の人生の3/2は母亡き後はひとりぼっちの孤独の生活であった。健さんとの長きに時を経ても母の心が支えであった。1人で生きると言うことは孤独な生活である。それぞれと生活環境も異なってもひとりぼっちで生きる虚しさや寂しさは充分に分かっているはずである。経済観念はしつかり者であった。楽しかったことよりは辛かった事が懐かしく思い出として残るのは何故なのだろうか?d0019913_15265278.jpg
「行きたい!!」と、いつも期待感でいたように思う。健さんが昭和6年の生まれだと知って「俳優の高倉健と同じ健さんだよね」と言うと、恥ずかしそうにはにかんでいた。何故か?私の愛した人と同じ生まれだということだけで年々と歳を重ねる姿に愛した人の姿を見ていたように感じる。健さんが亡くなった1年後、俳優の高倉健さんは2014年11月に亡くなり、名優の存在が重く凛と輝<きみんな良い人は先に死んでしまう。

偏見を乗り越て
d0019913_15285789.jpg いつの頃か、健さんは喜怒哀楽を軸として生き甲斐に代えて生きて来た。苦楽の「光と影がハツキリと見えて来るような追憶を感じている。
 忘れもしないあの日から10日程前に健さんから電話があり、2月~3月は水戸の偕楽園の梅祭りをしているから[行きたいよ]と云う、多分、TVニュースで観たので急に行きたくなったのであろう。梅の産地で有名な水戸の偕楽園に出掛ける事になった。d0019913_1531126.jpg
最初は「いくら?」と訪ねて、行きたい場所に出掛ける条件が納得すれば参加する、その積み重ねが、健さんの半生は「「出かけること」「旅行をすること」がすべてであった。健さんは2012年2月4日、春分の日、春風に乗って、3月26日が訪れると83歳になれるのを待てずに82歳の生涯を穏やかな終焉を迎えた。
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最後に会った時
d0019913_154022.jpg 健さんと最後に会ったのは、はない光景は私だけではなく生涯の痛みであり、安全だと思っていた日本原発の汚染も多くの次世代の人々にまで影響をあたえるショックな出来事が重なり、世界で唯一あの東日本の大地震と福島の原発が起こった日は忘れもしない2011年3月11日の起こった少し前であった。今でも思い出すと恐ろしい無残な現実が正夢になり、次々と襲って来る地震と津波の繰り返しをTVで見ていた東日本大震災には自然界の恐ろしさはこの世のもので、原爆の被爆国なのに、現在を司る企業や政治家に更なる不信感を抱き生きるなんて・・・」と、まるで急かせるように頼み込んで来た。d0019913_15413149.jpg
友人のМ氏の運転と介護も頼んで健さんの希望が適った。健さんの体調の変化は最近会う度に衰えているのが感じられていた。旅に出ると楽しさの余り我儘になるが、この頃は常に「これが最後かもしれない」と、会う度に感じるようになった。
 d0019913_183972.gif梅の花はひそかに甘い香りを辺り一面に漂わせていた。「真っ白い花と紅梅が交差して香り高き上品な花びらである。梅の樹は幹が成長するのも長い年月がかかるが、桜の花とは違って花が咲いても長く楽しませるし、桜の樹は枝を折るといけないが、梅は枝を線引きすることにより更に良い樹になり美しい花を咲かせると聞いている。
 車イスを少し近寄って花びらを見ると澄み切った空を見ると心爽やかになりそこでしばらく寝てしまった。昔、訪ねた時は、車いすでは入口の辺しか見られなかったが、今は次々とエレベーターやスロープが出来てバリアフリーになっていた。私は自分の電動車いすさえも操作に自信が無い初心者で出かけたので、健さんたちとはいつの間にか遠く離されてしまい、入り口の平らな辺の散歩をした。
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誘致した映画
 d0019913_1654477.jpgこの近くには茨城県と映画会社が提携して、何億円もかけて実物大の立派なオープンセットが作られてありこの時は『桜田門の変』というオープンセットがあった。観光スポットにと考えているらしい。私は新年に上映した映画を見たが、健さんたちは時代劇の主人公になったかのように2人はとても楽しめたようだ。
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満足した焼肉ランチ 
 d0019913_19193938.jpg次は少し遅いランチ、健さんは焼肉が食べたいと言い出し、車いすで入れる店を探しながら車が走らせていると間もなく幸いにも焼肉と書いてあり大きな看板が見えた。大きな駐車場もあり、店の人に頼んでみると快く引き受けてもらい車いすでもokであった。健さんは外食する時にはお腹の空いた子供のように慌てて食べるので、喉にでもつかえたら大変なので出来るだけ柔らかい肉を特別注文して「うまい、うまい」と本当に幸せそうに満足そうして食べていた。確かに値段の割には美味しい焼肉の店であった。d0019913_1922699.jpgお勘定の時、健さんは大大判振る舞いをする「本当にいいの」と尋ねると「いつもお世話になっているからね」と笑顔に満ちた感謝の気持ちであった。

行商と健さん
 d0019913_1323496.jpg健さんは新宿の生まれではないが生涯の殆どを新宿富久町で過ごした。この街に半世以上紀も1人で住んで歩いて暮らした。目に止まったのはいつも同じ場所にいて片杖を持ち立って何かを待つ姿であった。
 国立障害者障害の施設のロータリーの付近で側には医務室や病棟があり、勤務医、看護婦さんたちが手招きをすると彼は嬉しそうに中へ入って行った。想像するのには、行商をしていたと感じた。少しでも自分の力で稼がないと様子を知っている人にはニコニコと話掛けていた。時には医務課の人が手招きをすると嬉しそうに少し大きなカバンを肩から斜めにかけて中に入って行き、多分、親切な職員たちがタバコやストッキングなどを買ってくれていたのだと思われた。目が不自由でもないのに身の丈より高い白い杖を付いて坂道を下って来る健さんの存在がその頃に始まっていた。週にⅠ~2回程度の割合で訪れて、決して正面玄関のからは入って来ることはなかった。過去はすべて行き先々で捨て去り、いつも前向きに夢を持ち続けていたである。
悲しみは当たり前の事として心に呑み込み、それが最も誰にも迷惑を掛けないことだと信じて、後に判ったことはじっと我慢して生き続けたのだった。d0019913_19242940.jpg
 40数年間を語り尽くせないほどの話を行動で語っていたのだろうと思う。本当に大きな病気もせずにひとりで生き抜いて来たことは、健さんの生き様は意地や怒る根性は動物的な本能で自分にとって「よい人か悪い人?」をしつかりと見極めた。しかし、ずっと我慢しなから暮らすことは重度な障碍を持つ宿命でもあり理解出来る人も多いと思う。

やさしいヘルパーさん
 d0019913_1926487.jpgその当時のヘルパーさんの佐々木(仮称)さんはいつも健ちゃん、健ちゃんと呼んでまるで傍から見ていると肉親のようによく世話をして可愛がっていた。周辺から見ていると人生の最後に佐々木さんのような健さんの気持ちになって世話になり、ひと時の安らぎを多く得られたことは幸せな事だと感じている。この数年は会う度に少しずつ身体の衰えは感じ始めていた。
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佐々木さんはとても家庭的なヘルバーで、もしかしたら遠い先に逝った健さんの母の姿になって健さんの世話をしているのではないか?思われる程にやさしく仕事の領域を超えた介護ぶりだといつも感じていた。健さん自身も言語障碍がひどく字を書けないために生活の日々に常に心から頼っていたと思う。献身な世話の仕方ふりは健さんの身に付けている物を見ただけで感じられた。


Gパンとサスペンダー

 健さんは生涯Gパンでサスペンダーを愛用していた。それも細身のために健さんの身体に合うGパンを探すのには大変でいつも苦労していた。めったに無い細身のGパンを見つけ出すことが出来た時にはとても嬉しそうに買い求めて大切に使っていた。そして、家の中では両手で膝をずって動いていたのでGパンの膝の辺りが一番早く傷むのは仕方がなかった。
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そんな時には佐々木さんはGパンを後ろ返しにして1刺、1刺ずつ裏側から布を当てて何度も縫い直して履き尽していた。大切な時計のバンドが壊れると健さんは手先がとても不自由だったので佐々木さんはGパンによく似た布でバイヤスにした布の輪の中に時計を通して簡単に使えるように作り替えて健さんの大切な時計は生まれ変わり、健さんはとても嬉しそうに私たちに自慢をしては見せていた。
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by rakudazou | 2015-07-22 14:26 | 《エッセイ》中村陽子
カナダでの誕生日
 私たちの旅行は旅行中に誕生日の人がいたら参加者みんなで資金を集めて誕生日プレゼントを風習があった。「完全参加と平等」をテーマにカナダのバンクーバーで1982年に国際会議を目的に出かけた。その後、旅行のメィンであったトロントのナイヤガラの滝に行った時のこと、最後の晩餐の日は健さんの誕生日であることに気づき本人には内緒で着る物にはうるさい健さんに合うトレーナーをいろいろと探した。ハイネックで細い首や身体にフィットしないとダメなのは知っていたが、健さんが喜んでくれそうなモスグリーン色のトレーナーを見つけられた。d0019913_1932511.jpg
 最後の晩餐の中頃になり「健さん、お誕生日おめでとう!!」と、代表の人が贈ると健さんはパッと顔を恥ずかしそうに輝かし、たどたどしい口調で本当に嬉しそうに「皆さん、どうもありがとうございました」と礼の言葉を言い、プレゼントを開けて「僕にぴったりだよ」とまた、満足そうに喜んでいた。d0019913_19335042.jpg私をそっと呼び出して「陽子ちゃん、みんなにワインかなんかご馳走をしたいのだけど・・・」と相談されたので、そんなにお金を使ってはダメよ。みんなの好意を受け取っておけばよいのよ。と止めたが、この時も嬉しさの余り気持ちはよく判るが健さんは大判振る舞いを一度だけでもしたかったのであった。

健さんやめて・・・
 
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今で言うキャビンアテンダントが私のいる座席に来て「お客様の一緒の方だと思いますが、機長などいるコックピットの前で中を見たい」と動かないで困っているとの話である。「アッ、健さんだ」と直感で分かった。確か、スペインへ行く飛行機の中での出来事であった。この時も小林真巳さんもアテンダント兼カメラマンとして同行していたので、直ぐに小林さんが現場に行った。健さんは止む無く自分の席に戻ったが不満顔であった。何にでも興味を持ち特に乗り物は大好きで、思い経つと何を行動するか?分からない人でもあった。許される我儘もあるが今回の健さんの単独行動は我儘だけでは絶対に許されない事を話すと「僕は中をチョット見せてほしいと思っただけ・・・」との返事であった。コックピットの中は精密なシステムが多く有り機長と副操縦士と2人だけしか入る事の許されない、多くの乗客と従業員人の大切な命を目的地に到着するまで最も大切な任務と責任を果たさなければならない場所に「見たいとか、入りたいとか」一般の乗客が思うこと自体許されない行為だと話し、トイレでも小林さんと一緒でないとダメよ。1人で飛行機の中を歩かないでね。と念を押した。さり気無く平等に満足とはいかなくとも出来るだけの努力をし、常連の人、初めて知り合った人では気の使い方も違ってくる。d0019913_1938756.jpg
 健さんの場合はもう「当たり前」と思っているし、乗り物はすべて窓際を希望している事は分かっていたが、すべて希望道理に行かないことも当然あり、同行する添乗員、アテンダントの努力により、少しでも快適さを感じてほしいと努力で多少の均等性は守ることは出来た。

飛行機の中で
 d0019913_19393993.jpg 特に飛行機は身体の不自由な人々を優先して乗せる。国内線、長距離の海外も、事前に少し歩行が出来る、全く出来ない人を報告しておくことにより、往復のそれぞれの障碍の現実と存在感を敏感な人なら理解出来ると思う。出来る限り参加する人々を優先に考えていた。あの飛行機の乗り口までは殆ど自らの車イスのまま移動が出来るが、少しでも座席の両サイドに掴まりながら歩行可能な人はスタッフに補助されながらでも歩いて自分の席に就けるが、歩くことが出来ない人は入口で機内用の車イスに乗り換えて、入口の段差を上げられると両脇の車輪が外されて安全ベルトをX状に掛けられて「最初の印象」は、飲料水の箱を積み重ねて、グッと後方へ倒されて運んでいる頃の姿と同じだと思った。座席の狭い空間を両手の自分の両肩に組み小さな後輪の動きで通路側の席に着くのがこの業界の常識とされているようだ。
 飛行機には幾つかの暗黙なシークレットな部分があると、私はいつも感じている。d0019913_19413564.jpg現在は足元がおぼつかない高齢者の利用度も多くなって、果たしてどのように変化したかどうか分からないが、当時、いろんな人々と飛行機を利用する場合にはいつも座席の順番ではとても悩んだ。シークレットな部分とはどこの飛行機会社でも「最悪の事態の想定」がある。そんな時には1人でも多くの命を救うことは当然、しかし、私たちのグループの統一、満足度も100%とは行かなくとも心配りは忘れてはならない。d0019913_19455766.jpg席の譲り合いが解決策になる場合もある。何故か?窓際を望む人が多い事は窓の外を見たいと思うが、想定外の出来事があった時に、身動きの出来ない人々を窓際の席に座らせることにより、結果としては多くの人の命を助けられると言う想定が出来ているとも聞かされている。

スイスでの出来事  
 
d0019913_19442158.jpg何よりも山の大好きだった健さんは、以前からスイスに行きたいと話していた。健さんの他にも是非企画してほしいいう人が4人になったが、私には身体にも経済てきにも負担の大きい旅となった。今から時は過ぎ去るのは早いもので14年前の事である。d0019913_19323788.jpg
 当時、私の父は何時どのようになっても不思議では無い時期、少しでも元気でいる時に会っておこうとスイスに行く前に実家に出掛けた。父はベッドから起き出して来て「あぁ、陽子か、お前は何時から車イスに乗っている・・・」と言われた時には驚きと既に脳裏の半分は夢の世界にあると思った。母は「仕事が優先だよ」と言って見送ってくれた。d0019913_19473112.jpg
 このような時にやはり頼りになるのは小林真巳さんで静岡から駆けつけてくれた。長野市からは佐藤孝さんが車イスで連日と言うように長野市周辺の人々が渡航の足として往復のタクシーがあり、バスより楽で相乗りではあるが格安値段で参加が出来た。私を乗せた当会の車両は、横浜市保土ヶ谷の小野和子さんと新宿の高橋健さんを迎えに行き成田空港の南ウイングに集合し一路、日本から唯一直行便が就航するスイスの玄関口チューリッヒへと向かい、スイスに滞在中の添乗を兼ねた女性のアテンダントとして、イギリスから来てくれた友人のクック山口陽子さんと落ち合う約束になっていた。少人数でのスイスへの旅は、今まで何かと協力支援を惜しまずに参加してくれた、小林真巳さん、山口陽子さんなどの旅慣れた人々のおかげで何とか実現までには至った。チューリッヒの空港に到着すると山口さんが先に来て待っていた。チューリッヒは経済、文化の中心であり中世の建物やローマ時代の名所も数多く残るマルチな都市であり、思い出として心に残るのは市内を観光してヨットなどが多く停泊する港町の印象であった。
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 d0019913_19362510.jpgチューリッヒに1泊して、ユングフラウ地方には、観光の拠点となる山岳リゾートがいくつかあった。グリンデルワイドはアルプスに抱かれた山岳リゾーマッターホルンの麓町ツェルマットに2連泊、贅沢な山岳リゾートである。ここはガソリン車の乗り入れが禁止され、ツェルマットに入る直前まで自動車で行き電気自動車が出迎えられて美しい空気が保たれ、健さんたち一行も綺麗な空気に生き返った様子である。端から端まで歩いても30分くらいの小さな町で見上げるとマッターホルン(4,478m)の尾根が目の前にそびえ立ちアルプスに訪れた感動で満ちていた。d0019913_1464754.jpgある人に聞いた話であるがスイスの国ではマッターホルンの山の事を「緑の中にある角」と呼んでいるように大変険しい山である。メインストリートに立ち寄りお土産物屋を見て歩き楽しんだ後は、ホテルではなくツェルマットの町の小さなレストランで夕食、勿論迷わず選んだのはチーズホンジュでみんな美味しそうに本場の味を楽しんだ。
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アルプスの山々
 d0019913_1395676.jpg 山の大好きな人々は登山電車に乗る事をたのしみにしていた。登山電車は天井から窓も広くアルプスに抱かれた山岳地帯は緑の草原が遥か遠くまで続くハイジの世界、私は絶景を走る電車が次第に山へ山へと昇りに連れて空気が薄くなるような気がしたが、中央スイスアルプス走りユングラウへインターラーゲン駅で下車、みんなは降りると少しでも高い所にどんどんと行ってしまったが、標高の高さの中いる私は空気が薄く息苦しく感じられて、私はみんなから引き離されて「寒いかもしれない」なんて言われて来たがとても暑い日で、私は疲れてしまって「どうせここに戻って来る」のだからと休憩するつもりで周囲を見ると、あのセントバーナード犬が日陰で大きな身体でやはり休憩?だろうか、白い濡れたタオルを顔に乗せて息を荒く寝ている様子を見ていると面白い風景が見られたのである。d0019913_1923421.jpg飼い主が口笛を吹くとスッと元気に起き上り、観光客との間にしっかりと座り記念写真を撮ると褒美におやつをもらうとまた、日陰でタオルを顔に掛けてもらい寝転んでそんな仕草を何回も繰り返しセントバーナード犬も立派に仕事をしている様子が今でもよく覚えている。
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旅先でのわがまま 
 
そんな私の側に現地の日本人ガイドさんが困った思惑で来た。d0019913_19544411.jpgまた、健さんが問題を起こしたらしい。マッターホルンや山並みが少しでも近くで見ようと参加者も添乗員、アテンダントと歩いて出かけて行ったのだが、いつも誰よりも先に無理な事さえも興味を示す健さんは展望台の処まで連れてってほしいと山口陽子さんにせがみ、健さんは彼女におんぶしてもらって展望台まで行ってしまったが、他の参加者も健さんが連れて行ってもらったのだから是非に行きたいと涙ぐんでいるのである。登山電車に乗る時間も近づきガイドさんが調べた事ではケーブルカーがあったようだが今更間に合わないし、他の2人は折角来られたてのに健さんだけ行けて諦め切れないと旅行先では予定以外の行動をする事によりトラブルになる。山口さんに詳しく聞くと「ちょっと先までと言うのでおんぶしたが、もっともっと言い出し背中が痛くなったが行く事態になった」と話した。d0019913_2024981.jpg私は健さんに「どうして少ない参加人数で来て、予定以外の行動を取ったの?他のみなさんも行きたいと泣いているでしょ」と尋ねる「お金を払えばいいでしょう」と言った健さんに私はムカツと来て「このような時にはお金を出せばよいと言う問題では無い、1番年上で不自由な健さんは皆と仲良くして行かないとならないのに!」と遂に叱ってしまった。健さんは皆さんに誤りこれからの旅行中は同じ行動をする事を約束して他の皆さんには止む無く諦めてもらったがルール違反はよくない行為であったと思う。
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 しかし、その後、ユングフラウヨッホ3,571mまでの約1時間の乗車中、アルプスの自然を体感出来る停車駅がから氷の海”を意味する氷河電車に乗ってガラス張りの窓からは、広大な氷河が眼前に広がり、みんなは真夏の暑さから氷河の寒さで大感激で納得してもらってよかったと思う。ここから郵便ポストから記念の手紙を送った様子である。
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ゆかりの地で思い出作り 
 
d0019913_20111912.jpg最後の快晴のスイス滞在はオードリー・ヘップバーン ゆかりの地、トロシュナとモルジュへでかけた。トロシュナ村は オードリーが晩年を過ごし生涯を閉じた場所で、彼女が暮らした静寂を好んだ家や十字架だけのお墓の周辺にはいつも花々が絶えないそうである。快晴のスイスの旅の最終はレマン湖の花のモルジュで散策中にはあの有名な喜劇王チャップリンの銅像があり、ドライバーのサービスでチャップリンの邸宅があると言う森の中を走ってもらったが、どこまで走っても真っ直ぐな道と森の中でかなり走った処で「ャップリンの邸宅だ」と止まって教えてくれたが、森に囲まれて全貌は見えなかった。再びチューリッヒに戻り、山口陽子さんに見送られて帰路に着いたが、成田では小林真巳さんに見送られて、出迎えてくれた車両に乗って自宅まで送迎したが、私の携帯には成田を出ると間もなく父が入院して人口呼吸器になっていると知らせが入った。d0019913_20115164.jpg

露天風呂巡りと東北3代祭り
 
d0019913_2041349.jpg私が独立して仕事をし出して間もなくボランティアとしてドライバーを希望していた男性が窓口に訪れているので、ご紹介してもいいですか?と社会福祉協議会の方から電話があった。そして、尋ねて来た人がSさんで、会社を経営していたが子供たちが後を継がないで独立をしているので、定年を過ぎて会社は知り合いに譲り、出身地である伊豆天城のご両親を数年間、奥さんと共に毎週週末には介護に通い最後まで看取り自由な身になったので、少しは社会の為に貢献したいと言い、自動車の運転なら自信が有り長距離ほど良いと当会の運転だけではなく自然と介助が必要であったが、多くの人々を雇用していた経験と人間味を生かして7年間必要な仕事も旅行の運転を通して当会を支えてくれた事は今でも感謝している。d0019913_205898.jpg
 その中でも健さんは個人的にもとてもSさんには世話になり楽しい体験をしたはずである。2人共、露天風呂が大好きでいつもSさんが東北のしなびた温泉を見つけてSさんは宿泊費と酒代は自分で持つと言い、健さんが希望すると方々の露天風呂巡りをしていた。d0019913_20124137.jpgまた、ある施設からの東北3代祭りに招待があった。私の代わりにSさんと健さんが出掛けた。d0019913_1512551.jpg仙台七夕まつり、青森のねぶた祭、秋田の竿燈まつりと見て回った。特に感動したねぶた祭の観覧席は前席を取って有って、目前で輝かしいねぶたの美しさに見惚れたようであった。日々、郷土の美食に酒に酔って文句なしに楽しかったようである。d0019913_2064140.jpg

歳を重ねる現実

d0019913_20153790.jpg 「僕は脳性マヒだから病気では死なないよね」と私に真剣な顔をして問いかけて来た。そんな時には「健さんは長年と風邪ひとつ引かないで丈夫に元気で暮らせて来た事はとても幸せな事だと思うけど、障碍と病気とは違うのよ」と答えると「そうなの・・・」と不安げな顔をして納得はしないでいた。d0019913_1544380.jpg
歳をとるとよくあることだが、健さん尿が近くなりそのことで悩みを私に相談があった。1人で歩いていた頃は何とか用を達していた。しかし、より不自由になるといろんな方法を試みてみたが更に手先が弱くなり、健さんには紙パンツを使用する他には方法はなくなっていた。最初は自ら「おしめ」と言って抵抗があったが、佐々木さんの説得で使用してみると以外にも快適で不安も解消し安心して外出も出来るようになった。しかし、どうしてもの時以外は佐々木さんのサポートに頼っていたようだ。いつの時か?この佐々木さんだけには「健さんに何かありましたら知らせて下さいね」とそっとお願をしておいた。d0019913_208717.jpg
健さんも私も1人暮らしが長くお互いに歳を年々と取って来たことが判るようになり何気なく「何かあった時には残された人が悲しむ人も少ないと思うので、どちらが先に逝っても知らせる術もないないので「自然体で寿命を全うして生きて行こうね」と、生前から健さんと私はどちらが先に逝っても何もしないことね。と約束をしていた。
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終章>
d0019913_20101173.jpg 私の知らざる健さんも沢山有ったと思うが、非常識と常識が入り混じった人生の有り方は、晩年は重度障碍者になってしまった結果は多かれ少なかれ現実は誰しもあるが、健さんは肉親には恵まれなくとも人生の思い出作りは誰よりも本人の努力もあったが恵まれた豊かな生活を送ったと思っている。d0019913_157462.jpg
 2000年に介護保険制度に入った頃から、今までの生活から不具合を感じて「僕は障碍者で高齢者ではない!!」と矛盾を訴えるようになった。しかし、晩年はティサービスにも行き、綺麗なお姉さんにいつも車イスを押してもらって最後まで人に愛された健さんであった。
 私が健さんの死を知り、健さんのような重度の障碍を持ち81年間の地域の人々に支えられて生き抜いた事実を少しの人でも知ってもらいたいと書き出したが、私もこの数年はこれまでの無理な事が一度に身体の軋みとなり入退院の繰り返しで完成する事が遅くなり「健さん、ごめんなさいね」と心から思っている。
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by rakudazou | 2015-07-22 14:12 | 《エッセイ》中村陽子
 最近の政治情勢には余りにも安倍政権のやりたい放題で、何かと言うと国民のためと発言しているが、d0019913_14281388.jpg実際は安倍晋三の名前を歴史に残すために与党の数の定数が多い時なら何でも決めればよい訳ではないと思う。7月15日の衆議院の強硬採決はすべての日本国民の意志を不幸や不安に陥れる何者でもない。特に次世代の日本を背負う若い人々、何も分からない子供たちの親たちにとっては人ごとではない。
 「昭和の妖怪」と畏れられた祖父の岸信介から安倍晋三は何を学んだのか? 岸元首相が在任中、その姿勢いで日米安保条約改定を実現した。その当時、オリンピック招致にどれだけ熱心であった事か、偶然が重なるが1960年訪米した岸は、アイゼンハワー大統領と会談、新安保条約の調印をした。承認をめぐる国会審議は安保廃棄を掲げる社会党の抵抗で紛糾。日本社会党議員を国会会議場に入れないようにし日米安保条約を強行採決したが、国会外で安保闘争も次第に激化したのである。d0019913_1432259.jpgd0019913_14302847.jpgその年の7月14日岸は暴漢に刺され重傷を負った。翌7月15日、岸内閣は総辞職した。岸は「安保改定がきちんと評価されるには50年はかかる」という言葉を残している。1964年東京オリンピック開催決定は1959年、IOCミユンヘン開催で決まった時は安倍首相の祖父の岸元首相の時代であった。安倍首相は2020年の夏季オリンピックの東京招致を重要な国家戦略と位置づけているらしい。安倍首相は祖父の「未完の夢」の憲法改正に挑む構えのようだが、「民衆の二、三歩前に立って民衆を率い」という姿勢を見習って改憲に邁進するのだろうか。祖父と違ってオリンピック招致にも熱心だが、「安保に死す」で終わった岸氏を反面教師に、オリンピック熱を巧みに利用して改憲を実現する作戦かもしれない。政府の強硬な姿勢を受けて、反安保闘争は次第に反政府反米闘争の色合いが強くなって、全国に日本の将来を憂いて運動が拡大広がっている。d0019913_1433382.jpg
 拉致問題せよ一向に進展はせず、3.11の東日本大地震の後、未だプレハブ住宅に寂しく住み続けて折角と生き残ったのにどれだけの人が孤独死を遂げていることか?どれだの人々の肉親の行方が分からないままに復興もままならない現実、福島の原発地近くに住んでいた多くの家族は我が家や墓に永遠の別れを告げ、未来のある若者たちはこれから生まれ来る子供のために別れの場にも立ち会えなかったと聞いている。原発の放射汚染の汚染物か何処にいくかも分からないまま、どれだけ有るのか無いかさえもハツキリはしていない状態である。d0019913_14351977.jpg
 解決されていない事が先決ではないのか?高齢化社会がこれから20年は続く増える中で、今、介護、医療費は受ける側は8月から2割負担の人々が増えても年金は目減りするばかり、病院のベッド数も減らすと言われている。また、介護士も看護師も医師も勤務医は大学病院でも総合病院でもアルバイトをしなければ生活が出来ないと両者からの悲鳴が聞こえて来るようだ。d0019913_1452313.jpg弱い者虐めばかりして、安倍首相を始めとして自由民主党の政治家の皆さん介護の現場で働いて見てくださいよ!!
by rakudazou | 2015-07-20 14:28 | 《エッセイ》中村陽子